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【第005話】喫茶店Iris


窓辺から注ぐ柔らかな夕陽が、店内を温かく染めていた。

この空間だけが、外の喧騒から切り離されたように、静かで穏やかな時間を刻んでいる。


この時間帯は、帰宅途中のOLや女子学生がぽつりぽつりと現れる程度で、店内はどこかしら緩やかな空気に包まれていた。

女性が営むこの店には、随所に女性らしい気配りが感じられる。

落ち着いた照明、座り心地のよい椅子、幻想的なBGM。

それらが、無意識のうちに客の心をほどいているのだろう。


そんな雰囲気のなか、自分の存在は少し場違いに思えた。

――少なくとも、最初は。


雪峰さんからあの“沙汰”を受けて以来、気がつけば毎日この店に足を運んでいる。

最初こそ居心地の悪さがあったが、今ではむしろ、この空間の静謐さにすっかり惹かれてしまった。


なぜかというと、それは――本の存在だ。


この店の壁という壁には、本棚がぎっしりと設置されている。

窓を除けば、カウンターの奥までも、本で埋め尽くされていた。


小説、エッセイ、哲学書、漫画。

ジャンルもさまざまで、それらが秩序よく整えられている。

そして、それらの本は店内で自由に読めるのだ。

本好きにはたまらない、まるで隠れ家のような空間。


客たちも、皆思い思いの本を片手にコーヒーや紅茶を味わっている。

誰も声高に談笑などしない。

空間に敬意を払い、静かに時間を過ごす――そんな気遣いが、この店には満ちていた。


自分は、店の一番奥にあるカウンター席を定位置にしている。

久川さんが淹れてくれるココアを片手に、本の世界に没頭する。

その時間だけが、心のざわめきを静かに鎮めてくれる。


時折、久川さんも手が空くと、カウンターの内側で本を開いていることがある。

美しい人が真剣にページをめくる姿は、まるで一枚の絵のように、静かに場を引き立てていた。


――雪峰さんは、あの日以来、顔を見せていない。


また一冊を読み終え、本棚に戻しに立ち上がる。

続きの巻を探し、手に取ったところで、声がかかった。


「あなたも本当に本が好きなのね」


席に戻ると、久川さんがやわらかく微笑んでいた。

どうやら店内には、他に客がいなくなっていたらしい。


「ええ。久川さんも、そうでしょう?」


「ふふ、まあ、そうね」


その笑みは、どこか誇らしげで、どこか嬉しそうだった。


「このお店も好きなんです。落ち着きますし、なぜか手に取りたくなる本が多くて」


「ふふっ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」


「本当のことです」


「ありがとっ」


久川さんはそう言うと、カップを手に取ってカウンターの奥へと向かった。

そして、しばらくすると温かい湯気を立てるココアを差し出してきた。


(......べつに、おかわりが欲しくて言ったわけじゃないのに)


カップを手に取り、口をつける。

優しい甘さが、余韻のように広がっていく。


――この味だ。

不思議と、懐かしさを感じる。


「ん......」


「どうかした?」


久川さんが、首をかしげて覗き込む。


「......前にも言ったかもしれませんが、このココア、すごく懐かしい味がするんです。理由は分からないんですけど」


「ん~、なるほどね......」


久川さんは唇に指を当て、少し考える素振りを見せた。

やがて、ぽんと手を打つ。


「まあ、いいか。話しても!」


「え?」


「実はね、あなたのお母さんも、よくこのお店に来るのよ」


「母さんが!? 知り合いだったんですか!?」


「知り合いどころか――幼馴染よ」


――何も言えなかった。

言葉が、頭の中で散っていく。

久川さんは、いたずらっ子のような笑顔を浮かべていた。


「このココアも、かおり直伝のレシピなの」


「......は?」


「つまり、あなたのお母さんが私に教えてくれたのよ。学生時代、一緒にこのお店でバイトしてたの」


「そんな話、初耳ですけど......」


「でしょうね。かおり、自分のことあまり話さないから」


その名を聞いて、ようやく現実味が湧いてきた。

久川さんが語る“かおり”は――母の名前だ。


「彼女の方が先輩でね。今あるメニューのいくつかは、あの頃の味を引き継いでるのよ。ココアもそのひとつ」


「......」


「昔から来てくれてる常連さんなんて、いまだに“かおりちゃんのココアください”って言うのよ」


――母が、店で接客していた。

にわかには想像できない光景だった。

それでも久川さんは、懐かしむように、笑いながら話してくれた。


「意外かもしれないけど、彼女、このお店の雰囲気にぴったりだったのよ。いると、しっくりくるって感じ」


「......そう言われると、分かる気がします」


店の空気に、母の面影が重なる。

静けさの中に、どこか包み込むような優しさがある。


「しかもね、あなたの定位置――そこ、彼女もいつもそこに座るのよ」


「......ほんとですか」


久川さんはカウンターの木目をなぞるように撫でながら、ふと、静かに言った。


「君は、かおりの子だって、やっぱり思うわ。よく似てる」


「そうですか? 自分では、あまり......」


「見た目は、お父さん似。でも、雰囲気や空気感は、かおりにそっくり。だけど......」


彼女は顎に手を当て、ジッと自分を見回す。


「かおりが親なのに、あなたってほんと素直よね」


唐突な感想に、一瞬、思考が迷子になる。


「頑固さとか、疑い深さとかがないのよね。悪い意味じゃなくてね」


久川さんは不思議さを隠そうともしない。


「あの、母さんってそんな感じでしたっけ? 俺にはそういう印象がないんですけど」


「へぇ~そうなの?」


「う~ん、俺がそう感じていないだけなのかな」


腕を組み、母の様子を思い浮かべる。


「家ではどんな感じなの?」


「えっと、淡々としてるっていうか。意見はハッキリいうけど、感情的になるとかはないかな」


「なるほどね」


久川さんも腕を組み、複雑な表情を浮かべた。


「スタンスや意見がハッキリしている点は、見方によっては、頑固なのかもしれません。疑い深いかぁ......」


「ん~、親になって、自分を律するようになったってことなのかしらね」


「俺には分からないですけど、素直さに関しては、父さん似かもしれません。父さん、ポワーってしてますから」


「確かに」


思わず彼女も苦笑いだ。


「色々な意味であなたの将来が楽しみだわ」


久川さんは、いたずらっぽく笑ったあと、ふと真面目な顔になる。


「ところで、考えは進んでる?」


「考えてはいるんですけど......考えれば考えるほど、出口のない迷路に迷い込んだみたいで」


「ふうん、なるほどね」


そう言うと、彼女はカウンター奥の本棚へと手を伸ばす。

一冊の本を取り出し、懐かしむように表紙をそっと撫でてから、自分へと差し出した。


「これ、読んでみたら?」


手渡されたのは、一見すると地味な装丁の一冊だった。


「小説ばかり読んでるなら、ちょっと違う視点もいいかなって」


ぱらぱらとめくると、哲学とも随筆ともつかない言葉が並んでいる。


「煮詰まっているときは、思い切って視点を変えるのも大事よ」


「......」


「不思議なもので、見え方が変わるだけで、解けてくることもあるのよね」


その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。

最近、どうにも頭が働かず、堂々巡りが続いていた。


「ありがとうございます。確かに、視野が凝り固まってたかも」


「素直でよろしい」


カウンターにふわりと漂う、懐かしく甘いココアの香りが、自分をそっと包み込んだ。

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