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【第007話】新しい景色


世間は着実に年の暮れへと近づいていた。

足元からじわりと伝わる冷えと、吐く息の白さ。

それとは裏腹に、街全体には、どこか浮き立つような熱気が満ちている。


今日は、世間でいうクリスマスイブらしい。

もっとも、自分にとっては特別な日でも何でもない。

父さんも母さんも、それは同じだ。


今日も、自然と足はIrisへと向かう。


交差点の信号が赤に変わり、立ち止まる。

視線を落とすと、西日に照らされた影がこちらを見上げている。


(......)


ずっと一緒にいたはずなのに、いつの間にか自我を持った厄介な同居人。

近頃は、以前ほど刺々しさはなく、遠くから見守るように静かだ。

その沈黙が、かえって胸をざわつかせる。


青に変わると、影もまた寄り添うように動き出す。


二週間も通えば慣れた道のはずなのに、最近は景色が違って見える。

存在すら知らなかった電話ボックス、路地裏でひっそりと開かれている小さな個展。

見過ごしてきたものに目が留まるのは、そのせいだろうか。


頬を撫でる日差しの柔らかささえ、新しい感触に思える。

あれほど怖かった夕方の光が、今は心地よい。

歩を進めるたび、胸の奥の氷が少しずつ解けていく気がする。


(あっ、黒猫)


一匹の黒猫が、軽やかな足取りでIris横の路地に消えていった。

その影を目で見送りながら、自分へ静かに問いかける。


――自分は、こんな人間だっただろうか?


Irisの扉を押すと、ベルの乾いた金属音が店内に響いた。

外の冷気とは対照的に、温かな空気とコーヒーの香りが全身を包み込む。


「いらっしゃい」


カウンターの中にいつもの人影はない。

白髪の長身――雪峰さんだ。


「......何をやってるんですか?」


「何って、店番だ」


当然だろうと言わんばかりの口調。


「久川さんは?」


「裏で休憩中だ。今日は夜も営業だからな」


普段なら18時で閉まるIrisも、クリスマスイブは特別らしい。


「雪峰さんもカウンターに立つんですね」


「ああ。一応、この店のオーナーだからな」


「えっ? 久川さんがオーナーじゃ......」


予想もしなかった答えに、思わず声が裏返る。


「藍は店長だ。俺はお飾りで、実質、藍の店だがな」


「......。じゃあ、雪峰さんもコーヒーを淹れられるんですか?」


「喧嘩を売ってるのか?」


軽口の裏に、少しだけ愉快そうな響きが混じる。


「俺は、藍よりもこの店は古株だぞ」


「えっ......」


次々に知らされる新事実に、頭が軽く混乱する。


「君は知らないだろうが、午前中は俺が店番をしている」


つまり、今まで顔を合わせる機会がなかっただけらしい。


「まあ、立ち話もなんだ、俺のとっておきをくれてやる」


「......」


「なんだその顔は?」


「激ニガコーヒーとかを出すつもりなんじゃ」


「そんなわけあるか。君とはいえ、“一応”客だからな」


雪峰さんは、軽口を叩きながらも、器具を扱う手は無駄がない。

久川さんの淹れるコーヒーが柔らかな流れなら、彼の所作は鋭く研ぎ澄まされた刃。

一挙手一投足が、場の空気を引き締める。


やがて差し出されたカップから、深い香りが立ち上る。


「裏メニュー、哲也ブレンドだ」


「ありがとうございます」


口に含むと、柔らかな苦味と酸味が舌を包み、最後に微かな甘さが残った。

その余韻が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。


「......おいしいです」


「なんだその不服そうな顔は?」


「いや、なんかこう......優しい味わいで」


二口目を飲むと、雪峰さんがわずかに口角を上げた。


「ところで、影の方は、最近どうなんだ?」


作業の手は止めず、声だけがまっすぐ届く。


「ここ数日は落ち着いています」


「そうか。何かきっかけは?」


「よく分からないんです。ただ......最近、今まで気づかなかったことに、気づけるようになった気がして」


「......ほう?」


短く返し、視線は遠くへ向かう。


「やっぱり、水城さんの本の影響なのかな......」


「水城さん?......ああ、あの人の本を?」


「はい。久川さんに勧められて」


「なるほど」


その時、奥の扉が開き、久川さんが現れた。

雪峰さんの肩を軽く叩く。


「交代」


「ああ」


それだけで通じ合う二人。


「あと、こいつは借りてくぞ」


「こいつ?」


久川さんは首を傾げ、こちらに視線を向けた。


「いらっしゃい。ごめん、気づかなかった」


「こんにちは。大丈夫ですよ」


軽く謝る仕草に、自然と笑みを返す。


「どっか行くの?」


「いや、ちょっと見せたいものがある」


「そうっ」


短く頷き、雪峰さんは手招きをした。

その背中が、なぜか少しだけ大きく見える。

足元で影が揺れ、期待と不安が入り混じる。


視線で久川さんに問いかけると、彼女は笑顔で頷いた。


「大丈夫。行ってらっしゃい」


未知の扉に、そっと手をかける。

久川さんの視線が、静かにこちらを促す。

胸の奥で、鼓動がひときわ強く響いた。

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