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Have You Seen the Rain?

   降る雨のあとに

   Have You Ever Seen Rain?


   天国にいる祖父へ


□ONE


 死。

 私には何事もなく、静かに、ただ、穏やか

に眠っている様に見えた。

 ただ一つ、左のこめかみに小さな穴があい

ていたことを除いて。

 この街に住むようになってからずっと、時

に父となり、母となり、兄となり、私を愛し

てくれた祖父が、あの若々しく生気にあふれ、

十は若く見られると恥ずかしそうに、楽しそ

うに、いつも話していた七十七歳になったば

かりの祖父が自らを殺めた。

 早々と自殺という判断がくだされ、警察か

ら解放され戻ってきていた祖父に、私はすぐ

には会えなかった。ほんの二時間前に『サン

バナディーノ』でやらなければならなかった、

祖父に頼まれた、仕事を片づけて戻ったばか

りだった。

 そんな私を留守番電話の十六のメッセージ

が出迎えた。

 一つは警察から。残りは祖父の会社で社長

を務めるマリアから。

 私はエンジンのまだ冷え切らない千ドルで

買った十三年物のダッヂ・オムニに乗り込ん

で祖父の家まで急いだ。

 フリーウェイ『I−15』そして、『I−

215』を五十五マイルを超すとふるえのく

る車をひとしきり諭しながら、十五分。

 『グリーンバレー』でフリーウェイを降り

て、『グリーンバレー・ランチ・カジノ』を

ぐるりと周るのに五分、そして、左に入って

三分ほどまっすぐ。ヤシの木と白塗りの背の

高い壁に囲まれたゲート・コミュニティに祖

父の家はあった。

 家の前に車を止めて、背の高い白塗りの扉

に手をかけると、いつも笑顔を絶やさないは

ずの、アメリカの母そのもののようなマリア

が悲しそうな、うつろな表情で私を迎えた。

「リュウ」

私はマリアは丸い大きな体を受け止めた。

「タツが、タツが」

あとは言葉にならなかった。見上げるように

私を見るマリアの瞳には大粒の涙が浮かんで

いた。自分の旦那が亡くなった時も、十七歳

の孫が警察に捕まった時も、決して涙を浮か

べなかった彼女が涙を流していた。

 彼女は祖父の、タツノシンの最良のパート

ナーであり、彼を愛していた。

 −−この年で、恥ずかしいだろう? もう

一人のマリアには向こうで謝っておこうと思

ってるがね−−。

 去年の冬頃のいつもの夕食の席で、彼は暑

くもないのに汗を拭きながら、言った。彼の

亡くなった妻の名前もマリアだった。

「私にも信じられないよ。マリア。祖父が死

んだなんて」

「ええ、ええ」

「祖父に逢わせてくれるかい?」

「はい。二階に」

私は静かに扉を閉め、すぐ左にある階段を上

り、祖父の部屋に入った。祖父の部屋はいか

にも寝るだけというような簡素な部屋で、ク

イーンサイズのベットがあり、小さなマホガ

ニーのタンスがその側に在るきり。

 彼はマリアが着替えをしてくれたのか、彼

の一番のお気に入りの紺の四つボタンスーツ

を着て、ベットの上で横たわっていた。

 顔はすでに白く、表情は硬い。

 私は心の中で、なぜと何百回と尋ね、さよ

ならと一度言って部屋を出た。

 祖父の寝室を出て、すぐ正面に書庫と呼ぶ

には少しばかり大きすぎる彼のお気に入りの

部屋に入った。この部屋への鍵は私と祖父し

か持っていない。

 ドアを開けてすぐに置いてある、この家の

調度品と併せて買ったらしいオーク材の机の

上にオレンジがかった白の小さな光が落ちて

見えた。その光の先にはノートがあった。

 遺書。

 私はそれがここにならあるだろうと思って

いた。

 一枚の真っ白な紙には、祖父の字で、疑い

の余地もない、彼の綺麗な字でこうあった。

 竜一朗、あとは任せたぞ。

 日本語。

 ほんの一行の遺書だった。

 その紙を握りしめ、部屋を出て、元通りに

鍵をかけた。部屋を出ると、マリアが立って

いた。

「マリア。警察に行って来るよ」

「……それは?」

「遺書さ。任せたぞって日本語で書いてある

んだ」

「とめませんよ。どうせ無駄なんだろうから」

彼女はいつもの笑顔をほんの少し浮かべ、私

はすべてわかってるんだよ、というような表

情で言った。

 私は理由を調べようと思った。

 自殺などしないはずの祖父がなぜ自殺した

のか。

 右利きの彼がなぜ、左のこめかみを撃って

死んだのか。

 その理由。


□TWO


 仕事柄、『ヘンダーソン警察署』に来るの

は初めてではなかった。

 赤土色の、スペイン風の建築デザインで、

ここら辺ではホテルを除いて、一番背の高い

三階建てビル。

 深夜を過ぎた時間でもSUVのパトカーの

出入りは激しい。眠らない街『ラスベガス』

とは管轄が違えども、犯罪はそんなことはお

かまいなしに、どこにだってやってくる。

 ビジター用の少ないスペースに車を止めて、

薄暗い光の中のドアを引いた。

 私は祖父の自殺は殺人課で処理されたと見

