男性社員たちがエロいと噂しているのは俺の彼女で婚約者です。
「おい、さっきな、間さんと同じエレベーターだった。……いい匂いだった」
「おぉ、いいな。……なぁ、あの人、エロいよな」
「メガネかけてるのが女教師っぽくて、エロい」
「だよな。黒髪清楚系とかしっとりしててエロい」
ーーーその人、俺の彼女ですよ?
仕事で赴いた先の男性用トイレで、自分の彼女がエロいと言われているのを聞いた時、正しい対応はなんだろうか。
ぼんやりと手洗いをしながら思ったが、沈黙を守っておくことにした。
連れ立ってトイレにやってきた男どもは、いつの間にか胸の大きさを当てるゲームに移行していた。
「Dカップかな」
「もう少しありそうじゃないか?」
「E……?うわ、想像したらヤバいな」
残念ながら、Fカップです。
着痩せして見えるように、色々と工夫をしているのを知ってますから。
それに10年近くかけて育てたのは俺ですから。
人が育てたものに対して勝手に妄想を膨らませないで欲しい。
手を拭きながら、トイレ出口近くにある電灯のスイッチをオフにした。
換気扇しかない男子トイレ内が急に真っ暗になったからか、「おっ!」「うわっ」と、焦ったような声が聞こえてきた。
トイレにスプリンクラーがあれば作動させていたのに。残念。
廊下へ出て、用意された会議室へ戻ると、プロジェクターで複数の飲食店の画像がまとめてスクリーンに映されていた。
俺が戻ると、室内灯がいくつか消された。その消灯をするために、壁側に立っているのが、俺の彼女である間美咲。さっきの男子トイレで噂になっていたエロい人。
さらさらな髪をそのまま背中に流し、縁のあるメガネ姿にジャケット姿と地味な装いをしている。目がいくとしたら、大きなリング状のピアスくらい。それなのに、妙に艶かしく見えるのは、大きな胸のせいだろうか。
そんな目で見ているのは、俺だけでいいのに。
「間さん、これ、なんですか?」
「荻野目さん、おかえりなさい。今から説明するそうですけど……迷いませんでしたか?」
「特に」
ーーー迷わずに邪な目で美咲を見る男たちに軽くイタズラをしてきました。
心の中でそう答えながら、他の人たちが離れて座っているのを確認して、小声で話しかける。
顔を向けた彼女の耳元で、軽くピアスが揺れる。
「ねぇ、美咲。今夜は会える?」
「ごめん、潮くん。この会議のまとめ資料を作らないといけないからダメ」
メガネの奥の優しい目が困ったように笑うが、絶対に譲ってくれなさそうな気配。泊まった翌朝によく見る顔だ。
そういう顔も好きだと思うくらいに美咲が愛しくて仕方がない。
惚れた弱みだ。会えないことを受け入れるしかない。
「……じゃあ、終わったら電話して」
最大限の譲歩をすると、「いいわよ」と甘い声で囁いた。
人の視線がなければ抱きしめていただろう。そして、もっと甘い声を出させるために、いろいろなことしただろうなと、表情を変えないまま、美咲を見下ろしながら思った。
*
プロジェクターに映された飲食店は、事前の会議資料にはなかった店々だった。
「今回、初めての異業種への進出ではありますが、会長の創業当初からの希望でもありました。戦争でお父様を亡くされた会長を、女手ひとつで食堂を切り盛りされながら育ててくださったお母様の恩に報いるため、食を提供する場を自らも作りたいという崇高な志が今回のプロジェクトの根底にあります。
しかし、会長は趣味や道楽ではなく、継続するビジネスとして考えておられます」
まぁ、つまり、今まで飲食店経営はしたことのないおじいちゃんが、主な経営を息子に任せたから、今度こそ自分のやりたいことをするぞということだったりする。
そこで呼ばれたのが経営コンサルタントというよりは、ちょっと何でも屋が入っている我が社である。
新卒入社して、最初についた先輩が起業するからと誘われて、俺は今の会社に移った。
大企業の中で既存の面倒な人たちとの関わりと権限の狭い仕事に神経をすり減らすよりも、好きなようにやれるけれども責任がまあまあ重い今の会社の方が俺には合っているようだった。
そこで色々な会社の新規立ち上げや、既存事業へのアドバイスなどをしているのだが、今回依頼した企業のプロジェクトメンバーに、高校から付き合っている彼女がいると今朝知った。
