【第003話】近くて遠い場所
*
喫茶店“アイリス”――その名を胸に刻み、古書店を後にした。
思ったよりも簡単に手がかりが得られたことに、むしろ不安が募る。
これは“偶然見つけた”のではない。
“呼ばれている”――そんな気配を感じる。
きっと、あの男はそこにいる。
ただ“いる”のではない。
“待っている”のだ。
気づけば足は、例の喫茶店があるという方向へ向かっていた。
衝動的に動き出したのはいいが、歩くほどに不安が膨らんでいく。
(......本当に行っていいのか?)
(もし、昨日の男が待っていたら......)
胸がざわつき、交差点の手前で立ち止まる。
赤信号を待つ間、何度も引き返そうと振り返った。
結局、そのまま踵を返し、来た道へと歩き出してしまう。
それでも数歩歩いたところで、足が止まった。
このまま帰れば、一瞬は安心できるかもしれない。
(でも、このままじゃ、何も変わらない......)
ふと、古書店の店長の顔が脳裏に浮かぶ。
「行けば分かるよ」――あの言葉が耳に残っている。
そして、“哲ちゃん”呼び。
店長が“ちゃん”付けで名前を呼ぶ相手は、付き合いが長く、親しい人だけだ。
少なくとも、店長にとっては気を許せる人物ということ。
得体は知れない。
だけど、人間性はある程度信頼していいのではないか?
そうでなければ、高校生の自分に会うことを勧めたりはしないだろう。
目を閉じて、深呼吸を一つ。
もう一度だけ振り返る。
けれど、自宅へ戻る道は、妙に冷たく、遠く見えた。
(......行こう。答えを探しに)
そう心に決め、再び足を向ける。
今度はもう、迷わなかった。
人混みを縫うように駅前通りの交差点を渡ると、見慣れない景色が広がっている。
自宅の反対側ということや店舗が少ないこともあり、この通りのこちら側に来ることはほとんどなかった。
決して、遠い場所というわけではないのだが......。
同じ通りであるはずなのに、雰囲気は異なり、歩くたびに空気が変わっていくような気がする。
やがて、コンクリートの建物に挟まれた一角に、それはあった。
モダンで無機質、しかし、どこか温かさを帯びた店構え。
扉の横には、さりげなく『Cafe Iris』と書かれた木彫りのプレート。
(......ここだ)
満を持して、扉に手をかけたが、不安が頭をよぎる。
「ふぅー」
意を決して、扉に力をかけようとした、その瞬間――
「いらっしゃい」
タイミングを見計らったように扉が開き、中から店員風の女性が顔を出した。
「お客さん、でいいのよね??」
「は、はい......」
驚きと不安で、思わず肯定してしまった。
「ずっと扉の前で立ち止まっているから、どうしたのかと思っちゃったわ」
そんなに長いこと、自分は立ち止まっていたんだろうか?
「いいから、入って。入るだけならタダだから」
心の準備もできないまま、店の中へと誘われる。
「そろそろ来ると思っていたよ」
その声の方を向くと、カウンター席に一人の男が座っている。
白髪に、黒装束。
(間違いない)
「あなたを探していました」
男はゆっくりと口元を緩め、立ち上がった。
「ようこそ、喫茶店Irisへ」
手招きされるままに奥のテーブル席に着くと、男も向かいに座る。
「藍、スペシャルブレンドを2つ」
さらりと注文を飛ばす。
「あの~......」
「何だい?これは俺の奢りだから心配しなくていいぞ」
「そうではなくて......、ココアがいいです」
「なんと!Irisに来てスペシャルブレンドを飲まないヤツがいるとは!」
「そういわれても......」
やや芝居がかった嘆きのあと、男は笑って肩をすくめた。
「藍、片方はココアで」
「ハイハ~イ、ちょっと待っててね」
明るい声が返り、女性はカウンターへと戻っていった。
別に、メニューはスペシャルブレンドだけではないだろうに......。
「さて、何から話そうか?」
男はそう言って、改めてこちらに視線を向ける。
その視線に射抜かれた瞬間、背筋が凍りつき、言葉が喉に貼りついた。
(何を話そうと言われても......)