当をつけて、二階にある部屋に向かった。

 最近特に話題に上るセキュリティはどうな

っているのかよくわからないが、私は誰にも

会わずに殺人課のドアの前まで来た。街の華

やかさに反抗するようにいつも光量の足りて

ない部屋には味気ないシルバーの事務机が十

数基、焦げたようなコーヒーのにおいが漂う

中、三人ほど、デスクで書類を書いてる刑事

がいた。

 両手では数えられないほど、ここを訪れた

ことがある。犯人扱いされたのは、されなか

った方が少しだけ多い。

 私が部屋に入ると、その三人の視線が刺さ

った。

「レインか。どうした?」

そう言って、少し大げさに右手をあげて、私

を迎えたのはジョン。彼は本当は何とかウォ

ンという名前だが、ややこしくてジョンとよ

ばれてるチャイニーズ系の刑事だった。彼は

僕が彼と同じ人種だからか、それほどひどい

扱いはしない。

「『グリーンバレー』の『ポイント・プレイ

ス』で自殺があっただろう?」

「さあ、オレは聞いてない……」

小さいががっちりした体にぴったりの猪首を

おおげさにかしげながらそう言った。

「オレが行った。それが?」

ジョンの向かいの机でいぶかしげに私を見て

いた軍隊上がりのようなごつい体の白人が、

にらみをたっぷりきかせて言った。

「私の祖父なんだ。タツノシン・アメミヤ」

「そうか。そいつは悪かった」

根はいい人間なのだろう、厳しい表情を少し

だけゆるめ、言った。

「解剖の結果を詳しく話してくれないか?」

「会ったんだろう? あそこに鉛玉が入って

生きていられるヤツはそうはいないよ」

「……拳銃はどこで?」

言いたい事は山ほどあったが、質問を続けた。

「一週間前に待機期間が終わったばかりさ。

すぐ近くのモールで購入してる」

「祖父は右利きだった。なぜ彼は左で拳銃を

撃ったかわかるか?」

「そんな事知らんね。オレのしたことに間違

いはない」

彼の顔はすでに自殺者の家族に向ける表情で

はなかった。

「わかってるさ。なにも君のせいにしようと

いうんじゃない」

 くるりと振り返り、部屋を出ようとすると、

「レイン。……気を落とすなよ」とジョンが

声をかけた。

 右手を挙げてそれに答えて部屋を出た。

 私は、とりあえず祖父の家に戻る事にした。

 明日は忙しくなるだろう。

 幾百のなぜが頭を駆けめぐった。

 金のかかった緑に囲まれた暗闇の街の中、

弱く照らす街灯と車のライトから目を離せず

にいた。

 遺体を見るのは初めてではなかった。

 父と母の遺体を確認したのが初めてだった。

十六歳だった私は祖父に引き取られ、アメリ

カへやってきた。

 高校を卒業し、祖父が社長を務めていたセ

キュリティ会社で祖父の手伝いをしながら大

学を五年かけて卒業し、しばらくして、私は

探偵になった。

 祖父が私に勧めた職業だった。

 祖父の家に戻り、私が戻るのを待ち、残っ

ていたマリアと葬儀の打ち合わせを簡単にす

ませた。

 わかっているのは、明日、いやもう今日は

忙しい日になるということだけだった。

「泊まっていけばいい」

帰り支度を始めたマリアにそう声をかけた。

「ありがとう。でも、会社の方もやることが

あるから」

「そうか……。すまない」

「ありがとう、でしょう?」

「……ありがとう」

「それじゃ、また明日、もう今日だけど」

マリアはすっかり社長の顔になって、いつも

のほほえみと、機敏さを取り戻し、家をあと

にした。

 マリアの車が静かに走りすぎるのを待って、

私は祖父のそばへ行った。

 変わらず、穏やかな表情だった。

 私一人だけの静かな通夜は、それほど長く

は続かなかった。

 車に置いたままだった未整理の昨日までの

書類を取りに行った帰り、階段の途中で、ド

アノブを動かす音がした。

 手際のいい仕事だった。

 私はドアの方向に車から取ってきたベレッ

タの狙いを定めた。

 真暗闇の中に薄光が差し込んだ。

 黒いニット帽に、黒いセーター、黒のパン

ツと黒ずくめのひょろりと背の高い男は半身

だけ見せ、家の中を一通り見回した。

「動くな。九mmの弾でも頭に当たれば、命は

ない」

私は標準を頭にゆっくりと動かしながら、静

かに警告した。

「ただの空き巣なら、家を出るんだ。それ以

外の用事なら、訊きたい事が二、三ある」

言い終えると、真夜中の『グリーンバレー』

にはとうてい似つかわしくない銃声が響いた。

 相手は一人ではなかった。

 私は暗闇に身を隠しながら、ゆっくりと階

段を上った。

 もう一度、銃声。

 階段を上りきった所で、撃ち返し、そして

悲鳴。

 急いで階段を下りた。

 玄関先には拳銃を右手に持った、長い髪に

ソバージュをかけた二十歳を少し過ぎたくら

いの顔立ちからしてイタリア系の男が横たわ

っていた。

「誰に頼まれた?」

私は彼の拳銃を蹴ってから、訊いた。

「死、死にかけたじいさんを、やれば、オレ

も、も、元に戻れるって」

「誰だ! 誰に言われた?」

「お、怒るだろうなぁ、ルゥーイのやつ……」

そう言って、男は事切れた。

 いったい誰が?

