第十二話「神様おねがい、微笑んで!」
「あれ? 片付いてる」
帰り支度をしようと自分の教室に戻った私は、違和感に襲われていた。
剱さんとのひと悶着の結果、私の荷物は床に盛大にバラまかれてしまったはず。
それなのに、まるで何事もなかったようにきれいになっている。
片付けるのが憂鬱だったので、この状況は少し拍子抜けだった。
あの時、教室には私と剱さんしかいなかった。ひょっとして剱さんが片付けてくれたのだろうか。
でも、怒っている人が律義に片づけてくれるのだろうか。
私は不思議に思いながら、帰り支度を始める。
しかし、机の中には一番大事な物が入っていなかった。
妄想ノートがない。
妄想ノートだけがない。
私が描いた、妄想と性癖にあふれた禁断のイラスト群が、どこにもない!
剱さんが持っていった?
なぜ?
分かりきってる。恥ずかしいネタを使って、私をイジるためだ。
でもなぜ? 私を追い詰めて、何が楽しいの? 何か得することでもあるの?
……分からない。
この時の私の顔は、きっとマンガのように青ざめた感じになってたんだろう。
すると突然、低い女の人の声が背後から響いた。
「くそ。戻ってたのか」
あまりに驚いたので、私の心臓は爆発したかと思うほどに激しく鼓動した。
恐る恐る振り返ると、夕焼けの茜色が差し込む教室の入り口に、人影が立っていた。
金色の髪が夕焼けを浴びて燃えるように輝いている。
「つ、つるぎさん……」
「これ、お前が描いたのか?」
剱さんは怒ってるような顔で、持っていたバインダーを私の目の前に突き出した。
それは見まごうことなく、私の妄想ノートだった。
描いたかどうかを聞くなんて、それは中身が絵だと言っているも同然だ。私の赤裸々な秘密は見られてしまっていた。
「どうなんだ?」
「ひぃっ!」
剱さんが眉間にしわを寄せながら迫ってくるので、私はとっさに後ずさった。
すると、背中に硬いものが当たる。壁際まで追い詰められてしまったのだ。
に、逃げられない……!
教室の扉は剱さんの背後にある。
例え剱さんの横をすり抜けて逃げようとしても、剱さんの長い手足なら、私を簡単に捕まえてしまいそうに思えた。
私は生き延びる手段を探して、必死に周囲を見渡す。
その時、意外な出口に気が付いた。
私の背後にあるのは壁じゃなく、ベランダに続くガラス戸だった。
まさに灯台下暗し!
剱さんに気付かれないように注意しながら、私は背後に手を伸ばす。
指先がガラス戸を閉めているクレセント錠に触れる。
鍵は閉まっていたけど、ゆるめるのは簡単だった。
「黙ってないで、教えてくれよ。これはお前が描いたのか?」
剱さんが妄想ノートを開こうとした瞬間、私は勢いよくガラス戸を開け、飛び跳ねながらベランダに脱出した。
このベランダは廊下のように各教室とつながっている。二階なので飛び降りることはできないけど、どこかの教室のガラス戸が開いていれば逃げ切れるはず!
オタクの神様が守ってくれると信じて、私は猛然と走り出した。
△ ▲ △ ▲ △
神様はイジワルだった。
いや、我が校には戸締りを忘れるおマヌケさんがいなかっただけかもしれない。
鍵の開いているガラス戸なんて存在せず、私はベランダの袋小路に追い詰められていた。
私が逃げられないと分かっているのだろう。
剱さんは悠々と歩き、迫ってくる。
「こ、来ないでぇ!」
「逃げるなよ」
「あぅぅ。誰か、助けてぇぇ!」
ベランダから大声を出して助けを求めたけど、校舎はしんと静まり返ったままだった。
下校のチャイムが鳴った後だし、部活で残っていた生徒も、もう帰宅してしまったかもしれない。
私の声は隣の校舎の壁に跳ね返って、むなしく反響するだけだった。
誰も助けてくれないなら、自力でなんとかするしかない!
とっさに周囲を見回したとき、最初に目に飛び込んできたのは雨どいだった。
屋上から地面まで縦に長いパイプは、金属の光沢もあるので、きっと頑丈に違いない。幸いにもベランダを壁際まで走ったので、校舎の壁面に取り付けられている雨どいは、手を伸ばせば届きそうなところにあった。
マンガとかだと、泥棒がこれを伝って昇り降りするらしい。
今いる場所は下を見下ろせば地面まで四メートルぐらいの高さだし、気合いを入れれば降りれる気分になってくる。
「お、おい。まさか降りる気か?」
私が雨どいを見つめているのがバレたのか、剱さんが慌てるように近寄った。
ここまで逃げたのに、つかまるわけにはいかない!
私はベランダの手すりに足をかけ、雨どいめがけて飛び出した。
両手が雨どいのパイプに触れた次の瞬間、体が大きく揺さぶられる。
ガゴン、と予想外に大きな金属音が響き、重力が私を引っ張った。
「あわわわわっ! ブレーキ、ブレーキ!」
勢いよく滑ってしまったので、慌ててパイプを強く握る。
何とか勢いが弱まった後に下を見ると、残りは二メートルぐらいの高さだった。
「危ないことをすんな! アタシが下に行くまで待ってろ!」
剱さんは焦ったように叫び、ベランダを走り出した。
私の教室まで戻って、一階まで来るに違いない。
助けてくれるのかもしれないけど、ここで捕まったら飛び降りた意味がない。
あと二メートルなら、きっと平気。
そう思って手の力を抜くと、一気に地面までずり落ちてしまった。
「イタタタタ……」
足の裏がジンジンと傷むし、制服が汚れてしまった。だけど、幸いに怪我はない。
私は学校の外に逃げようと思い、すぐ近くにある昇降口に向かった。
△ ▲ △ ▲ △
昇降口で靴を履こうとしていた時、すぐ近くの階段から足音が聞こえてきた。
静かな校舎では、足音も大きく響いて聞こえる。
「いくらなんでも早すぎるよ~!」
この階段は、さっきまでいた一年生の教室につながっている。
今のタイミングで昇降口に来る人がいるなら、それは剱さんに違いない。
剱さんはめちゃくちゃ足が速いのだろうか。
そうだとすれば、外に逃げても追いつかれてしまうのが関の山だと思えた。
「……ど、どうしよう……」
私がオロオロしていると、昇降口の隅のほうから私を呼ぶ声がする。
「ましろさん。こっち、来て」
振り返ると、そこには千景さんが立っていた。
そして千景さんが指さす場所には、掃除用具をしまってあるロッカーがある。
「ここに隠れて」
「……千景さん、助けてくれるんですか?」
千景さんは静かにコクリとうなづき、「早く入って」とロッカーの扉を開ける。
そこには確かに、人間が入れそうなスペースが残っていた。
もう、私の目には千景さんが神様にしか見えなかった。
無表情の座敷わらし様。
私は喜び、ロッカーに飛び込んだ。
すると、なんと千景さんも一緒に入ってきたのだった。