先日助けていただいた幼馴染です。恩を返すまで帰るつもりはありません。
「……はい?」
俺は戸惑った。大学に入って最初の夏休みを満喫しようとしていた一人暮らしの俺の家に、突然長い黒髪の華奢な少女──幼馴染の雨甲斐詩歌がやって来た。詩歌は一つ下の高校三年生で、まだ地元の高校に通っていてこの時期は受験勉強で忙しいはずだ。
「し、詩歌なんだよな? お前どうしてここに」
「先日助けていただいた幼馴染です。恩を返すまで帰るつもりはありません」
「いや、それは今しがた聞いたばかりけど」
俺は大学進学をきっかけに実家を離れて一人暮らしを始めたが、かつて詩歌と一緒に住んでいた街からは新幹線で二時間もかかる距離だ。大体詩歌が来ることなんて本人はおろか誰からも聞いてないぞ。
「とりあえず外は暑いので入ってもいいですか?」
「お、おう」
「ではお邪魔します」
あまりに突然の出来事に俺はこの状況を理解できていなかったが、詩歌の勢いに押されてそのまま部屋に通してしまった。
俺が借りている部屋は1DK、駅からは若干遠いが一人暮らしには十分な広さで割と満足している。詩歌はスーツケースを持ってズカズカと冷房の効いたダイニングへ向かい、ソファに腰掛けた。
「麦茶しかないけど良いか?」
「いえ、お構いなく」
事前に連絡してくれればもっと飲食物を用意できたし何なら掃除もしていたがあまりにも急だ。良かったぁ昨日ちょっと気合い入れて掃除してて。俺はコップ2つと麦茶が入ったボトルを盆に載せてソファの前のテーブルに置き、テーブルを挟んで詩歌の正面のカーペットの上に正座した。
「ソファに座らないんですか?」
「いや、詩歌が座ってるじゃん」
「隣空いてますよ?」
「わ、わかった」
詩歌の敬語ってこんなに圧が強かったっけと思いつつ、俺は詩歌の隣に腰掛けた。数カ月ぶりに顔を合わせたが何か様子が変というか急に鶴の恩返しみたいなこと言い出すし、何より……何か前に比べてさらに色っぽくなったな。
「なぁ詩歌、何で俺の家来たんだ? 親御さんに許可取ったの?」
「はい。私も夏休みですし、誠さんのお母さんからも是非お願いと頼まれました」
うん、確かにウチの母親も仕事が忙しくて一人暮らしをしている息子の様子を見に行けなくて残念だとちょくちょく言っていたが、だからといって年頃の女子を送り込んでくるってどんな了見だ。
「誠さん。私は先日助けていただいた幼馴染です。恩を返すまで帰るつもりはありません」
「うん、それはさっきも聞いたけどどうしたの? 先日ってどの話?」
「先日は先日です。私は誠さんのお母さんに代わって、だらしない一人暮らし生活を過ごしているであろう寂しい男子大学生のお世話をさせていただきます。ついでに勉強も教えてください」
年下の幼馴染がお世話してくれるとか夢に見たシチュエーションだが、何か詩歌が淡々と話を進めるから凄い怖い。
「いや、詩歌。もしかして泊まる気なの?」
「はい。一週間程」
詩歌が持ってきたスーツケースを見てなんとなく察してたけど、コイツ本気か。
「どこに泊まるの?」
「勿論この部屋に決まってるじゃないですか」
「客人用の部屋も布団もないけど?」
「誠さんのベッドで一緒に寝ればいいじゃないですか」
当然のように話してるけど、詩歌さん自分が何を言ってるのかわかってらっしゃる? 年頃の男と女が一緒の布団で寝ることってそうそう無いよ? 大学入ってまだ彼女も作れずに童○の俺が女子高生と一緒のベッドで寝るだけの度胸があると思うか?