 頭の中でなぜが何倍にもふくれあがってい

った。

 サイレン。

「ヘンダーソン警察だ。武器を捨てて、ゆっ

くり両手を頭の上まで挙げろ」

私は言われたとおりにした。

 グロックを持った数人の警察官が、ゆっく

りと、たっぷりの光をかざしながら、近づい

てきた。

「そのまま、両手を頭の後に。ゆっくりだ」

銃口を二つ残したまま、一人が私の後に回り、

手錠をかけた。

 後手に手錠のまま、私は三人の警官に囲ま

れ家の外に止めてあったSUVに乗せられた。

「権利は読まないのか?」

広々としたSUVの後部座席で体の位置を直

し、言った。

「お前には黙秘権を行使する権利がある。お

前が話す事はお前自身に対し、法廷に置いて

すべて……」

まだ学校を卒業したてのような若い警官が、

明日は三つもテストがあるんだと言わんばか

りに不満げな表情で、私の権利を読み上げ始

めた。

 読み終えると、彼は無言で運転を始めた。

 交番も、派出所もなく、警官は一人か、二

人一組でSUVでパトロールする街でも、警

察署から車で五分ほどのこの辺りで場当たり

的な犯罪は犯しがたいはずだ。もちろん、そ

んな事を考えるような人間は初めから犯罪な

どには手を染めないものだが。

 幾千ともふくれあがったなぜに私はただひ

とつも答えを出せずにいた。

 そして、私は『ヘンダーソン警察署』へ舞

い戻って来た。予想通り、私は殺人課へつれ

てこられた。

 あいにくジョンはいなかったが、祖父の自

殺を担当した白人の警官が残っていた。

 彼は、今度はビルだと、名乗った。

「また、お前か。何をしたんだ」

「若い男性を銃殺した疑いです」

解凍のすまないサーモンみたいな顔で私を連

れてきた男が言った。

「正当防衛だ」

「詳しい話は奥で聞こうじゃないか」

親子三代で刑事家業を続けているような声で

言った。

 私は三畳はありそうな大きな鏡をじっくり

見つめられる灰色の部屋に入れられた。

 この部屋に彼と一緒に二十四時間いればあ

ること無いことすべて話し始められそうな部

屋だった。

「拳銃の所持許可証は?」

私は右ポケットの財布を取り出し、携帯用の

許可証を取り出し、机に置いた。

「リュウイチロウ・アメミヤ、年齢は、三十

二歳」

他と同様、私の名前も、名字もまともに発音

できてなかったが、私はとにかくうなずいて

おいた。

「職業は?」

「探偵」

「探偵?」

「そうだ。探偵だ」

「免許は?」

私はこれも財布から取り出し、机に置いた。

「人に嫌われる職業だな」

こういう時、どこかに探偵を暖かく迎えてく

れる警察があるなら、教えて欲しいといつも

心から願ってみる。もちろん、叶うことはな

いだろうが。

「警察よりは、少しはマシさ」だから、いつ

もそう答える事にしている。

「口の利き方に気を付けろ。免許を取り上げ

られたくなければな」そして、彼らはいつで

もそう言うのだ。

「ふん、まあ、いい。詳しい状況を訊かせて

くれ」

「その前に、電話をさせてくれないか?」

「なんだ、弁護士か?」

「いや、祖父が亡くなったばかりなんだ。今

日は忙しいんでね」

「いいだろう……」

「ただし、一回だけだ、だろう?」

彼はおもしろくなさそうに頷いて立ち上がっ

た。私も彼にならった。

「この電話を使え」

彼は自分のデスクの上のクリーム色の電話を

さして言った。

「ありがとう」

「……」

「そんなに驚かなくてもいいさ。探偵も感謝

くらいはするさ。警察もそれくらいするみた

いに」

彼はぬるいビールを飲んだみたいな苦い顔を

して、机から離れた。

 私はマリアと連絡を取るのに、社長室への

直通電話をかけた。

「リュウ?」

「ああ。よかった。そうだ。私だ。いろいろ

あっていま警察に捕まってる」

「どうしたんです?」

よかった落ち着いている。いつものように。

「祖父を殺しに来たらしい男を撃ったんだ」

「ずいぶん間抜けな強盗だこと」

「……ああ、そうだな。それで、すぐには動

けない。祖父の事、頼んでもいいかな?」

「ええ、もちろん。タツのことは全部マリア

に任せてください」

「ありがとう」

「いいのよ」

受話器を下ろしたあとも、なぜ私がマリアに

本当のことを告げなかったのか、わからなか

った。

「終わったなら部屋に戻ろうか」

ビルは紙コップに入ったコーヒーを私によこ

してそう言った。

「ありがとう」

「いいから、部屋に戻れ」

強情さも親子三代らしく筋金が入ってる。

 部屋に戻って、もう一度裏側にはだれもい

ない鏡を正面に座った。

「それで?」

「仕事の書類を取りに車に戻った。二時四十

分すぎだ。その時に、拳銃も持ってきた。二

階へ戻ろうとしたら、誰かがドアを開けよう

とした。初めは一人だと思った。すぐに二人

目がドアを開けて、撃ってきたんだ。私が撃

ったのはその時一度」

「腕がいいんだな。お前さん」

