残響する物語 —水沢健一の視点—
教室に残っていたのは水沢健一と、窓際で夕暮れを見つめる学生だけだった。彼は講義ノートを鞄に片付け、静かにドアへと向かった。五月の柔らかな風が窓から差し込み、カーテンをわずかに揺らしている。
「水沢先生、考えがまとまらないんです」
振り返ると、窓際の学生——佐伯美咲が彼を見つめていた。三年生で文学創作を専攻する彼女の眼差しには、いつもの鋭さではなく、どこか曇りがあった。
水沢は足を止め、彼女を見た。口には出さなかったが、その視線は続きを促していた。
佐伯は少し躊躇いながらも、言葉を紡ぎ始めた。
「コミックのドラマ化で、ドラマが原作者の意向に沿わないまま進行してしまい、ドラマそのものが崩壊し、原作者が自ら……という事件がありました」
彼女の声は少し震えていた。何か個人的なものを感じさせる震えだ。
「昔、作品中のヒロインの過去の経験が、読者の予想とは異なっていたということで、原作者が非難されたという事がありました」
佐伯は言葉につまり、一旦息を吸い込んだ。
「私は、作品が誰のものか?という前提が気になっているんです。本質はそこには無いのではないか、と……」
水沢は彼女に近づきながら、その言葉を静かに受け止めていた。彼の足音だけが教室に響く。やがて彼は窓際の机に腰掛け、沈黙の後、口を開いた。
「物語は、水のようなものだ」
彼の静かな声は、不思議な響きを持っていた。
「源流では作者の手の中にあるが、一度流れ出せば、それは読者一人一人の中で異なる流れになる」
水沢は窓の外を見た。夕焼けが建物の影を長く伸ばしていた。
「作品がひとたび世に出れば、それは作者の手を離れる。しかし、だからといって読者のものになるわけでもない」
彼はポケットから古ぼけた万年筆を取り出し、机の上でゆっくりと回した。
「作品は、むしろ作品そのものの存在となる。作者の意図も、読者の解釈も、どちらも完全ではない」
水沢は佐伯の方を向き、珍しく長い言葉を続けた。
「非難されることを恐れて書かないよりも、書いて非難されることの方がはるかに価値がある。批判は作品が生きている証だ」
彼は立ち上がり、窓を少し開けた。風が二人の間を通り抜ける。
「しかし同時に、作品はその時代や文脈の中で読まれる。同じ文章でも、読まれる時代が変われば、その意味も変わる。作者はそれを止められない」
水沢は佐伯の前の机に一枚のメモを置いた。そこには不思議な図形が描かれていた。円の中に無数の線が交差し、複雑な網目模様を形成している。
「これは、物語の構造だ。中心にあるのは作品そのもの。そこから放射状に伸びる線は、人々の解釈。それぞれが交わり、時に衝突し、時に共鳴する」
彼は図の中心を指差した。
「批判も賞賛も、すべてはこの輪の中の一部だ。原作者もまた、この輪の中の一人の解釈者に過ぎない時がある」
水沢は窓際に立ち、夕日に照らされる校庭を見下ろした。
「君が悩んでいるのは、おそらく創作者としての責任と自由の狭間だろう。しかし、それは二律背反ではない」
彼は静かに続けた。
「創作とは、自分の内側から湧き上がるものを形にする行為だ。それが誰かの琴線に触れれば、物語は響き始める。その響きがどう変わろうと、最初の音色を奏でたのは作者だ」
水沢は佐伯に向き直った。
「だから書くのだ。そして、書いた後に起こることは、もはや物語自身の領域だと受け入れるのだ」
彼は珍しく微笑んだ。それは温かいものではなく、どこか諦観を含んだ笑みだった。
「作品は誰のものでもない。作品は作品のものだ。そして同時に、すべての人のものでもある」
水沢は自分の鞄を手に取り、ドアに向かった。
「批判を恐れるな。むしろ、無視されることを恐れろ。作品が生きるのは、それが誰かの心に波紋を起こす時だけだ」
ドアの前で彼は立ち止まり、最後に言った。
「明日までに、自分の本当に書きたいものは何か、考えておくといい」
そう言って水沢健一は教室を後にした。廊下の暗がりに彼の姿が溶けていくと、なぜか空気が少し軽くなったように感じられた。
佐伯美咲は彼の残したメモを手に取り、不思議な図形をしばらく眺めていた。窓から差し込む最後の陽光が、彼女の手の中の紙を黄金色に染めていた。
彼女はそっとノートを開き、ペンを取った。何かが、彼女の中で流れ始めていた。