盤上の対決、仕組まれた一手②
この少年とのチェスが始まってから既に十分ほどが経過していた。
どちらかといえば私は劣勢状態にある。この戦いはただ決着さえつけなければ良い。ならば相手の駒の多くを取ってしまえばいい。
だがそれは分かっていても、駒を取れない理由があった。
敵の歩兵の右斜め前に、私の歩兵が存在している。歩兵が進めば敵の歩兵を取ることができる。だが私はその歩兵を手に取り、その後の選択に迷っていた。
私が歩兵を進ませようとすると、彼は言う。
「良いのかな。僕の歩兵を取っても」
その言葉を聞き、私は持っていた歩兵を進めず、全く別のマスに置かれた歩兵を進める。
「良い判断だね」
「外道がっ」
私には相手の駒を取れない理由があった。
それは相手の駒をひとつ取るごとに、紅のいる迷宮の出口がひとつ失くなるというもの。つまり私がこの少年の駒を取れば、紅は脱出から遠退いてしまう。
紅が迷宮へ閉ざされるのだけは避けなくてはいけない。
ーーたとえここで私が負けても……。
「外道で結構。それよりも、そこの歩兵をそこに置いたら、王への道を開けるようなものだよ」
「何!?」
周囲へ目を向けられず、気付かなかった。
私が歩兵を動かしたことで、王妃が王の目の前へとやってきた。既に盤上では多くの駒が何マスも動いており、さらにそこへ追い討ちをかけるような精神攻撃により、盤上の状況を把握できていなかった。
「そこまで王妃が来ていたか……」
「チェックメイト、はまだしないさ」
王の前に王妃を置こうとしたのだろうが、それは王でも取れる場所にある駒だ。だからだろうか。
少年は王妃を一歩戻し、チェックメイトをすることはなかった。だがそこにある駒は盤上のどこにある駒でも取れない絶妙な位置にいた。
私は冷静に盤上を眺める。
そこで気付いた。
もうひとつ、先ほど王妃を進めた場所へと進めるであろう駒があることに気付く。
「僧正か」
恐らくこの少年は王妃を犠牲にするよりも僧正を犠牲にすることにしたのだろう。僧正は斜めならば制限なく動ける。
優秀な兵は、敵にいれば厄介となる。もしその兵が我が軍にいたのならば、堂々と王妃を取っていた。だがその兵を使いこなす知将が優秀でなければ、危機的状況でも奴の喉元へ刃を突き立てることだってーー
ーーけれど世界は、優しくない。だから私は手を止めている。
「持ち時間残り十秒、早く決めないと降参と見なすけど、それで良いかな」
盤面を見直し、まだ王を取られない策があることに気付いた。
「降参か。降参などしないさ。まだ私には奥の手が残っているのだから」
王と、まだ一度も動かしていなく、最端にいる城へ手を伸ばした。
「キャスリング」
「そう来たか」
さほど驚いた様子もなく、少年は私の行動に笑みを浮かべた。
キャスリング。
それは王と城の駒の位置を移動させる手。それにはいくつかの条件がある。
一つ、王と城が一度も移動していないこと。
一つ、王へチェックがかかっていないこと。
一つ、王と城の間に駒がひとつもないこと。
一つ、王と城の間を敵の駒が通れないこと。
「条件はクリアされている。キャスリング」
王と城の位置を入れ換えた。それにより、次にかけられていたであろうチェックから免れることができた。
「どうだ」
「マナーが悪いが、まあ良いだろう」
少年はそこまで驚いた素振りを見せることはせず、私が両手を使ったことへ酷く嫌悪感を抱いているようだった。
何か悪いことをしただろうか。
「彼女の脱出まではまだ時間があるんだ。それまで君を追い詰めさせてもらうよ」
「かかってこいよ。外道」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
文月と謎の少年が激闘を繰り広げる中で、紅はただ黙々と迷宮から脱け出すための出口を探していた。
何のヒントもなければ、ただ一人として私を助けてくれる人はいない。
ただ答えなき道を、無意味に進み続けることしかできない。
せめて何かヒントさえあれば……
ーーけれど世界は、優しくない。
だから私はこの迷宮の中を歩き続ける。だから私はこの迷宮から脱け出せずにいるのだ。助けは来ないーー当たり前だ。
こんな場所に誰かが来るはずもない。だからこそ私を拐った何者かは私をここへ監禁したのだ。
私を監禁した者の目的は?
なぜ私が……。
考えられるとすれば、十器聖が文月との決闘に必要だったから。なら私はなぜ身動きがとれる状態で捕らわれていた?
もしまだ勝負が始まっていないのなら、私は身動きがとれなくなっていたはずだ。つまりもう勝負は始まっている?なら私がさせられているのは……
「ここからの脱出か」
早く脱出をしないと文月がピンチになるかもしれない。急がないと。
私は走り、出口を探す。
何の手がかりもない無謀な迷宮を、私は進む。
十字路やT字路がいくつも重なり合い、入り組んだ道。
「待てよ。仕方ない。ここは全て曲がり角を右へ曲がるという方法しか……」
だが考えてみれば、この路地は右だけ進んでも出口にはたどり着けない。迷路のようになっているのではなく、この迷宮はどの壁とも接続しない壁がいくつか存在している。
よって、右にだけ曲がっても同じ場所を何周もするだけ。
「早くここから脱け出さないと」
悩んでいると、私はあるものが落ちていることに気付く。それはただの紙切れ。だが中には絵が書かれていた。
チェスに使われる駒のひとつ、ポーンが一番左に描かれ、次にナイトの駒、その次はポーンとルークの駒が縦並びに描かれ、次にクイーンとビショップが縦並びに描かれ、最後にキングとポーンが縦並びに描かれている。
「これは……」




