第3話
結局仕事が終わったのは23時。恵比寿から最寄りの横浜までは電車で1時間ぐらいかかるから、帰りの電車の中でも色々と考えてしまう。もう少しだけ自分と出会うのが早かったら、なんてことを考えてしまうが、無理もない。
澤田みのり。今更愛さないなんて無理なぐらい、自分には欠かせない存在であるが故に、帰りの罪悪感も重厚にのしかかってくる。みのりと出会ったのは大学一年生の時の選択授業。やっぱり何度見ても可愛いから仕方ない。初めて勇気を出して話しかけたのを今でも覚えている。楽観的で天真爛漫なその姿がすごく魅力的だった。
大学ではサークルも違ったが、学部のゼミは一緒だった。城戸先輩は、そのゼミの時の先輩だ。地木大学の政治経済学部。提督大学までは行かないが、いわゆる日本で御三家と呼ばれる大学だった。高校受験で失敗した俺は、部活も入らずに予備校に通って勉強を続けた。
「もしもし?」
「まだ帰ってこないの。大丈夫?最近ゆっくり話せてないなって思ってさ。」
「今駅から歩いているところだよ。」
「そっか、それなら良かった。今日もお疲れ様だね。四ノ宮さんは、今日も絶好調だった?」
「ああ、あいつは相変わらずだよ。何も変わらないし、いけすかないのは間違いないな。」
「へー。でも珍しいね、理人にそんな友達ができるなんて。」
「まぁ、腐っても会社の同期だからな。」
「でも、大学の時はサークルも入らずずっとボランティアばっかやってたから、友達なんてこれっぽっちもできてなかったじゃん。」
「それは言い過ぎ。俺にだって友達ぐらいいたし。」
「ははは、そうだよね。ちょっといじってみただけ。そいじゃ、ゆっくり気をつけて帰ってきてよ。まだ起きてるから。」
「わかった。ありがとう。」
みのりは、出向先の会社で、適応障害を新卒で入社して2ヶ月で発症して、それから働いていない。それでも凛と立つ一輪花のような家出のくつろぎっぷりは一見の価値がある。みのりの実家が寿司系列会社の総本山のようなところで、毎月の仕送り金額は俺の給料よりも多い。散りばめられた幸せをかき集めるように生きている俺に対して、みのりは約束された将来を歩んでいる。なんで俺なんかと付き合ってくれているのかもわからない。
乾いた雲に、夏の匂いが頬を撫でる。梅雨の時期の空気はジメジメしているが、俺は好きだ。なんだか自分の心と繋がっって泣きそうになる。吐き出すようにして近くの公園のベンチに座ると、自然と涙がこぼれ落ちてきた。
人生で楽しいことなんて言ったら、これっぽっちもなかった。慈善活動だと言って始めた大学のボランティアも、結局は企業が協賛していて営利目的だった。なんのやりがいのないまま日々は過ぎ去り、気づいた時には就活時期真っ只中、俺はバイトに明け暮れていた。みのりは、3年生時はダンスサークルで一般会計の役職に就いて、着々と王道幸せ人生を歩み始めている頃だった。あの美貌で会計もできるなんて、企業からしたら引く手数多に違いない。
彼女であるみのりが羨ましくなる時がある。なんだかやりきれない気持ちが沸々と湧いてくる時がある。自分なんてこの世界では脇役で、何もできないんじゃないかと思う時が最近だと頻繁にある。転職活動もなかなか乗り気にならないし、そういうことを思っているからみのりとのデートもあんまり乗り気になれない。
正直な鳩には餌が与えられるだろうが、つっぱりの燕には蜜すら届かない。それでも燕は広い大空をせっせと羽ばたいでいく。朝焼けに透き通っていくその姿は、まるで世紀末の天使だった。僕はどうすればいい。俺を置いていかないで。
また今日も眠れない夜が、ひっそりとオレンジ色に変わってゆく。