しかも、社内の男たちからエロい目で見られていることまで、さっき知ってしまった。
先月プロポーズを受け入れてもらったばかりの婚約者が、そんな目で不特定多数の男たちに見られていると知ったら、正直心穏やかではいられない。
けれど、婚約者の美咲は仕事熱心な女性だ。
ここで無闇に婚約者アピールして、職場を乱すことをあからさまにしたら、腹の底から軽蔑される。
「そこでコンセプトとしては、幅広い年代に愛されるものにしたい。
親や祖父母に連れられた子どもが、自分が親になった時に連れていく。そういう店にしたいと会長はおっしゃられています。
しかし、現状ではSNSなど、ネット上での映えも宣伝効果として無視することはできない」
あまり若者向けの店に偏りすぎじゃないかと、こちらの出した案に会長が不安になってきているようだった。
「そこで、会長が味のイメージとしてあげられた店をそれぞれに見てきて欲しいのですが……あくまで味なのですが、おそらく会長の中にある店内の雰囲気も、味に加味されていると思われます。
まぁ、要は会長の持つイメージを皆さんに共有していただきたいと。そういうわけでして」
新規事業を任されるだけあって、美咲の会社の上司は話がわかる人のようだった。
「そのイメージを共有した上で、今回提示されたお店で合っているものがあれば、会長もその……10代向けの店であっても下見に行くとおっしゃってます。
ただ、あまり甘いものばかりですと、ドクターストップがかかるとおっしゃってましたが」
くすくすとあちこちで好意的な笑いが起こる。ここの会長さんは、それなりに社員たちから慕われているようだ。
「それと、弊社の社員たちとの懇親を深めてもらいたいという希望もあります。そこで、今日のランチをこちらの店でそれぞれ食べてきていただきたいのですが、どうでしょうか?」
そういうと、プロジェクターで映された画像の上に、ぐるぐるとレーザーポインターで示してみせた。
そして、役職や年齢が近い者同士で行くこととなり、俺と美咲がペアになった。
「間さん、よろしく」
「……荻野目さん、こちらこそ、よろしくお願いします」
*
久しぶりの美咲とのデートは、郊外にある庭が広い飲食店になった。
美咲の運転する社用車を駐車場に停めて、店の入り口までの間、咲き始めのヤマブキやハナミズキの花が彩っていた。
山の中に近いような植栽の庭だなと思った。
「先月プロポーズしてから、ようやく一緒にご飯を食べられるようになったのが仕事って、これは運がいいのかな。それとも婚約破棄でもされる前フリなのかな?」
「もう少し余裕を持って?婚約者さん」
くすくすと笑う彼女は、メニュー表を開いて俺に指差して、示した。
店内は落ち着いた雰囲気で、木材が多く使われていて、天井が高い。
広い庭が見えるように、テーブルは窓際に沿って並んでいる。
従業員は少ないようで、3人の年配の女性たちが店内で立ち働いていた。
夫婦で営む店だと聞いていたので、3人のうちの誰かが奥さんなのだろう。
メニュー表を一応確認しながらも、会長がおすすめするビーフシチューと、ハンバーグをそれぞれセットで注文することにした。
スマートフォンで撮影してもいいかと聞いてみると、
「お好きなように」
と、笑顔で言われ、セットの注文内容にあったパンをおかわりしてもいいかと聞くと、
「ご自由に」
と言われた。
なんだか、店の全体的な雰囲気がゆるい。それが心地よかった。
「何を言っても、『ご自由に』と『お好きなように』って言われるわね」
くすくすと面白そうに美咲が笑った。
俺の前にあるビーフシチューは、特に珍しいものではないような見た目だが、軽くナイフを入れるだけで、ほろりと肉が崩れ、口の中に入れても脂身のしつこさは一切なかった。
シチューの中に溶け込んだ旨みが、じわっと肉の中から舌に伝わり、いつまでも飲み込まずに食べ続けたいのに、早く次のひと口が食べたいと思う美味しさだった。
「シンプルなんだけど丁寧な仕事をしているって感じがするなぁ。美咲のハンバーグはどう?」