「もう夕方なので、私が夕飯を作ります。あ、お小遣いは誠さんのお母さんから頂いてるので大丈夫ですよ」
「スーパーの場所わかる?」
「はい。ここら辺の地図はもう頭に入っています、問題ありません」
そんなにちゃんと下調べまでしてきたのかと俺は感心する一方、多少の不安も覚えていた。詩歌は「もう子どもじゃないので一人で大丈夫です」と言って一人で買い物に行ってしまい、俺はその間に多少部屋を片付けておくことにした。流石に一緒のベッドで寝るのは俺もどうかと思うので、ベッドの布団を整えつつブランケットを取り出してソファの上で寝る準備も整えていた。
詩歌が買い物に出かけて数十分が経った。最寄りのスーパーまでは徒歩数分程度だ。そろそろ帰ってきていい頃だと時計を見ていると、詩歌から電話がかかってきた。
『誠さん……』
さっきまでとは打って変わって、弱々しい詩歌の声が聞こえてきた。
『助けてください』
「ど、どうしたんだ?」
『道に迷いました』
そう、俺が多少の不安を感じていたのはこれだ。詩歌はまぁそれはそれは方向音痴なのだ、最近の地図アプリはちゃんとルートを示してくれるのに詩歌はそれを見てもあらぬ方向へ突き進んでしまう。俺は携帯を持ったまま、詩歌を迎えに行くため家を出た。
「詩歌、近くに何かお店あるか?」
『コンビニがあります』
「ファ○マ? ロー○ン?」
『デ○リーヤマザキです』
いや、そんなコンビニ近所にないぞ。多分スーパーから俺の家とは逆方向に進んでいったんだな。
「わかった。今迎えに行ってるからそこから動くんじゃないぞ?」
『はい。お待ちしております』
俺は電話を切って駆け足で詩歌がいるであろう場所まで向かう。しかし再び携帯が鳴り出し、俺は電話に出た。
『電話を切らないでください。寂しいじゃないですか』
お前さっき「もう子どもじゃないので」って言ってただろ。よくそんなんで一人で新幹線に二時間も乗っていられたな。
「買い物はもう終わってるのか?」
『はい。後は誠さんの家へ帰るだけなんです。楽しみにしておいてください』
楽しみ、か。その先も若干の不安が残るが、携帯で詩歌と話していると道に迷った詩歌を見つけた。詩歌は俺を見つけると凄いホッとしたような表情を見せたが、すぐにキリッとした表情に切り替えて家へと戻った。俺は買い物袋を持ってチラッと中身を見たが、具材を見るに今夜はカレーだな。俺の好物でもあるが、嫌な思い出もあるっちゃある料理だった。
無事俺の家まで戻ると、詩歌はスーツケースの中からエプロンを取り出して身に付けていた。
「先程助けていただいた鶴です」
「それこだわるんだな」
ってか恩返しする前に鶴って自白しちゃってるじゃん。鶴が最初に正体バラしちゃったら成り立たないよあの話。
「お礼に誠さんにカレーを作ります」
「……側で見てていい?」
「? はい、構いませんが。あ、お手伝いは結構ですので」
俺はそんな自炊をしないけどキッチンには最小限の調味料と調理器具が揃っている。詩歌は買い物袋から具材を取り出し、水で洗い流し、皮を剥き、まな板の上に載せて切っていくが──。
「……誠さん」
「どうした?」
俺は一応聞いたが、今の詩歌の姿を見て状況を察していた。
「目が、痛いです……!」
詩歌の手元には玉ねぎという劇物が我が物顔でまな板の上に陣取っている。いや、そりゃ痛いだろうけど。
「わかった、俺が切っとくよ」
「すいません……」
代わるといっても俺だって食べる分には玉ねぎは好きだが切るのは嫌いだ。初めて玉ねぎを食べた人類はこんなに目が痛くなるのにどうして玉ねぎを毒物だと思わなかったのだろうか。
無事に(俺の目は犠牲になったが)具材の準備が終わり、その後も具材を炒めたり水を入れて煮たりと、なんだかんだ俺も手伝いつつカレーは完成した。
「美味い!」
年下の可愛い女の子が自分のために手料理を振る舞ってくれるだけでもひゃっほーいと飛び上がって喜ぶ程嬉しいことなのに、こんなに満足できるほど美味しいなら嬉しさは何百倍にもなる。
「それもこれも誠さんのおかげです」
ちなみに詩歌が中学生の時に初めて俺に振る舞ってくれたカレーはカレーと呼べるのかよくわからない代物だったが、俺は笑顔で美味いと感想を述べた。しかし同じカレーと呼べるのかよくわからない代物を食した詩歌に嘘をつくなと叱られ一時の間、口をきいてもらえなかったことがある。
