第2話 『ヴォーダトロン』
今は、西暦2068年であるが……この世界を『異変』が襲い始めたのに、きっぱりと『西暦何年』という数字を当てはめることはできない。
今よりもはるか前……それこそ、4桁の数字の頭が、まだ『1』だった頃から、『エネルギー問題』というものは存在し、たびたび話題に上がっていた。
そしてそのたびに、なあなあで済まされ、忘れ去られてきた。
ある時は文明の発展を優先し、ある時は利益のみを追求してビジネスライクな判断を下し、ある時は『他の国はやってるじゃないか』と言い訳して、ある時は『温暖化など起こっていない、嘘っぱちだ』としらばっくれて……
その結果やってきたのが、今のこの時代であると言えよう。
今の時代を、人は様々な名で呼ぶ。
『終末の時代』『災害世紀』『人類の衰退期』……その他色々と、散々な名前をつけて呼ぶ。自業自得であろうこの現状を、他人事のように皮肉った名前が、いくつも誕生した。
それらの名前に共通して言えるのは……込められているイメージが、地球人類の文明の衰退を、露骨に感じさせるものであるということだろう。
『21世紀』が中盤に差し掛かった頃から、世界各地で、石油や天然ガスといった化石燃料を始め、マンガンやコバルトなどのレアメタルなど、多くの資源が、見込まれていたよりもはるかに早く可採限界を迎え、次々と枯渇……採れなくなっていった。
比較的余裕があると見込まれていた石炭などや、新たに注目され始めていた、シェールガスやメタンハイドレートなども次々と底をつき、地球上のあらゆる国や地域は、今の社会を、生活を維持していくために必要不可欠な『資源』を失った。
それらは、ビニールやプラスチックを始め、様々な製品を生み出すための『原料』であった。
自動車を、飛行機を、船を、宇宙船を動かすための『燃料』であった。
それらを売り買いすることで経済を回し、国を潤す『商品』であった。
間違いなく、それらの……総じて『エネルギー』や『資源』としてまとめられるものの存在は、人類の作り上げた、誇らしい高度な文明を維持するために必要不可欠なもの。大きな『柱』を担っていると言っていい存在だった。
ゆえに……それが失われた時、積み上げてきた全てが、あまりにも簡単に崩れ去ってしまったのは、当然のことだったと言える。
当然、世界規模でモノが……物質もエネルギーも、何もかもが足りなくなり、大恐慌が発生。世界経済はまたたく間に、それこそ、あっけないほど簡単に崩壊した。
それに引きずられる形で、各国の治安は急速に悪化し、警察機構もそれを満足に取り締まることなどできなかった。各国の政府は政治機能を失い、民衆が暴徒化する事態が多発。限られた物資の奪い合いが始まり、明日をも知れぬ不安の矛先を求め、責任の擦り付け合いに発展。
そもそも自国のことだけで精いっぱいになる中、他国に対して援助やら何やらをする余裕がある国などなかった。国際社会の協調はその欠片すらも見られなくなり、長い時間をかけて積み上げられてきた、世界の国々の結束は、きれいに霧散し消えた。
資源枯渇が始まってから数年とたたずに、人類の社会は……陸海空を支配し、宇宙にまで手をかけ始めていた高度な文明は、見るも無残に崩れ去った。
しかも、人類を襲う悲劇はそれだけでは終わらなかった。
資源枯渇が公然の事実となって以降、人類の生存圏を次々と襲い始めた、数々の自然災害。
地震、干ばつ、暴風雨、豪雪、津波、果ては火山の噴火や海水温の上昇にいたるまで……様々な災害が人類を襲った。
地殻変動や異常気象に端を発すると思われるそれらの災害は、学者たちの観測データからは全く予想不可能であり……今まではそういった災害の心配がないと言われていた地域ですら、全く安心できない時代が訪れていた。世界各地で地面が揺れ、山が火を噴き、雨が家を押し流す。
加えて、それに伴って起こった、ライフラインの寸断、都市機能の麻痺、アネクメーネ化。さらには、数少ない資源採掘設備の喪失……果ては、原子力発電所などにおける事故の併発までも。
資源枯渇により、それらの災害からの『復興』すらも困難、ないし不可能といえるほどの物資難に陥っていた人間社会への、あまりにも過酷な追い打ちだった。
どうにか寄り添い、協力して生きていこうとしていた人類は、勢いをそがれる形となったばかりか……そんな暇はあたえないとばかりに起こった、さらなる災厄に直面する。
人類の社会が崩壊してからしばらくして……世界各地に異形の怪物が現れ始めた。
