【第001話】心の絆
(......ここは?)
目を開けた先に広がっていたのは、深い闇だった。
見慣れたはずなのに、やはり最初の一瞬はざわつく。
でも、すぐに気持ちを落ち着けた。
(......そうか。彼女の“心界”に呼ばれたんだ)
肌をなでる空気は冷たい。
ただ、これは気温ではなく彼女の心の反映に過ぎない。
思念体の身に寒さなど関係ない――理屈では分かっているのに、肩がひとりでに震えるのは不思議だ。
周囲を意識する。
今日は妙に空気が澄んでいる。
心界特有の圧迫感も、ざわつきもない。
息をするのが楽だ。
(拒絶されていない。むしろ......受け入れられているのか?)
ここに来る前の、あの態度を思えば信じがたい。
不思議と、存在も足元も安定している。
他人の心に踏み込むのは、気分がいいものじゃない。
本来なら避けたい領域だ。
それでも――彼女が呼んだのなら、応えるしかない。
歩き出すと、温かさや冷たさが交互に肌をかすめていく。
想いの断片が近づいては遠ざかり、何かを伝えようとしている。
その度に、胸の内に、細やかな欠片が擦れ合うような痛みが広がる。
歩きながら、彼女の姿を思い浮かべる。
強気で、口は悪くて、俺を振り回してばかりで......なのに、なぜか隣にいることが増えた。
悔しいが、俺は彼女に言い返せない。
いや、本当は――言い返したくないのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
(......泣き声?)
胸の内が波立つようにざわめいた。
思わず足が早まる。
光が、暗闇の奥に小さく見えた。
近づくにつれて、それは人の形をとっていく。
制服姿の少女が、膝を抱えて座り込んでいた。
(来栖......結月)
言葉が喉元で止まる。
声をかける前に、彼女が顔を上げる。
大きな瞳に溜まった雫が、今にも零れ落ちそうに揺れていた。
彼女はそれを見せまいと、慌てて涙を拭った。
「......なんで、あんたがいるのよ」
それは、問いかけるというよりは、独り言のようだった。
俺は苦笑した。
「なんでだろうな。俺にも分からん」
彼女の隣に腰を下ろす。
沈黙が降りる。
でも、その静けさは不思議と嫌じゃなかった。
「こんなはずじゃなかったのに」
かすれた声に混じる自嘲。
胸の奥に細い棘が触れたようだった。
思わず軽口を叩いた。
「俺と出会ったのが、運の尽きだな」
「なにそれ?」
涙顔がほんの少しだけほころぶ。
それだけで、少し救われた気がした。
「私は......一人で戦っていけるよ」
強がりだ。
分かっている。
声が震えていることが、その証拠だ。
「俺も一緒に戦う」
「......えっ?」
驚いたように目を見開く。
自分でも驚いていた。
声が、自分の意志よりも先に飛び出した。
「だから、俺も一緒に戦わせろ」
言葉にした瞬間、胸の内で、微かな温もりが静かに広がっていく。
「......あんた、そんなこと言う人間だっけ?」
からかうように笑う。
でも、その目は揺れている。
自分でも似合わない言葉だと分かっている。
それでも、伝えたかった。
「俺を頼れ。どんなことがあっても、俺は来栖の味方だ。絶対に俺が守る」
迷いはなかった。
理屈じゃなく、ただそうしたいと強く願った。
彼女はしばらく固まって――そして慌てて俯いた。
「それ......誰にでも言ってるんじゃないでしょうね?」
「まさか。初めてに決まってるだろ」
いつもは強く大きい彼女が、今は誰よりも小さく見えた。
その姿に胸が締めつけられる。
「......そんなこと言ったって、どう頼ればいいか分かんないよ」
彼女はいつも一人で抱えてきた。
誰も信じられなかった。
それが痛いほど伝わってくる。
「何も考えなくていい。ただ寄りかかればいいんだ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「......迷惑、かけるかもしれないよ?」
「ドンと来い。君からの迷惑なら光栄だ」
言った瞬間、自分で笑ってしまった。
彼女も、泣き笑いのような顔をして――
「......分かったわよ。どうなっても知らないからね」
涙はもう消えていた。
彼女は立ち上がり、手を差し伸べる。
「じゃあ、背中は任せた」
強気な言葉なのに、その手は震えていた。
俺はその震えごと彼女の手を掴んだ。
「任された。姫の気が赴くままに」
返す言葉を待ったが、返事はおろか、うつむいてムスッとしている。
代わりに、握った手がぎゅっと強くなった。
――それは信じ切った強さではなく、ためらいを抱えたままの強がりだった。
だけど、勇気を出して「少しだけ」俺に預けてくれた。
その温もりは、不器用な彼女と未熟な俺を静かにつないでいる。
この温もりを、決して手放さない――ただ、それだけを心に刻んだ。