「……それなりに」

「連中を見たことは?」

「ないな。仕事の関係でもなさそうだ」

「侵入してきた連中はなにかしゃべったか?」

「いや。こちらの警告には答えなかった」

「なるほどな。いま、鑑識の奴らが拳銃の弾

をほじくり返してるだろう。その弾と死んだ

やつの銃のライフルマークが一致すれば、帰

ってもいいだろう。ただ、念の為に遠くへは

行かないでくれ」

「わかってる。それに、しなきゃいけない事

もあるんでね」

「なんだ?」

「仕事さ。人の秘密をかぎ回るような大して

立派でもない仕事さ」

「一つ、訊いてもいいか?」

「どうぞ」

「なぜ、ジョンはお前をレインと?」

「アメミヤのアメはレインという意味なんだ。

この国じゃ誰もろくに私の名を発音できない

んでね」

「……さっき、仕事の書類を取りに行ったと

言ったな。なんの仕事だ」

「……」

「いや、尋問じゃない、好奇心さ」

「訊かない方がいい。決しておもしろい話じ

ゃない。探偵になりたいというなら、話して

もいいが」

「いや、退屈なだけだ。誰かはここに張り付

いていなきゃならないんでね」

そう言った時、電話が鳴った。

「はい。そうか。わかった」彼は受話器にそ

う言い、「一致したそうだ。行っていいぞ」

と私に言った。

「君の暇つぶしの相手をしてやりたいのは山

々だが、しなければならないことがあるんで

ね。行くよ」

「勝手にしろ。二度と捕まるな」

「ありがとう」そう言って、私は部屋をあと

にした。

 出口のところで、私を連れてきた警官を捕

まえ、家まで送らせた。


□THREE


「マリア。私だ」

お互いに無言のまま、無言協定を結んだ、若

い警官の運転する車を降り、家に戻り、すぐ

にマリアに電話をかけた。

「案外早く帰ってこられたのね」

「常連の客だから」

「会社の方へいらっしゃい。朝ご飯をごちそ

うするわ」

「お言葉に甘えさせてもらうよ」

携帯をポケットにしまい、私はすぐには車に

は乗らず、祖父に挨拶へ行った。

 二階のマスターベットルームには祖父は見

えなかった。

「マリア。祖父の遺体を知らないか?」

私はすぐに携帯を取り出し、電話をかけた。

「いいえ、どうかしたんですか?」

「いなくなったんだ」

「そんな、いいえ、すぐに行くから待ってて」

「わかった」

また、なぜだ。ただし、一つだけなぜに答え

が出た。侵入者がここを訪れた本当の理由。

 私を排除するため。

 警察が鑑識を終え、帰るのを待つ。そして、

私が家に戻る前に、祖父の遺体を運び出す。

 警察がどう動くか、わかっている人間だ。

 たった一つのなぜには答えられた。

 なぜ、祖父は死んだか。

 なぜ、その祖父の遺体を運び出したか。

 大きななぜと小さななぜが幾千と、幾億と

積み上げられていく。

 私は携帯を取り出し、警察署でまだ暇をつ

ぶしているだろうビルのいる殺人課に電話を

かけた。

「殺人課だ」

「私だ。アメミヤだよ」

「今度は何のようだ。探偵」

「祖父の遺体が無くなった」

「寝ぼけたことを言うな。どこの誰が好きこ

のんで死体なんか誘拐するんだ?」

「それを調べるのが警察の仕事だろう」

「くそったれが」

「誰でもいいから、こちらに人をよこしてく

れ。死体遺棄なのか、誘拐になるのかわから

ないが」

「オレが行く。他のを行かせてもややこしく

なるだけだ」

「鑑識も忘れないでくれ。証拠を残してくれ

るほどバカじゃないだろうが」

「それはお前に言われる事じゃない」

勢いよく受話器を置く音で会話を終えた。

 五分もすると、マリアが来た。

「……」

彼女は珍しく怒りを顔に出し、何も告げず祖

父が寝ているはずの場所へ行った。

「誰が、なんのために……」

その後について行った私を振り返り、迷子の

犬のような顔で言った。

「わからないよ。でも、大丈夫。必ず見つけ

出すから」

「なんて事を……神よ」

マリアは胸の前で十字を切り、天井を仰いで

小さくつぶやいた。

「リュウ」

私を向いてそう言うと、大きな体で私を包み

込んだ。

「見つけて。必ず」

「約束する」

私がそう言って、小さく頷き、部屋を出た。

 ちょうど家を出るときにビルともう一人の

警官がSUVから降りてきた所だった。

「どこへ行くんだ?」

「祖父を捜しに行く。そっちはそっちで勝手

にやってくれ」

「そういうことは警察に任せておけばいい」

「わかってるさ。それでも私の仕事が減らな

いのはどうしてかな?」

「くそっ。勝手にしろ」

「そうするさ。誰に言われなくとも」

「レイン。もっていけよ。お前の拳銃だ」

すれ違い際にビルは押収されていた私のベレ

ッタを渡した。

「ありがとう」

そう言って、私は車のドアに手をかけた。

 あてがないこともない。

 私が撃ち殺した男はイタリア系だった。

 そして、男はルゥーイという名を告げた。

 私は車を眠らない光の街へ向けた。