それらは、今までも地球上に存在していた動物の姿に似た姿をしているものがほとんどだったが……同時に、明らかに異常な性質を併せ持ってもいた。
ありえない巨体、ありえない性質、ありえない生態……物理学的に、生物学的に、既存のあらゆる学問にてらして……理解不能。『ありえない』……この一言に尽きた。
仮に既存の生物が、世代を重ねて徐々に性質を変え、『進化』していくとして……しかし、それに要する期間は千年や二千年では足りないだろうと、専門知識のない素人にもわかるほどの『異常』。
そして、それらの特徴を持つ者達は……一様にして、人類を目の敵にしていた。
まるで親の仇のように、あるいは最高のご馳走のように、無慈悲に、ためらいなく、容赦なく……その牙にかけ、食い殺し、腹に収め……命を奪う。
いつからかそれらの生物は、理解不能の怪物、という意味を込めて『クリーチャー』と呼ばれるようになり……都市部も田舎も、街中も荒野も関係なく出現するそれらの跋扈により、人類はさらにその数を減らし、生息域を狭めることとなった。
そんな地獄を生き残った人類は、使える資材をかき集め、互いに身を寄せあい、必死に自分達の身を守りながら……安息の地を欲して、住むための新たな『町』を作った。既にあった都市に手を加える形で改造し、敵の侵入を防ぐ防御陣地を兼ねた居住区『フォート』を作り上げた。
さらに、彼らは身を守るための武器を欲した。
時に『クリーチャー』と戦い、時に同じ人間の略奪者と戦うために。
作るにも動かすにも、維持するだけで莫大なコストがかかる、戦車や戦闘機といった戦闘専門の武器類は、作ることも使うこともできなくなった。
一方で、瓦礫をどかしたり、使える資源を掘り起こしたり、様々な作業のための工事車両が必要とされた。
人々がその2つを合わせてしまえばいいと考え、武装した工事用車両である『AW』……『アームドワーカー』が作られ、人類の主力たる『武器』となるのは、必然だったのかもしれない。
☆☆☆
そこはかつて、『インド』と呼ばれていた国があった土地。
そこに、『ヴォーダトロン』という名の『フォート』があった。
このあたりでは最も大きな部類に入る『フォート』。
そこには、近代都市とは言わないまでも……かつての先進技術文明の恩恵や威光、あるいはその残照を感じられる、人間らしい暮らしができる場所であると言えた。
高さ10mを超える頑丈な防壁で全方位を隙間なく覆われたその都市の内部は、頑丈な建物の中に清潔な居住空間があり、口にしても問題ない食料や飲料水があり、機械類を含めたインフラも最低限は稼働している環境だった。
これがほんの半世紀ほど前で、そこが先進国であれば、それは何も感心することも驚くこともない、ごく当たり前のことだったのだろう。
しかしこの時代、この世界において、このような整った環境は誰もが欲する『天国』のような園であると言えた。
そんな街に暮らせているからだろうか。暮らしている人々にも、活気はある。
通りにはちらほらと露店が並び、商魂たくましい人間が、どこからかどうやってか調達してきたらしい商品――食料や日用品など――を売って日銭を稼いでいる。
そんな街に……つい先程まで、『オイルトカゲ』を相手に大立ち回りを演じていた兄妹が、愛機たる『AW』に乗って帰ってきた。
「よう、ジャンク屋兄妹。仕事帰りか? どうだった収穫は?」
「全然だったよ。あの辺はもうだめかもな、俺達以外にも漁ってた連中はいるし、取りつくしちまったかもしれん……ま、収穫なしだけは何とか防げたけどな」
『ヴォーダトロン』に入るための入り口は、その四方にある4つの門だけ。
そのうちの一つ、南側の門を守る衛兵……今日の担当者は、ハルキにとって顔なじみと言える1人だった。年も近く普段からよく話したりするし、店の客でもある。
極めて職務に忠実に、ここヴォーダトロンの『行政府』から発行された『通行証』をチェックし、規定に則って積み荷を軽くチェックする。
機体後部のケースのふたを開けると、そこから漂う淀んだ臭気に一瞬だけ顔をしかめるも、直後にその中身を見て納得すると同時に、感心したように言う。
「ほー、これはこれで立派な収穫じゃないか、ご苦労さん」
「おう。おかげでくったくただけどな……早く帰って寝たい。こいつもこんなだしよ」
くい、と親指で後ろを指さすハルキ。
そこでは、後付けの後部座席に座っているアキラが、疲れてしまったのだろう、眠そうに目を細めて大あくびをしていた。