詩歌に一人で料理をやらせると包丁の持ち方だったりピーラーの使い方だったり火加減の調節だったりと、見ていて色々と不安なところがあるため俺は必ず様子を見守るようにしている。
詩歌も大分大人の階段を登っているが、幼馴染だった身としてやっぱり色々と不安なところがある。先程発揮された方向音痴ぶりもそうだ。詩歌は雰囲気こそしっかりしている子だが、物凄くドジっ娘なのだ。そこが可愛くもあるのだが。
「なぁ詩歌。俺の家に来る途中で道に迷わなかったのか?」
「新幹線から降りて、誠さんの家の最寄り駅までの行き方がわかりませんでした」
そこからだったか。まぁ確かに都会は意味が分かんないぐらいの数のホームあるし、地名が頭に入ってなかったらどこ方面行きって言われてもよくわからんし優等列車も多いからね。
「ですがホームで狼狽えていると駅員さんが声をかけてくださって、無事に近くの駅まで辿り着きました。しかし、今度は誠さんの家へ向かう途中で道に迷いました」
「どうやってここまで辿り着いたの?」
「道端で狼狽えていた私に親切なおばあちゃんが声をかけてくださって、ここのマンションの前まで案内してくれました」
良かったよ変な野郎に捕まらなくて。ドジっ娘で何かと危なっかしいところのある詩歌は妙に庇護欲を掻き立ててくるというか、何か変な事件や事故に巻き込まれるんじゃないかと不安になるため、幼馴染である俺は何かと詩歌と一緒にいることが多かった。だから俺は高校を卒業して詩歌を置いていくことが不安ではあったが……独り立ちして欲しい気持ちもあれば、それはそれで寂しいなと感じてしまいそうに思える。
食事を終えると詩歌が後片付けをやってくれた。何か凄い勢いで食器を床に落としていくけど、陶器じゃなくて良かった。
「詩歌、お風呂入れといたけど先入る?」
「いえ、誠さんがお先にどうぞ」
夏の暑い時期でも、やはり湯船に浸かると疲れが取れるような気がする。まぁあまり長風呂で詩歌を待たせるのも悪いと思いながら俺は体を洗っていたが──脱衣所に人影が見えた。
『誠さん』
「あぁ、どうかしたの?」
すると浴室の扉がガラッと突然開かれた。
「お背中流します」
「ちょっと詩歌!?」
そんな躊躇いなく入ってくることある!? 俺は慌てて股間をタオルで隠した。詩歌は袖をまくってやる気満々だ。
「いや別にそんなの良いよ詩歌」
「でも昔は一緒にお風呂入ったじゃないですか」
「昔は昔!」
そりゃ昔は一緒にお風呂入ったこともあるけど、俺も小学生に上がるか上がんないかの頃の話だ。それと今とじゃ全然違う!
「これも恩返しです」
だが俺は詩歌の圧に負けてしまい、背中だけ洗ってもらうことにした。
「痒いところはありますか?」
「ない」
「肩がこったりしてませんか?」
「マッサージならお風呂上がった後でも出来るから!」
こんなに緊張したお風呂は初めてだ。めっちゃ嬉しいけど凄いドキドキする。
詩歌が背中を洗い流してくれた後、俺は詩歌を浴室から追い出して湯船に浸かった。まさかこれから一週間、これが続かないよな?
入浴後、俺がソファに寝転がっていた詩歌に声をかけると、詩歌はシャンプーセットを取り出して浴室へと向かった。だがその前に、俺の方を向いて一言。
「私は今からお風呂に入りますが、絶対に中を覗いてはいけませんよ」
え、何それ。色んな神話とか童話で有名な見るなのタブーってやつ? 覗いたら詩歌が鶴の恩返しみたく鶴になってたり、日本神話みたく和邇になってたり、ギリシア神話みたく俺にパンドラの箱を渡してきたりしないよね?
覗いてみたいかって? いや別に覗きたいというやましい気持ちはない。昔は一緒にお風呂入ってたこともあるし。昔と今じゃそりゃ違うかもしれないけど、俺はただ詩歌が風呂場の床で滑って転んだりしないかが不安なのだ。
『い、いやあああああああああああっ!?』
「し、詩歌!?」
詩歌がお風呂に入ってから三十分程が経った後、風呂場の方から突然詩歌の悲鳴が聞こえ、俺は慌てて脱衣所の扉を開けようとしたが、開ける前に中からバスタオルに身を包んだ詩歌が飛び出てきた!