男は何かを察したのか
「まずは、自己紹介からいこう。俺は、雪峰哲也。“探偵のようなこと”をやっている」
「探偵......のような?」
「まあ、探偵といえば探偵だが、普通の探偵とは違う」
言葉遊びに巻き込まれているのだろうか?まったく要領得ない。
「まあ、その内、分かるだろうから、探偵ということにしといてくれ」
「はぁ......」
自由に解釈してくれということだろうか?
「じゃあ、次は君の番だ。」
「日影真也......高校生です」
雪峰はニヤッと微笑むと
「日影くんね...。今日はどうしてまたIrisに?」
白々しい、あなたが誘ってきたんだろ。
その視線を感じたのか、雪峰は肩をすくめた。
「そう睨むな。別に取って食おうってわけじゃない」
冗談めかして両手を上げる。
そのタイミングで、自分の目の前に、優しくココアが置かれた。
「はい、スペシャルブレンドとココアね」
甘いココアの香りが、ほのかに漂っている。
女性は、隣のテーブルから椅子を引いて、2人の間に座った。
「お店はいいんですか?」
「今日は17:00で閉店だから」
まわりに見渡すと、店のブラインドはすでに降ろされ、外の騒がしさから隔絶されている。
「久川藍よ。よろしく」
「......よろしくお願いします」
自然と頭を下げた。
(なぜだろう。明るく優しげなのに、その奥に底知れぬものを隠しているような気がする)
「じゃ、本題に入りましょ」
場の空気が少し引き締まる。
数秒の沈黙のあと、雪峰が切り出した。
「まずは、そうだな......、君は、科学では説明できない、超常的な現象があるといったら信じるかい?」
唐突な問い。
だが、すでに自分にはその答えがある。
「信じたくはないけど......あると思います」
「なるほど......では、質問を変えよう」
雪峰は目を細めて、じっとこちらを見ている。
「君自身、何かしらのその現象を知っている。これはどうかな?」
視線と言葉が自分を射抜く。
(どう答えるべきか......)
「私たちは、それを知って、あなたに何かをさせようというわけではないわ」
久川がやさしく言葉を挟む。
「私たちは、あくまで探偵。調べたり、手伝ったりすることしかできない。もどかしいことにね」
しばしの沈黙のあと、自分は頷いた。
「......分かりました。雪峰さんの質問に対する答えは、Yesです」
「そうか」
雪峰の声は、静かだった。
でも、どこか覚悟を決めるような重さがそこにはあった。
「君は、その現象を説明できるかい?」
「分かる範囲でなら」
「それで構わない」
互いに目の前に置かれた飲み物へと手を伸ばす。
優しいココアの香りと味が広がり、どこか懐かしい気持ちになる。
「......おいしいです」
「あら、うれし」
久川が満足げに微笑む。
「藍が素材選びからレシピまで全部手掛けているんだ」
「それは、おいしいはずです」
「当然だ」
なぜか、雪峰が誇らしげだ。
「不思議な味です。初めてのはずなのに、懐かしい」
それを聞くと、雪峰と久川は、キョトンとし、目を見合わせた。
「ふふ、そういうこともあるのよ」
「だな。よくあることさ」
はぐらかされた。
だが、その笑みの奥には、何かを知っている者の確信が見えた。
いつの間にか、妙な緊張もどこかへ行ってしまったようだ。
再度、ココアを口へ運び、気持ちを整える。
「ゆっくりでいい」
「......ありがとうございます」
怖そうな割には、気が利いている。
静かに息をつき、再び視線を合わせる。
「......一つ、聞いてもいいですか?」
「なんなりと」
雪峰は両手を開き、応じた。
「雪峰さんは、自分にどんな現象が起きているか、知ってるんじゃないですか?」
問いが落ちた瞬間、空気が一段冷えたような気がした。
「......知っていると言ったら?」
その言葉と同時に、雪峰の視線が突き刺さる。
その目は、“もう後戻りはできない”という覚悟を、自分へと強いていた。