「ははは、引き留めて悪かったな、通ってくれ」
「ん、お疲れ」
通行許可が出ると、ハルキはレバーを動かしてAWを発信させる。
やや大きめの駆動音だが、この程度の騒音はこの町では珍しくもなんともない。大概のAWは、作業用重機をベースにしている上、無理やりな改造を施されていることも多い。その性能と引き換えに、耳に優しくない音を鳴らして走るのは、最早語るまでもなく……そして多くの人にとって、それが夜中、静かに寝ているような時間帯でもなければ、今更気にするまでもないことだった。
時折、何か注目するようにハルキ達の乗るAWを見ている者もいるが、そのほとんどは、今はもう見ることも少なくなった、『旧型』のAWを物珍しく思ってのものだろう。
特にそれを気にすることもなく、ハルキは車を走らせ……1件の店の前に来たところで止める。
看板に書かれている店名は、『サウザール素材加工店』。
入り口の札が『営業中』になっているのを確認した上で、ハルキは車から降りて、後ろのケースを車体に固定している留め具を外し、取っ手になる部分を持って、背負うようにケースを持ちあげる。積み込む時はアキラと2人がかりで運んだそれをどうにか1人で持ちあげ、店の前に下ろした。
その際の『ガシャン!!』という轟音を聞きつけてだろう、店の入り口を開けて、1人の女性が顔を出した。
黒髪に、やや色白の肌。細身に見えるが引き締まった筋肉と、180㎝近い長身を持つ女性だ。決して小柄ではないハルキが、僅かではあるが見上げる形になっている。
ハルキと同様にツナギのような服に身を包んでいるが、上の服の前、ファスナーになっている部分を大きく開いて着崩している。中には薄手のTシャツのようなものを着ているようだ。
見た目一発、やや機嫌の悪そうな表情になっている彼女は……この店の店主。店名そのまま、名を『ティマ・サウザール』といい……ハルキの顔なじみにしてビジネスパートナーである。
名前からもわかる通り、この店、『サウザール素材加工店』の店長だ。
そのティマは、店の前に置かれた巨大な金属のケースと、続いてそれに手をかけているハルキをじろりと見て……ため息を一つ。
「……とりあえず、まず一声かけるとかそういう配慮はないのかおめーは。あと2、3歩歩けばそこに扉があって中にあたしがきちんといるんだが? 事故でも起きたのかと思ったぞ」
「悪り、疲れててそこまで頭回んなかったわ。つーわけで獲物狩ってきたんで査定と買い取り頼む」
矢継ぎ早に述べられた注文に、やれやれ、と疲れた様子で頭を振りつつも、仕事であるからにはきちんとやるつもりなのだろう。ティマは、今しがた轟音を立てて店の前に置かれたばかりのケースのふたを開けて、中を見る。
途端、『ほー』と感心したように声を漏らした。
「オイルトカゲか……しかもでかいな。旧型でよく仕留められたもんだ」
「おう、すげーだろ。まあ、仕留めたのはうちの妹だけどな……今はこのとおりなんで、また今度褒めてやってくれ」
「……みてーだな」
後部座席で船をこいでいる状態のアキラを見て、ティマも成程と頷く。
そしてティマは、そのケースをひょいと抱えて――ハルキがどうにか持ちあげていた重さのそれを、いともたやすく――店の横にある開けたスペースに持っていく。
細身の女性、という見た目に似合わぬ、相変わらずの怪力を前に、しかしハルキもとうの昔に見慣れた光景であるので、いちいちリアクションもしない。
ここのスペースは作業場になっていて、通常、大きな『素材』などの加工や解体に使う場所なのだ。
ティマは一旦そこにケースを置くと、奥から大きな『計り』と、巨大な金ダライのような器を持ってきた。器を計りの上に乗せ、そこにケースの中の『オイルトカゲ』の死体を出して乗せる。
その際、既に外ににじみ出ていた、油のような体液も、どばっとぶちまけて入れた。しかし器用なもので、地面にも、測りの皿の部分にも、一滴もオイルはこぼれていない。
その状態で計測した重さから、金ダライそのものの重さを引いて、さらに死体の状態――皮など他の素材が使えるかなどの条件を加味して、素早く頭の中で見積を作り上げる。
「今の需要と取引値から見て……このくらいでどうだ?」
手に持った小さな黒板――金ダライなどと一緒に持ってきていた――にその計算と、査定の値段を書き込んで、ハルキに見せる。
ハルキは、そこに書かれた金額を見て……『おぉ』と思わず声が出た。
「随分と気前いいな。いや、ありがたいけども」