 『I−15』を『トロピカーナ』で降り、

『エクスカリバー』を左、『ニューヨーク・

ニューヨーク』を右に見ながら『ストリップ』

に入る。午前四時過ぎの『ストリップ』には

まだちらほらと人が歩いていた。『ストリッ

プ』は『ラスベガス』の中心を縦断する道で、

一流カジノホテルが建ち並ぶ、二十四時間、

三百六十五日、色とりどりのネオンと、人で

溢れかえっている。

 『ベネチアン』の前で商売をしているはず

の知り合いを訪ねるのに私は『トレジャーア

イランド』の駐車場に車を止め、たっぷり十

分はかけ『宝島』風に飾られたカジノを横切

り、表に出た。

 『ミラージュ』の側にある趣味の悪い巨大

な金色のマジシャン二人と虎の顔の前を通り、

歩道橋を渡る。『ベネチアン』の正面より少

し離れた所にある化粧品屋をさらに少し行っ

た場所で彼女はいつも通り商売をしていた。

「商売のじゃまをするんじゃないよ。レイン」

彼女は四十五を過ぎた売春婦だ。薄暗い光の

もとなら多少若く見えるが、とても現役とは

思えない老いは隠しきれない。

「もう片方の商売に用事がある」

そして、彼女は情報屋でもあった。

「またつまらないことに首を突っ込んでるん

だね。あんた」

「それが仕事だから」

「ふん。それで、なんのようだい?」

「ルゥーイという女を捜してる。若いイタリ

ア系の男とつきあっていた」

「その男の名は?」

「知らない」

「電話帳にでも訊いたらどうだい?」

「あまり時間がないんだ」

「そんなのあたしの知ったことじゃない」

「なら、今すぐ警察に行って、長いつまらな

い話でもしてくる」

彼女は麻薬常習者でもあった。彼女が買い物

をする場所も人も私は知っていた。

「……汚いことするじゃないか」

「言っただろう。時間がない」

「『ノース』に学校があるだろう? そこの

すぐ側の『カレッジ・ビル』の245。もし

その女の男がリカルド・バルデズならね」

彼女の言った『ノース』とは『ノース・ラス

ベガス』の事で、この街でもっとも犯罪の多

発する地域だ。

「バルデズ?」

「そう。そのバルデズの遠い親戚かなんか。

故郷でにっちもさっちもいかなくなって、こ

っちへ来たけども、運がないのか才能がない

のか、失敗続きでルゥーイとかいうつまらな

い女のひもをしてたって話」

「そうか」と言いながら、二十ドル札を二枚

渡した。

「たまにはもうイッコの仕事を頼んでよ」

私はそれには答えず、「またくる」と言って、

『トレジャー・アイランド』の駐車場へ戻っ

た。

 午前四時三十二分。私は祖父の家に戻るこ

とにした。

 三十分ほどかけて祖父の家に戻ると、マリ

アがリビングルームのカウチで寝ていた。私

は二階から毛布を持ってきて掛けてやってか

ら、二階のゲストルームへ戻り、ベットに倒

れ込んで寝てしまった。

 パンケーキの匂いで、午前八時十二分に目

が醒めた。

「おはよう」

私は階段を下りて、キッチンへ行った。

「おはよう」

すっかり準備が整った朝食を前にオークの大

の男四人でも運べなさそうなテーブルの前に

座ると、なんだか妙な気分だった。

「どうしたの?」

「いや、なんだかマリアが本当の祖母のよう

に思えてね」

「あら、あたしの方が少しは若いわ、でも、

そう言ってもらえるとありがたいわ。家族は

多い方がいいものね」

長い間、祖父一人だけが私の家族だった。そ

れでも、マリアが言った事は本当ではないか

と思えた。

 朝ご飯をすませて、ごちそうさまと言って、

シャワーを浴び、私はルゥーイに会いに出か

けた。

 『I−15』をひたすら北へ行き、『シャ

イアン』の出口で降りて、東へ。

 短期大学のすぐあとの角を右に曲がって

『カレッジ・ビル』と名の付いたアパートの

敷地に車を止めた。

 一人ではとても住めないような薄汚れた三

階建てのアパート。駐車場にも、階段にも色

とりどりのガラスの破片と、色とりどりのビ

ール瓶が転がっていた。

 元は白くペイントしてあっただろう階段を

昇り、白いゴミ袋の隣の245の部屋をノッ

クした。

 返事はない。

 もう一度ノックした。

 中でごそごそと人の動く気配。

「また鍵をなくしたの? リカルド」

「彼はもっと大事なものを無くしたみたいだ」

「誰?」

「探偵だ」

そう言って、わずかに開いていたドアの隙間

に探偵証を差し込んだ。

「探偵が、なんのようなの。それより、リカ

ルドがどうしたって?」

「死んだ。その理由を捜し回ってる」

「死んだ? 冗談でしょう?」

「いや。彼が昨日、いや今日、まだ日が昇ら

ないうちにやらなければならなかった事があ

ったのを知っているだろう?」

「どうして?」

「彼の死因か? それとも、なぜ私が彼の仕

事のことを知っているか、か?」

「……なぜ、死んだの?」

「殺された」

「誰に?」

「……知らないな」

私だ、と答える代わりにそう言った。

