第二十五話「追いつけない背中。そして」
「ふぅ~。ようやく最初の山頂っすね!」
美嶺の言葉と共に見えたのは、子三瓶の頂上を示す標識だった。
雨の中でポツンと立っており、他には人影ひとつない。
「五竜さんのチームはさすがにいないですねぇ」
「……まだ、そんなに離れてない……はず」
「分かるんですか?」
千景さんの確信めいたつぶやきに、私と美嶺は色めき立った。
すると、ほたかさんが進行方向にある少し低い山頂を指さす。
「目の前に見えるのが孫三瓶なんだけど、その登山道に見えるのは他の隊で、松江国引のみんなは見えないでしょ?」
「そう……ですね」
「……ということは、まだこっちの子三瓶側の斜面を下ってるところだと思うのっ!」
「うん。ここから見えないということは……意外とすぐ近くに、いる」
二人の予測を耳にするなり、美嶺は腕を振り上げた。
「じゃ、急いで下るっすよ!」
「美嶺ちゃん! だ~めっ。わたしたちはここで休憩だよっ。もう連続一時間以上は歩いてるし、雨だといつもより疲れるもんね」
「し、しかしっすね」
気がはやる気持ちはよくわかる。
でも、ちゃんと体を休めてカロリーを補給しないと、いざというときにバテてしまうらしい。
美嶺がダウンしてしまえばチームにとって致命傷になるので、私としてもしっかり休んで欲しい。
「美嶺の気持ちは分かったけど、体はどうかなぁ~」
けっこう疲れてるはずなので、心臓もめいいっぱいに動いてるだろう。
私は美嶺の胸に耳を当てた。
「ほらほら~。ドキドキの音が激しいよ~」
カッパ越しなのに激しい鼓動が聞こえてくる。
これはちょっと休んだほうがよさそうだ。
そして美嶺は自分の胸の小ささに悩んでいたけど、なかなかどうして、この柔らかさは格別なものがある。
私は思わず鼻息を荒くした。
「うあ……。な、なにやってんだ!」
「あぅぅ? 心音がさらに激しく!」
するとその時、山頂に見知らぬおばさまが二人、現れた。
「あらあら。また若い子に会ったわ~。何かのイベントなのかしら?」
「女の子同士、仲がいいわね~」
誰もいないと思って油断してた……。
どうやら一般の登山者のようで、私は恥ずかしくなって美嶺からとっさに離れる。
進行方向から現れたので、きっと五竜さんチームともすれ違ったに違いない。
「……ちわっす」
「こ……こんにちは」
美嶺と私は頬を染めながら会釈する。
「こんにちはっ。今、登山大会をやってるんです~」
ほたかさんは部長らしく、ハキハキと挨拶をしてくれた。
「登山に大会! そんなものがあるのね。雨だから、気を付けてね~」
「お二人も雨の中、大変ですねっ」
「そうなのよねぇ、あいにくで~。……でも、せっかく登るつもりで来たし、お昼には晴れるって予報なので、思い切って登り始めてみたのよぉ~」
そう言っておばさまは笑顔になる。
それを聞いて、私は心が躍った。
「お昼には晴れるんですか! いいこと聞けましたっ」
スマホがないので気軽に天気予報を知るすべがなかったけど、これを聞けただけでもやる気が出てくる。
「それにしてもスゴいっすね。アタシらは大会だから雨もかまわずっすけど、なかなかこんな雨を登るのは珍しいんじゃないっすか?」
「そうねえ。……多くはないけど、おばさんたちみたいな猛者は他にもいるわよ~」
「そうそう。かの『熊殺しの鉄拳』五竜先生なんて、わざわざ雨を選んで登ってたらしいわ」
「有名よねぇ! 立ち往生した遭難者を立て続けに救って、表彰されたこともあるとか。おばさん世代の憧れよぉ~」
そう言って、おばさまは二人で盛り上がり始めた。
「じゃあ、みなさんもお気をつけてね。未来の山岳界を支えるのよぉ~」
「お気をつけて~」
なんだか大きな想いを託されてしまったけど、手を振るおばさま二人を私たちも見送る。
あんな感じで大人になっても仲良く山登りできる仲っていいなって思いつつ、こんなところで思わぬ名前を聞いた驚きに、私たちは顔を見合わせた。
「『熊殺しの鉄拳』五竜先生……って、うちの校長先生だよね?」
「ああ。……救助の話は本にも書いてあったけど、やっぱりすげぇな。まるでカリスマだ……」
美嶺とほたかさんはウンウンとうなづいている。
そう言えば二人は校長先生の『自伝』とやらの愛読者らしいので、おばさまたちのお話に共感しているのかもしれない。
私と言えば……ちょっと話についていけず、置いてけぼりの気持ちになってるけど。
「自伝は……うちの店に、ある。読む?」
「えーっと……。どうしようかなぁ……」
千景さんのお店にも置いてあるとなると、意外と校長先生は山の世界の有名人なのかもしれない。
本の中身が気になるような、怖いような。
私はひとまず言葉を濁すことにした。
△ ▲ △ ▲ △
子三瓶の頂上での休憩を終え、私たちは次の山頂である孫三瓶に向かった。
子三瓶の下り道や孫三瓶の登り始めのときには五竜さんたちの後ろ姿が見えていたけど、孫三瓶の頂上に着くと、やはり姿は見えなくなっている。
この付近は少し背の高い木が生い茂り、視界をさえぎる林のようになっていた。
「ぬぅぅ。五竜はすぐ見えなくなるな……」
「まあまあ、美嶺。あわてず行こうよ~。案外、そこの林の中に入ったばかりかもっ!」
そう言って林を指さしたとき、木々の間に違和感を覚えた。
葉っぱのように見えて、形が葉っぱではない。
それは人だった。
しかも、よく知っている人。
「あ……あま」
あまちゃん先生だ……と言おうとした時、先生が慌てて唇に指をあて、「しーっ」というしぐさをした。
なんということだろう。
あまちゃん先生は迷彩模様のカッパを着ているのに、一発で見つけてしまった。
他のみんなは誰も先生に気が付いてないようだ。
偶然も手伝ってくれたけど、自分の観察眼が怖い。
「ましろちゃん、どうしたの? ……『あま』?」
「あ……あま……。雨音がまだまだやみませんねっ」
先生もがんばって隠れてるし、みんなも特に審査に引っかかる行動はしていないので、わざわざバラす必要はないかもしれない。
「うん。林の中に入れば……少しは濡れにくく、なるはず」
千景さんはうなづき、歩き出した。
私も急いでそのあとに続く。
「そうですねっ。じゃ、行きましょう。行きましょう!」
「ましろも慌てるなよぉ~」
あまちゃん先生がいる脇を通り過ぎるとき、視線だけを向けると先生はウインクして応えてくれる。
せっかく秘密にしたし、大会が終わったらジュースとかをおねだりしちゃおう!
私は足取り軽く、林の中に踏み込んだ。
このまま何事もなく大会が進むと、この時は思っていた。
まさかあんなトラブルが起こるなんて、誰にも知る由がなかったのだ――。