「うん、美味しい。お肉の中の玉ねぎが邪魔にならない大きさなのに、ちゃんと存在を主張していて、すごくちょうどいい。お肉なんだけど、重くないの。ソースも、トマトベースなのかな。あんまり濃くないのに美味しい」
「両方とも飽きない味なんだなぁ。ひと口食べさせて?」
にっこりと笑って口を開けてみるが、美咲は取り分けたハンバーグをパンにのせて差し出した。
「だめよ、潮くん」
「メガネキャラの委員長みたいなセリフだね」
「委員長になったことはないわよ。平凡な顔だから、メガネで印象づけてるだけよ」
めっ、と、怒るようにパンにのったハンバーグを俺の口の方へ差し出した。
ジャケットを脱いだせいか、胸元へと視線が行ってしまう。その視線を誤魔化すように、からかいを帯びた口調で言ってみる。
「食べさせてくれないなら、キスしてくれる?」
「高校の時から何度もしてるでしょ?」
「婚約者になってからは、ほとんどしてないけど?」
新規事業の立ち上げメンバーに決まってから、美咲は仕事の引き継ぎから、新しい仕事の準備へと忙しくなったのは分かっている。
分かっているけど、それはそれ。
美咲に触れられない期間が長い上に、美咲を狙っている男たちの存在が俺に焦燥感を与える。
「人前ではダメよ」
くすりと笑う彼女の口元に、ほんの少しソースがついていた。
このまま舌で拭き取ってやりたい。
そんな衝動を覚えたが、昼時の店内は客が多く、俺は他の人に見られる前に、紙ナプキンを渡して、口元を指で示した。
美咲は目を大きくした後に、少し恥ずかしそうに口元を拭った。
紙ナプキンに美咲の口紅が移ったのを見て、妙に心がざわめいた。
*
食事を終えて、少し時間に余裕があったので、庭を見てもいいかと会計の時に聞いてみると、
「どうぞご自由に」
とさっきと同じ答えが返ってきた。
その返し方が慣れたものの言い方だったので、店を出てから美咲とくすくすと笑ってしまった。
「面白いわね。会長もここに何度も来ているそうだけど、こういう対応がいいんでしょうね」
「人を選ぶんじゃなくて、みんなに『ご自由に』『お好きなように』って、言っているんだろうね」
「『ご自由に』」
「『お好きなように』」
真似をしながら、歩いていると若葉が出始めた樹々の中に、白い花の咲く木が見えた。
山桜だ。
「わぁ、葉っぱがあるのに花が咲いてるわ」
「山桜だからね。今の時期でまだ満開なんだ。へぇ」
高校生の時に初めてキスをしたのは、桜の花びらが舞い散る中だった。
笑いながら振り返った美咲がきれいで、可愛くて愛しくて、気がついたら腕に閉じ込めて、キスをしていた。
美咲も同じことを思い出したのか、山桜を見上げていた俺に甘い声で言った。
「ねぇ、キス、してみる?」
振り返ると、イタズラを思いついたように瞳を煌めかせている彼女がいた。
誘うように人差し指で唇を示す。
「……それは、どこまでのキス?」
「『お好きなように』」
余裕ありげに笑う顔を見て、俺は反射的に片眉を上げた。
「食べ尽くしても、いい?」
「『ご自由に』」
くつくつと笑い出した美咲のメガネを俺が外すと、少しだけ頬を染めた。折り畳んだメガネを丁寧に美咲のジャケットのポケットにしまった後、俺は片方の手を肩に伸ばし、もう片方の手で顎をつかんだ。
「その余裕まで、全部食べさせてもらおうかな」
「どうぞ」
ご自由にと言いかけた美咲の言葉は、俺の口の中に閉じ込めた。
見えない口腔内での戦いは、俺が勝利した。
甘い声をあげながら、美咲が俺の背中に回していた手で、何度も「降参」するように俺の肩を叩いた。
一度、唇を離し、
「まだ食べ尽くしてないから、ダメ」
と、囁くように言うと、俺は再び美咲の口を封じた。
その時に目を合わせた美咲の顔は、さっきまでの余裕はなくなっていて、初めてデートに誘った時のように、真っ赤な顔になっていた。
ーーー耳まで真っ赤だな。
俺は唇を離さないまま、ピアスを避けて美咲の耳に指を這わせると、びくっと震えた柔らかい腰を抱いた。
日の光が照らす満開の山桜の下で、存分に美咲の唇を味わった後、腰の抜けたようにしゃがみこんだ彼女を見て、「顔、赤いけど大丈夫?」と、言ったら、「ばか」と、涙目で怒られた。
(*´ー`*)間咲正樹様に捧ぐ。