「待て待て待て詩歌! 何があったんだ!?」
「そ、その、アレがいるんです!?」
詩歌はすぐに俺の背後に隠れて脱衣所の中を指差していた。何がいるのかと思って観察していると、確かにカサカサと床を動き回る黒い物体がいた。俺は洗面所の下から殺虫剤を取り出し、カサカサと動き回るその物体にかけてプシューと噴射した。
「よし、これで大丈夫だな」
南無南無、と唱えながら俺はそれをティッシュの中に埋葬してから念入りに思いっきり踏んづけてからゴミ箱に放り込んだ。田舎はコイツがよく出るから扱いには慣れている。こっちに来てからは家で一度も見かけなかったが、一応殺虫スプレー用意してて良かった。てか、詩歌が家に来たタイミングで現れなくてもいいじゃん。
「あの、詩歌さん?」
「ななな何ですか?」
「もう倒したよ?」
「ま、また出ませんか?」
「大丈夫だって、そうそう出ないから。それより湯冷めするから早く着替えな」
何よりその姿のまま背後から腕を掴まれると、鼓動が早くなりすぎて俺が死んでしまいそうだ。俺は何とかバスタオル姿の詩歌を脱衣所に戻して息を落ち着かせていた。
「先程助けていただいた鶴です」
ちゃんと詩歌は部屋着に着替えていたが、割と肌の露出が多くてドキドキする、というか詩歌さんや、助けられてばっかりではないか。
「誠さん。私に何かしてほしいことはありませんか?」
いや、そう聞いてきてるけどその手に俺が通ってる大学の赤本握ってるよね?
「ちなみにですが、私は受験勉強がしたいです」
いや、明確に勉強教えてほしいって意思表示してるじゃん。
「……じゃあ、俺は詩歌に勉強を教えたいかな」
「では仕方ありませんね」
詩歌はテーブルの上に勉強道具を広げ始めた。いかにも勉強を教えてほしそうにしていた詩歌だったが、実際の所入試の過去問やテキストを問いていく詩歌を側で見ていて、俺から特に口を出すようなことはない。だって全部正解しているんだもの。
「ねぇ、詩歌さんや」
「何でしょうか」
「俺、特に教えることないんだけど」
何かとドジっ娘みたいなところのある詩歌だが、成績は常に学年一位、最早全国模試でも一位という天才なのだ。確かに昔は俺が詩歌の勉強を見ていたけど、それは俺が一つ年上だったから一緒に予習をしていただけで、詩歌の学力なら俺の大学なんて余裕のよっちゃんだろう。
「詩歌、本当に俺と同じ大学入るの?」
「そうですが」
「詩歌ならもっと良い大学行けると思うよ?」
「誠さんと一緒の大学じゃなきゃ嫌です」
確かに俺も詩歌が目の届くところにいないと不安でしょうがない、場合によっちゃ変な野郎に惑わされてしまいそうだからだ。高校でも凄い成績優秀で優等生なのにドジっ娘属性がついてるもんだから皆にマスコットみたいに可愛がられてるし、庇護欲をそそられた女子達がいつも詩歌を世話してくれていたからな。
「誠さんは、大学生活は楽しいですか?」
「まぁ、思ってたよりは楽しいよ。まだ酒は飲めないから飲み会とかはいけないけど」
地方出身者にはまず何か方言を喋れという地方出身者へのパワハラめいた無茶振りがよくあるが、それにも対応できるように俺はいくつかの文言をテンプレートとして用意している。それに俺は多趣味だったおかげでバイト先にも一緒に野球を見に行ったり夜通しカラオケに行ったりする友人がいる。
「ちなみにですが、女性のお友達もいらっしゃいますか?」
「一応いるけど」
大学に入ってから、女にも色んなタイプがいるんだなぁとしみじみ感じさせられる。
「では……好きな人はいらっしゃいますか?」
詩歌は手を止めて、チラッと隣に座る俺の方を見た。
「いや、俺が好きなのは詩歌だけど」
すると詩歌はテーブルの上に広げていた赤本を手に持って、思いっきり俺を殴った!