「嘘よ」

「いや。残念だが本当だ。話を聞かせてくれ

ないか?」

「……いいわ。少し待っていて」

彼女はたっぷり待ってから、少しだけ開いて

いたドアを閉めた。

 タバコを二本吸う間に彼女は表に出る準備

をすませていたらしく、すっかり化粧を施し

てドアを開けた。

 彼女はいまにも仕事に行きそうな濃い黒の

アイシャドウに、オレンジの口紅をひいて、

黒のミニスカート。黒のキャミソールの上に、

唯一金のかかっていそうな暖かそうなレザー

のジャケットを羽織っていた。

 身長は底の高いブーツの分を差し引くと私

と同じくらい。ラテンの血が流れていること

だけは間違いない彫りの深い顔。ブーツのせ

いか、黒ずくめの服のせいか、足がすらりと

ながく見えた。

「アメミヤだ、レインでいい」

「ルゥーイ。学校で話しましょう。この時間

ここらで人がたくさんいるのはそこだけだか

ら」

彼女は悲しみの表情というよりも、獲物を狙

うようなねっとりとした瞳を向けて言った。

「悲しくはないのか?」

「少しね。でも、これで、こんな場所とはお

さらばできる」

私はなぜとは訊かずに階段を下りた。

「探偵って儲かる仕事かと思ってた」

私の車を見て、彼女はそう言った。

 私は何も言わずに、向かいの学校まで車を

走らせた。

 他の何処の学校とも変わりのないごく地味

な学校に入り他の車がそうするように、私も

車を止めて、バスの停留所の奥のベンチに腰

掛けた。

「話を聞かせてくれるね?」

そう言うと、彼女は手を差し出した。

 私はその手に二十ドルを置いた。

 手はまだ差し出されたままだった。

「きみの話がどれくらい役に立つか訊いてか

らだ」

「レインだっけ? あんた、バルデズファミ

リーに首突っ込むといいことないよ?」

「そういうことは私が心配する。自分の事を

心配した方がいいんじゃないのか?」

「ふん」

「……彼の仕事を知ってる限り話してくれ」

「『グリーンバレー』に住んでるじいさんを

殺せば、一万ドル。で、リカルドの失敗もチ

ャラで、ベガスに新しいアパートを用意して

くれるって」

「失敗?」

「リカルドは何をやってもうまくいかない野

郎で、頼まれたガキの使いみたいな小さな仕

事もろくにできなかったんだ。そいで、頭に

きた連中がやつをベガスから追い出したんだ」

「バルデズファミリーが仕事を依頼した?」

「そうさ。でも、また死にかけのじいさんも

ろくに殺せず、殺されるだなんて。とことん

間抜けなやつだね」

「リカルドはファミリーとどうやって連絡を

つける?」

「向こうがこっちに」

「電話で?」

「そう。でも今回のは人をよこした」

「どんな?」

「スキンヘッドでデブの黒スーツ。どこにで

もいそうな白人」

「きみはこれからどうする?」

「さあね」

「なにか、気がついたことがあったら連絡し

てくれ」

私はそう言って、事務所の電話番号が書かれ

た名刺を渡した。

「あんたはどうするんだ?」

「さあね」

「ふん。『ストリップ』まで送ってくれな

い?

 昔の仕事を始めるにしたっていろいろ準備

があるから。まだちょっと早いけど」

「かまわない」

そう言って立ち上がり、車へ戻った。

 学校を出て、右に入り『I−15』に戻る。

『チャールストン』を過ぎた当たりで、私は

「どこで降ろして欲しい?」と訊いた。

「『スプリング・バレー』」

私は頷いて答え、珍しくスムーズな『I−1

5』を南へ走った。

 出口を降りて、『トレジャー・アイラン

ド』を右手に信号で止まっている間に彼女を

降ろした。

「タクシー代だ」

私は彼女が車を降りる前に二十ドルを渡しな

がら言った。

「ありがとう。くだらないことで死ぬんじゃ

ないよ」

「……」

「そんなに驚いた顔しなくてもいいじゃない

か。ラテンの女は情が深いんだ」

「そっちも気をつけるんだな」

そう言って別れた。

 新しいショウの為に工事中の『トレジャー

・アイランド』と朝早くからカジノをはしご

してる連中を右手に見ながら、南へ下った。

 一度、自分の家に戻ろうと思った。『サン

バナディーノ』から戻ってから一度も戻って

いないことをふと思い出した。

 バルデズファミリーの一員にちょっかいを

出すのに適した洋服に着替えなければいけな

いだろう。

 私は『フラミンゴ』で慢性的な渋滞に悩ま

されている『ストリップ』とおさらばした。

それから、二十分ほどでアパートに戻ると、

すぐにシャワーを浴びた。

 シャワーを浴びて、着替え、時計を見ると

十時少し前だった。

 私は頭を整理するためと、終えた仕事の整

理をするために事務所へ出かけ、そこで、数

時間費やした。


□FOUR


 祖父が何度も一緒に住もうと言ったのに、

私は一人で中流階級の家族が住むアパートを

借り、そしてそのすぐ近くの小さなオフィス

スペースに事務所を構えた。

 なぜだったろう?

