表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

【第006話】追憶の女性


久川さんが薦めてくれた一冊は、ある女性ライターによる連載コラムをまとめたものだった。

週刊誌に掲載されていたエッセイのようで、日常の何気ない風景に、彼女なりの感じ方や考えが綴られていた。


哲学書をイメージしていたが、実際に手に取ってみると、肩肘張らずに読めた。

むしろ、その素朴さがかえって胸に染み入ってくる。


あれ以来、彼女の本を何冊か読んでいる。

どの作品も、語られる視点が変わらないことに驚かされる。


一貫している。

でも、押しつけがましくなく、歪みもない。

妙な偏りや、狭さがないのだ。


だからこそ、読み進めるほどに心地よかった。

普通なら、誰かの価値観が色濃く出れば必ずどこかで引っかかる。

だが、彼女の語りには、それがなかった。


――なぜだろう。


どうして彼女の視点だけが、こんなにもすんなりと胸に届くのか。

その理由を探るように、今日もページをめくっていた。


仮説はいくつか立ててみた。

が、どれも決め手に欠ける。


それでも、どこか確信に似た感覚が芽生えていた。

この“視点のあり方”こそが、自分の思考の停滞を抜ける鍵なのではないか――そんな予感が、静かに息づいている。


「ん~......」


「眉間、寄ってるわよ」


カウンターの向こうから久川さんの声。

からかうようでいて、どこか心配する響きがある。


「最近、その人の本ばっかり読んでるわね」


「ええ。気になることがあって」


「気になること?」


静かにうなずく。


「この人の文章は、視点がずっと一定なんです。でも、不思議とそれが窮屈じゃない。むしろ安心できる」


久川さんは顎に手を当て、うーん、と小さく唸る。


「なるほどね。面白いところに目をつけたじゃない」


「そうですか?」


「ええ。私もその人の考え方には惹かれたけど、“視点そのもの”について考えたことはなかったなぁ」


彼女は腕を組み、しばし黙り込んだ。

何かを思い出すように。


「......うん。もし理由があるとすれば、“距離感”かもしれない」


「距離感?」


「そう。物の見方って、角度を変えるだけじゃなくて、どれくらい“離れて見るか”でも変わるのよね」


「......“木を見て森を見ず”みたいな?」


「そう。たぶんだけど、その人は視点こそ一定でも、物事全体を少し引いた場所から見てたのかもしれない。だから偏らないし、感情に溺れない。だけど、ちゃんと伝わる」


思わず本を握る手に力がこもった。

たしかに、その人の本には――全体を見渡した静かなまなざしがあった。


「実はね、その人、昔、このお店によく来てたのよ」


「えっ......そうなんですか?」


「ええ、もう10年以上も前の話だけど」


「今は......?」


一瞬、久川さんの目が曇った。


「もう......この世にはいないの」


言葉が、静かに降りてきた。

店の空気がすっと沈んだように感じた。


「ちょうど、私がこのお店を引き継いだ頃だったわ。毎日、午後3時になると必ず現れて、決まって“スペシャルブレンド”を頼むの。何も言わずに、ノートを広げて、黙々と何かを書いてたわ」


「話したりとかは?」


「“ありがとう”“ごちそうさま”くらい。それも、まったく表情を変えずにね。正直、ちょっと近寄りがたい人だったわ」


「......そうなんですね」


「でも、ひとつだけ忘れられない出来事があるの」


久川さんの視線が、ふと窓際の席へと向いた。


「あれは、大学生くらいの子だったかな。元カレらしき男にしつこく言い寄られて、困ってる様子だったの。私も様子を見てたんだけど、なかなか介入できなくて......」


彼女は少し息をのんだ。


「そのとき、彼女がすっと立ち上がってね。ふたりの間に割って入って、こう言ったの。“相手の痛みを想像できないなんて、恥を知りなさい”って」


「......!」


「その声の静かさと迫力に、男は黙って出て行ったわ。私もその女の子も、ぽかんと見送るしかなかった」


久川さんは微笑んだ。

どこか、懐かしさと敬意が入り混じった表情だった。


「そのあと、何事もなかったように席に戻って、またノートを開いてたの。......本当に、何者だったのかしらね」


「おいくつくらいの方だったんですか?」


「五十代くらいに見えたけど、凛としていて美しかった。......あの空気をまとえる人、私は他に知らないわ」


久川さんの視線が、自分の手元にある本へと落ちる。


多くの余白。

選び抜かれた言葉たち。


その静けさが、確かにその人の視点を支えている気がした。


「いま思うと、あの人には揺るがない“芯”があった。どんな場面でも崩れない、確固とした場所に視点を置いていた......。本当に、ただのエッセイストだったのかしら」


この人は、全体の中で物事を見ていた。

どんな感情にも呑まれず、すべてを俯瞰しながら、それでも人の痛みに目をそらさなかった。

その視点が、自然と“本質”にたどり着いていたのだ。


だから、読むたびに胸に届いたのだろう。


「......やっぱり、この人の文章がすんなり届く理由は、そこにあるのかもしれません」


確信とは呼べない。

けれど、ぼんやりと漂っていた謎の輪郭が、ほんの少しだけ形を持ちはじめた気がした。


「知ろうとすればするほど距離は近くなる。でも、見えなくなるものもたくさんあるということなんでしょうね」


久川さんは、ふっと目元を緩めた。


「その感覚を持てたなら、それで十分よ」


久川さんはその本を手に取り、そっと撫でた。

まるで、過去の誰かのぬくもりが、まだそこに残っているかのように。


カウンター越しに漂うココアの甘い香りと、窓辺に差す夕暮れの光。

まだ答えは遠い。

けれど、その静けさに寄り添うように、かすかな光が胸の奥に灯った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