「大口の注文が重なったらしくてな、今ちょうど工業油なんかが品薄な状況らしい。稼ぎ時にこのサイズのオイルトカゲはこっちとしてもありがたいからな、少し色をつけさせてもらった」
「よし、売った!」
「毎度。今、金をとってくる、ちょっと待ってろ」
そう言って一旦彼女は店に引っ込み、しかしすぐに、手に漆黒の紙束を持って戻ってきた。
いや……その紙は、ただの紙ではなく、れっきとした『紙幣』なのだから、ここはこれは『札束』と呼ぶべきなのだろう。
それを受け取ると、ハルキは素早くそれを慣れた手つきで数え、間違いなく提示された枚数……金額がそろっていることを確認して、頷いた。
取引はこれで終了。ハルキは受け取った報酬を鞄にしまうと、運転席に乗ってエンジンをかける。
「毎度ありがとよ、とでも言っとくか。毎回思うんだが、お前らの腕なら、ハンターに転職してもやっていけるんじゃねーのか?」
「趣味じゃねーもんでな、そういうのは。そんじゃな」
律儀に見送りに出てきているティマにそう返すと、来た時よりも少し重くなった鞄を座席の下に置いてしまい、アクセルを踏み込む。車が出る。
後ろ手にひらひらと手を振って、ハルキはティマの店を後にした。
向かう先は、今度こそ、我が家である。
道すがら、ハルキはふと、先程ティマから言われた『ハンター』という職について少し考え……しかしすぐに『ないな』ときっぱり切り捨てる。
言った通り趣味に合わないし……後ろの座席で眠る妹がいる自分が、危険が大きい職業に就くわけにも、彼女を巻き込むわけにも行かない。
もっとも、今の職とて似たり寄ったりかもしれないが。
ハルキとアキラは、この『ヴォーダトロン』の町で『リサイクルショップ』を営んでいる。
門番も言っていた通り、やっている仕事の内容は、半ば『ジャンク屋』である。
この衰退し荒廃した世界で、放棄された廃墟などから使えそうな機械のパーツなどを回収し、必要なら修理したり手を加えて、使えるようにして売る……というのが主な仕事だ。
そのパーツの採取・発掘のため、安全圏である『フォート』やその周辺から出て、廃墟などのあるエリアへ足を運ぶことから、野生で跋扈している『クリーチャー』に出くわすこともある、安全とは言えない職業だが……今の時代、それなりに稼いで安定して暮らそうとすれば、全く危険と関わり合いにならずにやっていける職などどの道ないといっていい。
であるならば、特技や知識を生かすことができ、かつ性にあっている職を選ぼう、と2人で話して、馴れ親しんだこの道に進んだのが、もう何年も前のことだった。
もっとも、今回のように、流れで『ハンター』の真似事をすることも……『クリーチャー』を討伐し、その素材を換金して収入に換える、という稼ぎ方をすることもあるが。
文明の衰退と共に現れた魔物『クリーチャー』。積極的に人を襲い、人類の斜陽に追い打ちをかけた彼らはしかし、同時に人類が生きていく希望、あるいは救済としての面も持っていた。
いかなる理由があってそういう突然変異をなしたのかはわかっていないが、彼らはその体に、今となっては人間の文明が失ってしまった、様々な『資源』を有しているのだ。
例えば、今日ハルキ達が持ち込んでティマに売った『オイルトカゲ』は、体液が原油や工業用油と似た成分になっており、抽出・精製することで様々な用途に使える『油』を入手できる。
さらに、その皮は防水性が高く、きちんと処理することで、油紙などのように、湿気を遮断して紙などを保存するのに役立てることができる。
『ガラスクイムシ』という名の、ハンミョウに似た姿形で、大型犬ほどもあろうかというサイズの昆虫型クリーチャーは、砂や土を食べ、さらにその名の通りガラスを食べる。
そうして、ケイ素成分を吸収して甲殻などにため込むという生態を持っているため、脱皮の際にできた抜け殻や、討伐した際に解体した甲殻などを加工すると、上質なガラスの材料になる。
食用になるものこそ滅多にいないが、素材が貴重な資源となる『クリーチャー』。
それを狩る『ハンター』は、危険だが実入りの多い職として知られていた。
天然資源がほぼ枯渇したこの時代において、人類が資源を手に入れるためになくてはならない職業として、人々に頼りにされているが、当然その危険度ゆえに、死傷者が絶えない職でもあった。
それを考えれば、その道を選択するのはいささか躊躇われる。
ほとんどの人はそう考えて、身近で安全な、あるいはもっと自分に合った職業を探す道を選び……ハルキ達もまた、その例にもれなかったわけであった。