 大学に進んだ時から私は祖父から離れ、一

人を好んだ。

 週に一度の約束の彼との夕食も最近になっ

て、きちんと行くようになった。

 両親を早く亡くした私の小さな反抗だった

のかもしれない。

 わからなかった。

 ただ、わかっていることは祖父以上に私を

愛してくれた人はいなかっただろう事。

 そして、彼が私に託した何かを見つける事。

 頭の中にはたくさんのなぜが渦巻いて、勝

手にかけ算や足し算を始めてる。

 その頭の中に私は誓いを刻み込んだ。

 なにが、あっても決して消えないように。

 そして、私はアパートを出た。

 バルデズの名前が挙がった瞬間からするべ

きだった事をするために。

 バルデズファミリーの名で知られるマフィ

アは『ラスベガス』のカジノ・ホテルを数件

所有している。十年前はいざしらず、今は完

全に法律に則った経営をしている。もちろん、

カジノ・ホテルに関しては。

 不動産関連についてはかなりきな臭い話が

地元の連中には聞こえてくる。

 バルデズ所有でない、ホテル『ベニシアン』

の部屋が予定より一年弱遅れたのは、ホテル

の経営者が彼らの流儀に合わない経営をする

ともめていた為だとか、『ストリップ』の中

央にあるのに関わらずテナントが空いたまま

なのはファミリーが妨害をしているとか、そ

ういうどんな街にでもありそうな話が。

 ただこの街が『どんな街』とも違う唯一の

理由は何百、何千億ともいう金だった。

 この街を訪れる観光客のほとんどは、一瞬

の夢に金を落としていく。

 カジノはバクだ。夢を食らうバク。

 この街では夢を掴んだ人間より、すべてを

失った人間の数の方がはるかに多い。

 その夢を牛耳ろうという、それこそ幾千と

いうマフィアを押しのけ生き残ってきたバル

デズファミリーはバクの親玉だった。

 そのファミリーのドン、スタンリー・バル

デズと話をするのはほぼ不可能だそうだ。彼

は『ラスベガス』に関わるほぼすべての政治

家たちを仲間につけている。

 警察署長ですら、彼がどんな男なのか知ら

ない。このちっぽけな街の警察署長が逢える

のはスタンリーの秘書どまりだろうから。

 私はリカルドと連絡をつけに来たという白

人の男を捜し出そうと考えていた。

 『ラスベガス』という街はそれほど大きな

街ではない。

 地元に暮らす人々は観光客で溢れかえる

『ストリップ』より郊外で時間を過ごす方が

多い。この街にはカジノは何処にでもあるし、

ビールに五ドル払わなくてすむバーは、『ス

トリップ』以外でないと見つけられない。

 私は頭の中に中級程度のバーを思い浮かべ、

それと白人系ギャングのなわばりを加えた。

 バルデズのビジネスに関われるギャングは

それほど多くはないし、生き残ってもファミ

リー以外のメンバーはもとのなわばりに戻る

だろうと考えたからだった。

 私は車を『フラミンゴ』を東へ走らせてい

た。『フラミンゴ』は『ラスベガス』を東西

に横断する長い道で、『ストリップ』入り口

付近は週末となると半マイル進むのに三十分

はかかるほど混み合う。

 『I−15』を過ぎて二十分ほど東に行く

と中流の住宅街となる。

 私はその周辺にあるバー『エリア51』へ

向かっていた。

 『エリア51』はどこにでもあるような典

型的なスポーツバーだが、開店の四時直後は

周辺のギャングのたまり場としても知られて

いた。

 私は『エリア51』の駐車場にオムニを滑

り込ませ、スモークで中の見えないバーへ向

かった。

 バーにはあいにく、気の早い酔っぱらいが

数人ほどいるだけで、それらしい連中は見あ

たらなかった。

 私は意外に広々としたバーを見回した。

 格好だけはそれらしい、運動というものを

何年も忘れてしまったような体の白人のバー

テン。彼を囲むようにカウンターがあって、

七、八台のテレビはそれぞれ同じ画像を映し

ている。

 テーブルは四人がけが六基。ビリヤード台

が三基、そのまわりをテーブルが三基と背の

高いイス十数脚で取り囲んでいて、その右に

はソファと五十インチはありそうなテレビと

それを取り囲むテレビ四台が見えた。

 私はカウンターにゆっくりと近づいた。

「景気はいいかい? 兄ちゃん」

私よりは五歳は若そうに見えるバーテンがそ

う声をかけてきた。

 この国ではどこへ行っても、私は若く見ら

れる。

「まあまあだ」

「何を飲むんだい?」

バーテンは鼻が高く、あごも高く、額も高く、

体毛の濃さそうな顔立ちをしていた。

 私は答えず、カウンターに腰をかけた。カ

ウンターにはビデオポーカーの台がはまって

いた。

「ワイルドターキーをストレートで」

タバコを取り出し、火をつけて、小さく吸っ

てから、言った。

「はいよ。五ドルだ」

私は二十ドル札を取り出し彼に渡し、「ここ

にスキンの幅のひろい白人は来ないか?」と

訊いた。

「そんなのはたくさんくるね」

「バルデズのところで働いてるはずなんだ」

「知らないね。知ってたとしても口は割らな

いだろうな」

「つりは取っておいてもいい」

「へっ、たった十五ドルぽっちで命を追われ

るハメにはなりたくないね。バルデズにケン

カを売りたいなら、よそでやってくれ」

「どこならバルデズにケンカを売りたがる?」

「それならあんたのほうが詳しいんじゃない

のか?」

「どうかな? じゃまして悪かった」

私は立ち上がり際にグラスに一口、口をつけ

てそう言った。

 元来た通り、私は出口に向かった。

 ドアを出て、もう一本キャメルを取り出し、

半分ほど吸って、もう一度バーへ戻った。

「コロンボって刑事ドラマを見たことはある

かい? 兄ちゃん?」

私はバーテンの口まねをして言った。

「そのミスターに言ってくれないか? レイ

ンという男が面会したいと」

バーテンは携帯を持って、誰かに何かを話し

ていた。誰かはこの際大切でなく、何かは私

という変な日本人だか、韓国人だかの男がバ

ルデズの仕事に鼻を突っ込んできているとい

う報告の方だった。

「……ミスター・ゴーンが話がしたいそうだ」

私は頷いて、タバコを灰皿に押しつけ、カウ

ンターへ近づいた。

「こんにちは。レインです」

「こんにちは。ミスター・レイン」