「うごぉっ!?」
意外と痛くなかったが、詩歌の方を見ると俺からそっぽを向いてしまっていた。
「誠さんは、鶴の恩返しをご存知ですか?」
「そりゃまぁ知ってるけど」
ざっくり言うと助けた鶴が人に化けて恩返ししてくれるが、見るなと言われていたのにその正体を目撃してしまったため別れてしまうという話だ。
鶴を助けたのは老夫婦だったり若い男で結婚をするというパターンもあるが、世界各地の神話や伝承にも見られる「見るなのタブー」をモチーフとした童話だ。何か今日、一言目に先日助けていただいた幼馴染ですとか言ってたし、何かと詩歌はそれを意識している気がする。
「実は私も、真の姿を隠して生きているんです」
「ま、まさか詩歌って鶴なのか!?」
「いや違いますが」
うん、違うよね。俺も鶴を助けた覚え無いし。
「私は幼い時からおっちょこちょいで、ちょっとしたことですぐに泣き出してしまうような子どもでした」
何の段差も無いところでつまづいてはすぐに泣いていたからね。俺も何度詩歌に絆創膏を貼ってあげたかわからない。
「でも、そんな私をいつも誠さんは幼馴染として助けてくれました。昔からの付き合いで確かに幼馴染ですが、私は誠さんを兄のように慕っていました。
ですが誠さんは、高校の卒業式に私に告白してくれましたよね?」
「あ、あぁそうだったな……」
俺は高校の卒業式の日、詩歌に告白した。離れ離れになる前に、この想いを伝えておこうと決心したのだ。
「ですが、私はお断りしてしまいました」
そう、俺は詩歌にフラれてしまったのだ。「私は、今の関係のままがいいです」と。その日はショックで中々寝付けず憂鬱な気分のまま俺は地元を離れた。フラれたことで吹っ切れたつもりだったのだが、実際にはまだ未練が残っていたのだ。
「私には、よくわからなかったんです。自分が誠さんのことを好きだと思っているのかどうか。私は誠さんのことを兄のように思っていたので」
まぁ、年下でドジっ娘な詩歌を世話している兄の気分ではあったけれど。
「ですが誠さんがいなくなってから……私は物思いに耽ることが増えました。毎日私に声をかけてくれていた、学校でもどこからか様子を見守ってくれていた、登下校中に色んな面白い話を聞かせてくれていた人が、突然いなくなってしまったからです」
俺が大学に入って一人暮らしを始めてからも、時たま詩歌と連絡を取ることがあった。俺から詩歌に連絡をすることはあまりなく、詩歌が学校であったことを話してくれたり、勉強でわからないところを聞いてきたりするぐらいだった。詩歌にとってそれは、寂しさを紛らわすためのものだったのかもしれない。
「携帯の向こうに誠さんはいますが、もう誠さんが側にいないということを私は実感したんです。それが寂しくて、夜に何度も泣きそうになりました」
「そういう時は連絡してくれても良いんだよ?」
「いえ、私はもう大丈夫だからと誠さんを安心させたかったんです。でも私は寂しさのあまり、こうしてここに訪ねてきてしまいました。
私は決めたんです。今までの恩を誠さんに返そうと」
すると詩歌は俺の胸に顔を埋めるようにして抱きついてきた。ついいつもの癖で俺は詩歌の頭を撫でてしまったが、詩歌は満足そうにしていた。
「私は誠さんがいなくなってから、ようやく気づいたんです。私は、誠さん無しでは寂しくて生きていけないと。
私は今までに何度も誠さんに助けていただきました。でも、私は誠さんに何も出来ません。だから誠さんの家を訪ねて色々してあげようと考えたのですが、やっぱり上手くいかなくて……」
「そんな恩返しだなんて気を張らなくても良いよ詩歌。別に俺だって恩を売っていたつもりはないし」
「でも、こんなおっちょこちょいな私で良いんですか?」
「俺の気持ちは変わらないよ。おっちょこちょいな鶴も可愛いじゃないか」
また俺は赤本で詩歌に顔を叩かれた。今度は角が額にクリーンヒットした。
「誠さんは、もしかして私を妹のように思っていませんか?」
「いや、妹に告白はしないと思う」
「なら良かったです。私は誠さんのことが大好きです、一人の男性として。これが私の恩返しです」
詩歌はさらに俺の体をギュッと抱きしめた。恩返しに告白してくるとは大胆な鶴さんだ。
「私は、これからも誠さんと一緒にいたいです。冬にもまた来ていいですか?」
「いや、冬は俺がそっちに帰るよ」
今回は運が良かったけど、やっぱり方向音痴でドジっ娘な詩歌を一人で旅させるのは不安だ。年末年始はどうにか予定を空けて帰らねば。詩歌だって受験直前というタイミングだし。
「鶴の恩返しでは、正体がバレてしまった鶴は去らなければなりません。でも私は誠さんの元を離れるつもりはありません。例え月から使者が来たとしても離れません」