街中を走る最中、ハルキは何の気なしに、町の大通り……その両脇に立ち並ぶ、商店や露店を見る。『ヴォーダトロン』に暮らす人々の営みの形と呼べるものが、いくつも目に入ってくる。
入り口の開け放たれた酒場のようなところで、まだ明るいうちから、ガタイのいい――荒くれ、といった風体にも見える――男たちが、それぞれ酒の入ったジョッキを手に持って、テーブルに置かれたつまみと一緒に酒盛りを楽しんでいる。
どんどん追加で料理を頼んでいるようだ。景気がよさそうな様子からして、何か仕事が上手くいって収入があったので、パーッとやっているのだろうか。
あるいは、今日のハルキ達と同じように、予想外の臨時収入か何かがあったのかもしれない。
バタン、という物音と怒鳴り声がして、通りの反対側を見て見ると、同じような飲食店らしい店から、小汚い身なりの痩せた男が蹴り出されるところだった。
その格好や、ズボンの膝や尻に土がついている所からして、あの男は物乞いか浮浪者の類であろうか。食べ物をもらおうと店に尋ね入って、しかし聞く耳持たれなかったのだろう。
ガタイのいい店主(らしき男)に蹴りだされる男を、横目でちらっとと見る者はちらほらいるが、助ける者や声をかける者はいない。
素知らぬ顔で通り過ぎ、あるいはその横を抜けて自分が店に入っていく。
大通りに面したまた別な店では、身なりのいい紳士といった見た目の男が、同じく着飾った美女と腕を組んで、笑いながら装飾品か何か……値の張りそうなものを手に取って見て、楽しそうに何を買おうか選んでいる。……値段を記した札の方を見ている様子は、ない。
その通りを少し裏路地に入ると、仕事も金も食べ物もなく、地べたに座り込んで無気力にうなだれているだけの浮浪者たちが、恨めしそうに大通りを、道行く人々を目で追って見ていた。
しかし、それ以上何をすることもなく、しばらくするとうつむいて膝を抱えてしまう。
持つ者と持たざる者。富める者と貧しい者。
まるで対照的といえる2つの世界が、この町の中には混在している。
高く頑丈な塀で周囲を囲まれ、『クリーチャー』やならず者達から守られた環境。インフラなども整備され、文明的で豊かな暮らしができる場所であるというのは間違っていない。
だが、それだけであるはずもない。世の中、そんなにうまい話はない。
だからこそ、皆力と知恵を振り絞り、各々お持つ『技』を最大限生かして働くのだ。
そうしなければ今の世の中、今自分がいる地位など、簡単に失われてしまう。
『働かざる者食うべからず』ということわざは、この『災害世紀』において、この上なく社会を的確に言い表している至言であった。
ふとハルキは、座席の下に置いてある自分の鞄に、ちらっと眼を向ける。
その鞄の中に、先程無造作に放り込んだ、黒い札束。
今現在、この世界で流通しているほとんど唯一の貨幣……『ノール紙幣』。
複数のフォートが加盟し、協力して運営されている、この世界の中心的機構『大連合』が発行しているものであり……『偽造不可能な紙幣』として知られている。
その秘密は、細やかな印刷ももちろんだが……その異常な『頑丈さ』にある。
触った質感は間違いなく紙でありながら、大の男が両手で思いきり力をこめて引っ張っても破れないほどに強靭であり、普通の紙ではこの強度を再現するのは不可能なのだ。
さらには、刃物でも切れず、火をつけても燃えにくく、水にぬれてもすぐ乾くのだ。
製法も材料も秘匿されているこの紙幣こそが、今の世の中に置いて幅を利かせる力の1つ。
先に並べられた、先行きの明るい者とそうでない者の差は、これを持っているか否か、それだけと言ってもいいだろう。
「……地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったもんだ」
「それってこの町が地獄ってことっすか?」
「いや、町っつーか今のご時世そのものが……って、何だお前起きてたのか」
「腹減って目が覚めたっす……早く帰ってご飯食べよ、ハル」
「わーったわーった。……あんま食材なかった気もするな、何か買って帰るか」
「さんせー」
世の無情を憂えども、自分達にできることはなし。
せいぜいが、後ろの座席に座っている妹を飢えさせないよう……水や食料、その他様々な物資に変わる黒い札束を絶やさないよう、日々の仕事に力を注ぐくらい。
衰え行く世界の中の、代わり映えのしない日常を、しかしハルキは、今この手にあるものくらいは失うまいと、何となく思った。