【第004話】似たもの同士
「知ってるんですね......」
問いかけに、雪峰は軽く顎に手を当て、少し困ったように微笑んだ。
「う~ん、知っているといれば知っているが、知らないといえば知らない。」
「......真面目に答えてください」
「至って真面目さ。事実なんだからしょうがない」
あくまで飄々とした口ぶり。
「まあ、この回答で納得しろという方が無理か」
自分で言っておきながら、彼は一人で納得しているようだった。
「そうだな、ここで重要なのは、俺が知っているかどうかじゃない、君が、その現象をどのように“認識”しているかだ」
「自分の、認識......ですか?」
「そうだ。俺がどれだけ情報を持っていようと、それはあくまで第三者視点の情報でしかない。この場においては、意味がないんだ」
腑に落ちない。
同じ事象について話すなら、情報の価値は同じではないのか?
「だからこそ、知っているとも言えるし、知らないとも言える。つまり、こういうもどかしい言い方しかできないんだ」
「う~ん......」
どうも彼との会話は、常に煙に巻かれているような気分になる。
それでも不思議と嫌な感じはしない。
「要するに、大事なのは君が語る“君の認識”だ。君の言葉で、君が認識したものを話してほしい」
「......分かりました」
雪峰も久川も、じっとこちらを見ている。
自分の中で何度も反芻してきたあの“現象”について、口を開いた。
「単刀直入に言うと......自分は、自分の影に悩まされています」
雪峰は小さく頷いた。
先を促すように、静かに待っている。
「影に魅せられるというか、吸い込まれるというか、どうしようもなく触れたくなる衝動に駆られる」
「......」
「見つめ続けていると、意識が薄れていく感じがして......」
「触れたことは?」
「あります。右手で触れました」
言葉を選びながら続ける。
「触れた瞬間、右肩のあたりまで一気に吸い込まれました。......けど、寸前で、理性を取り戻して引き抜きました」
「よく、戻ってこられたな」
口調は静かだったが、その言葉には僅かな驚きと重みが込められている。
「それ以来、ただの影から生命体としての影へと認識が変わり、影に対して恐怖を抱くようになりました」
「最初にその現象が現れたのは、いつ頃だ?」
「今年の、8月です」
「4ヶ月か......ずいぶん耐えたな。誰にも、相談せずに?」
「......こんな話、誰かにできますか?」
「それも、そうか」
雪峰は腕を組み、しばし沈黙した。
鼓動だけが自分の中に響く。
「自分なりに試行錯誤しました。その結果、“影を見なければ”魅せられることはないと分かりました。でも......」
「......でも?」
「最近、影の存在感が強くなってきている気がするんです。目を逸らせなくなる日が来るかもしれない、そんな予感がして......」
口にした瞬間、自分の胸の奥に潜んでいた恐怖が形を持ちはじめる。
雪峰も久川も、神妙な面持ちでこちらを見つめている。
「影を前にすると、胸が締めつけられて呼吸が苦しくなるんです」
「でも君は、その恐怖から目を背けなかった」
雪峰の声は、静かで温かかった。
「もし、ただ怯えていただけなら、今ここにはいなかったかもしれない」
「......」
「現象に向き合い、考え、言葉にして、ここまで来た。それは立派な“行動”だ」
真也は、少しだけ視線を伏せた。
「自分は、ただ考えただけです」
「そうでもない。意外と、考えること、それ自体が難しいんだよ」
雪峰は、そう言って久川に視線を送る。
彼女も頷いた。
「現実に向き合い、受け入れる。その上で、思考を深める――それがどれほど困難なことか」
「特に、この時代はな」
雪峰の語りは、少しだけ調子を変えた。
「現代は情報が溢れている。人は現実よりも刺激的な“情報”にばかり目を奪われ、気づかぬうちに、現実から目を背けてしまう」
「......それ、分かります」
真也も静かに頷く。
「科学の進歩は素晴らしい。だが、人間の内面が追いついていない。歪みが、あちこちで問題を生み始めている」
「人は皆違う。受け止め方も違う。だからこそ、それぞれの“歪み”も、形が違う」
「......なるほど」
「俺は、文明を否定してるわけじゃない。だが、現実を見つめ、考えることを放棄した先には、何も残らない」
雪峰はティーカップを口に運び、静かに一息ついた。
「――君の話を聞いて、いくつかのヒントを与えることはできる」
真也が顔を上げる。
「だが、それを答えとして与えることはできない。自分で考え、自分で見つけるしかない」
「.....え?」
「これから毎日、夕方ここに来て、考えるんだ。自分自身のこと、自分の“影”のこと、何がどう作用しているのか」
「そ、それはどういう......」
「君の現象は、夕方が一番不安定なんだろ?」
図星だった。
「ここなら俺たちが見ていられる。何か起きても対処できる」
「......なんで、それを......」
真也の疑問に答えることなく、雪峰は立ち上がった。
「答えはすぐに出ない。だが毎日来れば、少しずつ見えてくるはずだ」
そう言って、彼はさっさと出口へと向かい、店を出ていった。
「......えぇ」
唖然とする真也の隣で、久川がくすりと笑った。
「まあ、あいつなりの気遣いよ。でも、こうして話せた時点で、一歩は踏み出せてるんじゃない?」
そう言って、彼女は立ち上がり椅子を戻す。
静まり返った店内に、真也は立ち尽くした。
「......まったく、どうなってるんだ」
答えを求めて来たはずなのに、さらに問いを背負わされた気がする。
胸の奥に残るのは、解決の糸口ではなく、ますます深まった混乱だった。