それ違う童話混じってる。
「ただ、私が大学に入るまで待っていてくださいね」
「うん、楽しみにしてる」
その後も詩歌の受験勉強に付き合っていると就寝時間になり、俺は詩歌をベッドへと案内した。俺はソファで寝ようと思っていたが、詩歌が一緒に寝たいと俺の腕を離してくれないため、仕方なく俺もベッドで寝ることにした。何も詩歌と一緒に寝るのが嫌なわけではない、ただ落ち着いて眠りにつけるのか不安なのだ。
詩歌はベッドの奥側で寝て、俺は詩歌に背中を向けて手前側に寝ていた。詩歌が眠ったのを見計らっていつでも抜け出せるように。
「昔、一緒に寝ていた時のことを思い出します」
「中学に上がってからはなかっただろ」
「いえ、私が高校一年生の時にあったじゃないですか。私が風邪を引いた時です」
そういえばそんなこともあった。詩歌の看病をしに行ったら一緒に寝てくれとせがまれて、俺は詩歌が寝付くまでテキトーに話をしたのだが根負けし、布団の中に引きずり込まれたのだ。まぁ詩歌が寝たのを見計らって抜け出したけど。
「こうして夜になって寝ようとすると、最近は中々寝付けませんでした。受験に向けて不安な気持ちもありましたが……いつも誠さんのお顔が頭をよぎるのです」
なんだかそんな話をし続けられるとむず痒くなってくる。俺もふとした時に寂しく感じることがあった。バイト先のおっちょこちょいな後輩を見ていると、つい詩歌のことを思い出してしまうのだ。
「ねぇ、誠さん。誠さんはどんなことを期待されてますか?」
「どういう意味?」
「今、何かしてほしいことはありませんか?」
「ない」
「何も期待されてないのですか?」
「詩歌、ちゃんと生活リズムを整えないと受験に響くぞ」
詩歌は不満そうに俺の背中を叩いていた。俺の理性がそう簡単に乱されると思うなよ。いくらなんでも詩歌のご両親が許すわけ──いや、ここに詩歌を送り出してきてるわけだしな。いやいかんいかんと、俺は後ろから寝息が聞こえるのを待った。
背後からスゥスゥと詩歌の寝息が聞こえてきた。俺はこのタイミングでこっそりベッドから抜け出してソファに移動するつもりだったのだが……俺は今、背後から詩歌に抱きつかれている。がっしりと腕と足で詩歌に動きを封じられている。詩歌の体がダイレクトに俺の背中に当たっている。
……随分と甘えたがりな鶴さんなことで。
それから一週間、受験勉強の息抜きとして俺は詩歌に都心の観光スポットを案内していた。俺がバイトで家を空けている間に料理や洗濯、掃除などの家事をこなしてくれていたが、ハンガーから服がずれ落ちて地面に落ちていったり、冷蔵庫にあった牛乳を床にこぼしてしまったりと相変わらずドジっ娘な鶴さんであった。
詩歌が帰る日には本当に目的の新幹線に乗れるか不安だったため入場券を買ってホームまで見送りに行き、新幹線が出発した後も乗り換える電車を間違えていないか細かく連絡を取ってしまっていた。
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初めてこの土地で春を迎えた。去年引っ越してきた時にはもう桜は散ってしまっていたが、まだ桜は満開だ。俺は改札の前で時間をチェックしながら、妙に落ち着かずにうろちょろしていた。わざわざホームまで迎えに来なくて良いと言っていたが本当に迷わず来れるだろうか。
不安に思っていると、改札の向こうからスーツケースを引いた黒髪の少女がやってきた。
「誠さ──あ」
俺の姿を見つけた詩歌は嬉しそうに笑顔を見せてこちらにやって来ようとしたが、切符が上手く改札に通らなかったのか改札に阻まれてしまっていた。うん、その姿を見ると何故か安心する。
「お久しぶりですね、誠さん」
「いうて二ヶ月ぐらいだけどね」
「それでも長いです」
年末年始に地元に帰った時に顔を合わせ、その時に詩歌の親御さんから娘を遠くで一人暮らしさせるのが不安だからという理由で同棲の許可を貰った、というか俺が知らない内に詩歌が取り付けた。まぁ俺も詩歌の親だったら一人暮らしさせたくないもん。
「さて、誠さん。私は……今までずっと、誠さんに助けてもらっていた幼馴染です。今日からは貴方の彼女として、恩返しさせてください」
「そんな恩返しだなんてかしこまることじゃないだろうに」
「いえ、私はずっと助けられてきたので──」
すると詩歌は俺の正面に立って背伸びをして──キスをしようとしていたが背伸びをしても身長が届かなかったため、俺が少しかがんで唇を合わせた。すると詩歌は満面の笑みを浮かべて言う。
「──これから一生、恩返しさせていただきますねっ」
完