第十三話「山の挨拶は大事です」
「暑い……暑いですねぇ……」
女三瓶に登った道を折り返し、歩き続けた。
トイレがあった場所で休憩をはさんだものの、気温がかなり上がっていて蒸し暑い。
「山のふもとは気温も高いし、お昼過ぎだもんね~」
「汗、だらだらっすよ……」
パワフルな美嶺もだるそうにつぶやいてる。
さっきチェックポイントの『A』がぶら下がっていた場所を通り過ぎたけど、ほたかさんが不安視していたとおり、すでにチェックポイントの印は撤去されていた。
その代わりに別の場所に『C』の印がぶら下がっていたわけだが、「ましろちゃんのおかげで助かったよ~」と言われて、すごく嬉しかった。
おしっこを我慢するという大ピンチも、それだけ記憶に残る出来事だったわけで……。
ほたかさんの助けになったのなら、あの時の辛さも救われるというものだ。
……もう二度とおしっこで苦しみたくないけど!
それにしても、山道を下るというのは、思った以上に足への負担が大きかった。
登りよりは疲労感は少ないけど、降りるときの荷重が膝にのしかかってくるのだ。
事故や怪我は登りよりも下りのほうが多いらしい。
でも、目の前の千景さんの歩き方は安定しているので、真似して歩くことですごく安心できた。
小さな歩幅で、足全体でゆっくりと地面を踏みしめる。
前かがみで歩いたり、スピードを出すのは本当に危険なので、まっすぐに立って着実に歩くのだ。
『これは……ジェラシー、です』
千景さんを見つめていると、その言葉を思い出してしまう。
あれはどういう意味……だったんだろう。
千景さんは言葉が少ないから、何に対するジェラシーなのかよくわからない。
確か、最初は家庭科室でほたかさんのぬいぐるみを見て言っていた。
他にもだいたい、ほたかさんと私がイチャイチャしてた時……。
(千景さんがジェラシーを感じてるのは……ほたかさんか、私? どっちが好きかっていえば、付き合いの長いほたかさんだろうなあ……)
私が千景さんと友達になったのはこの一か月ほどなので、まだまだお互いに知らないことも多いと思う。
もっといろんなことを知りたいと思った。
(……おっと。いけない、いけない)
美嶺が一番重い荷物をがんばって背負ってくれてるんだから、自分の妄想に浸ってるわけにいかない。
後ろを振り返ると、美嶺は汗だくになっていた。
「美嶺。すごい汗だよ? 喉、乾いてない?」
「大丈夫だ。まだまだいけるよ」
美嶺は笑顔で答える。
私にもっと体力があれば、こんなに負担をかけなかったかもしれない。
もっともっとトレーニングをしようと心に誓う。
すると、美嶺がなにかに気が付いたように前方を見た。
「登山者だ。すれ違うから横によけるぞ」
その言葉につられて前を見ると、三人の奥様たちが見えた。
「そっか。大会中っていっても、普通の登山者もいるんだね~」
「まあ、山を封鎖するわけにもいかないだろうしな」
言われてみれば、それはそうだ。
登山隊のほうが人数が多いので、奥様たちの邪魔にならないように道を開ける。
すると、美嶺が大きな声で「ちわ~っす」と挨拶をした。
美嶺の知り合いなのだろうか?
それにしては、登山隊の誰もが元気に挨拶している。
千景さんを見ると、うつむいてボソボソと声を出していた。聞こえづらいが、かろうじて「こんにちは」と言っているように聞こえる。
きっと知らない人だから、挨拶するのが恥ずかしいんだろう。
そして私もとっさに言葉が出せず、会釈しかできなかった。
「みんな可愛いわねぇ。高校生?」
「あぅ……。えっと、はい。……高校生です……」
「大変ね~。もうすぐ登山口だから、もう一息よ! 頑張って~」
「ありがとう……ございます」
お礼を言うと、奥様たちは笑顔で通り過ぎていく。
これから登るのだろうか。
再び歩き出したけど、可愛いって言われたことを思い出すとニヤニヤしてしまう。
(こういう時は美嶺、赤くなってそう……)
ふと思って美嶺を見ると、予想通りに頬が少し赤くなっている。
これは暑さじゃなくて、照れのせいだろう。
「そういえば挨拶してたけど、美嶺の知ってる人なの?」
「いや、全然」
「そうなんだ。私は普段、知らない人と挨拶しないから、とっさに言葉が出てこなかったよ……」
「アタシも街ではそんな感じだな。親からは『山のマナーだから、挨拶はするように』って言われてて、アタシもなんとなく挨拶してるんだよなぁ……」
歩きながら私と美嶺が話していると、後ろのほうからほたかさんの声が聞こえてきた。
「ましろちゃん、美嶺ちゃん。お山の中で挨拶をする理由は何でしょう?」
「理由ですか? マナー……かなぁ。お互いが気持ちよく登るため……みたいな」
「それは一つの理由なんだけど、そのほかに、あと二つあるんだよっ」
マナー以外の理由……。
ほたかさんがわざわざ言うっていうことは、山にちなんだことかもしれない。
(……。…………)
ダメだ。
全然思いつかない。
すると、美嶺が「礼儀!」と叫んだ。
「美嶺ちゃん……それはマナーといっしょ……かなっ」
「わかった! 空手の『押忍』と一緒っすね。尊敬・感謝・忍耐の精神。山に感謝し、辛さを耐え忍べという作法として、挨拶をするわけっすよ」
「美嶺……。それは人に対してじゃなくって、山に対してする挨拶では……?」
「くそ。違うか~」
振り返ると、美嶺は真面目に悔しそうにしていた。
そして美嶺の後ろではほたかさんが微笑んでいる。
「じゃあ答えを言うね~」
そして指を一本立てた。
「ひとつ目は情報交換。……すれ違う相手は自分たちがこれから行く場所から来た人だから、情報があれば教えてもらえたりするの」
「そういえば『もうすぐ登山口』って言ってましたね。あれを聞いて、少しほっとしたんですよ~」
「うんうん。特に危険な情報だと、聞いておかないとねっ」
そして二本目の指を立てた。
「……そしてふたつ目はお互いの存在を認識しあうことなの。もし遭難しちゃったとき、自分のことを覚えてもらえてたら、助かる確率が少し上がるでしょ?」
「あ~なるほど~。確かに目撃者が多いほうが、見つけてもらいやすいかもですね!」
そう考えると、挨拶は理にかなっている。
山の上では大切なのだと実感した。
そう思っていると、なんだか美嶺がニヤニヤしている。
「ましろはしっかり挨拶しておいたほうがいいな」
「私? 何かあったっけ?」
「よく落ちるだろ~?」
う……。
図星すぎて反論できない。
さらにほたかさんと千景さんも重ねてきた。
「落ちちゃだめだよ~」
「ましろさん、落ちるの?」
「あぅぅ……。みんな、私を落としたいんですかぁ~?」
私はトホホと笑い、みんなも笑ってくれる。
挨拶から花咲いた笑い。
笑うと疲れも忘れる気がするし、実はこれも挨拶の効能なのかもしれない。
山の挨拶っていいものだ。
そして視界が広がり、大きな池が目の前に現れたのだった。