「レインで結構ですよ。ミスター・ゴーン」

「レイン。何がしたいんです? 小金が欲し

いんなら、相手を間違えています」

ゴーンと名乗った男はいたって紳士的だった。

声からして四十か五十。白髪のオールバック

がよく似合いそうだった。

「さがしものをしている。とても大切な。あ

なた方がどこにあるか知っていると信じてい

るんだ」

「何をお探しか、訊いてもよろしいかな」

「もちろん。……祖父を探してる」

「一人で何処かへ行ったのでは? まだお若

いでしょうから」

「それはないな。彼は死んでいるから」

「残念な事で」

「つまらないお芝居はやめないか?」

「紳士がいつも紳士だとは限らないんですよ。

レイン」

「本当の紳士ってやつはいつも紳士だから、

そう呼ばれるんじゃないのか?」

「口の利き方に気をつけた方がいい。後悔す

ることになります」

「残念だが、後悔はしない主義なんだ」

「あなたの要望に答えてあげたいが、こちら

も時間が惜しい商売なんでね。また、あいま

しょう。もっとも、今度あうときはあなたは

この世にはいないかもしれませんが」

「そうかい。楽しみに待ってるよ」

そう言って、携帯をバーテンに戻した。

「あんた殺されるぜ、確実に」

「初めてじゃあないんだ。そう脅されたのは。

でもこうして生きてる」

バーテンは鼻で笑うと私から離れていった。

 店を出ようと立ち上がると、バーテンが

「ちょっと待ちなよ」と言って、琥珀色のバ

ーボンを注いだグラスをカウンターに置いた。

「オレのおごりだ」

「ありがとう」

そう言うとちょうど目を覚ました猫みたいに

目を大きくさせた。

「礼ぐらいはするさ」

そう言ってグラスを傾けた。ワイルドターキ

ーがのどを焼く感覚が広がっていった。

「ブッチ・ハッカー。あんたが探してる男の

名前だ。あいにくヤツがどこに住んでるかは

知らないが、ダークシルバーのトラックに乗

ってる。シェビーの」

「なぜ、気が変わった?」

「あんたが死にたがってるみたいだからさ」

「死を恐れないのと、死にたいのは違う」

「ふん、映画の見過ぎだぜ。ボディ・ガード

だろ?」

「最近の映画は見ないんだ」

「そうかい」

「恐れてはいけない。大切なのは勇気だ、想

像力だ。ライムライトだ。見ておくといい」

「くそ、さっさと飲んで出て行きな」

私は彼の言った通りにするつもりだった。

 グラスに残った琥珀色ののどを焼く液体を

一気に飲み干し、さっきと同じようにドアへ

向かった。


□FIVE


 ブッチ・ハッカーを見つけるのは少々苦労

した。

 バーを出てから十五時間と三十分にタバコ三本。

 ブッチは名前にふさわしく、熊のような大

きな体を折りたたんでシェビーに乗り込む所

だった。

 身長は六フィートは軽く超え、体重は三百

ポンドほどはありそうに見えた。並のライン

バックではクォーターバックは守れないだろ

うと信じるのには十分な体だった。

 私は彼の車のちょうど向かいに車を止めて、

二時間三十分と、三本タバコを吸い終え、四

本目をくわえて、『デザートイン』にあるス

トリップクラブ『ジャガー』の看板を眺めて

いた。

 彼は『ジャガー』で昼食を済ませたらしく、

満足そうな笑顔と卑猥なほほえみを浮かべて

いた。

 そんな彼のひとときの幸福を邪魔するのは

心が痛むが、探偵という仕事はそういう事を

常にやり続けていなければいけない職業だ。

 私は四本目をくわえたまま、静かに彼に近

づいた。

「ライターを持ってないか?」

「ああ」ブッチはそう言ってズボンのポケッ

トをまさぐりはじめた。

「ブッチ・ハッカーだな? バルデズのとこ

ろで運転手をしている」

「なんのようだ?」

彼は体を低くかがめたまま、上目遣いで言っ

た。

「少し話が聞きたいんだ。リカルド・バルデ

ズの仕事について」

「なにもんだ?」

「それは、あとにしよう。話を訊かせてくれ

るか?」

「くそったれが」

そう言って、彼は私にタックルを仕掛けた。

 私は闘牛士がするように牛をすんでで交わ

し、牛の首にレピアの代わりに私の全体重を

のせた両拳を浴びせた。

 勢いよく顔からアスファルトに突っ込んで

いった彼の頭にねらいを定め、ベレッタを構

えた。

「起きあがらない方がいい。九mmをお前さん

の頭に向けてる」

「くそっ!」

「ここじゃなんだ。昼ご飯のあとのコーヒー

でも飲みに行かないか?」

「殺したきゃ、殺せよ」

「殺しはしない。話がしたいだけなんだ。ゆっくり立ち上がって。ゆっくりだ」

持ち上がってくる彼の頭に標準を動かしてい

った。

「ようし、君の車で行こう。くだらない事は

考えるな。こう見えてもお前さんみたいな連中の取り扱いにはなれてるんだ」

立ち上がった彼はゆっくりと歩幅をはかるみ

たいに自分の車まで戻った。私は彼が動くの

と併せて、標準を動かして言った。彼の顔の

下半分は血に染まり、白いワイシャツには新

しく南アメリカみたいな柄ができていた。

 二人とも車に乗り込むと、「なあ、その物

騒なものはしまわないか?」とブッチが鼻の

詰まった声で言った。

「コーヒーショップまでの我慢だ。安心して

いい、扱いには慣れている」

「冗談だろう?」

彼の瞳には恐怖が浮かんで見えた。一回り以

上小さい何者かもわからないアジア人にアス

ファルトのにおいをかがされ、銃を向けられ

ている状況は彼でなくても、恐怖だろう。

「私が知りたい事を教えてくれれば、コーヒ

ーを飲みに行く手間は省ける」

「血がとまらねぇんだ。勘弁してくれ」

「鼻が折れてるんだろう。死ぬほどじゃない」

「くそったれ。この黄色野郎!」

「なぜ、バルデズは老人を殺したがる? 社

会保障に不安があるのは彼じゃないだろうに」

私はしっかり両手で銃を持ち直し、眉間に標

準をあわせながら言った。

「し、しらない」

「知らないはずはない。お前さんがリカルド

に仕事を持ち込んだのは知ってる。知りたい

のはその後、いやその前の事さ」

「オレはしらねぇよ。ほんとだ」

「銃を使わないと思ったら大間違いだ。お前

さんの車にお前さんの脳みそをぶちまけた後、

お前さんの体と頭の残りをすぐそこの砂漠に

運んで埋めちまう。お前達がするのと同じよ

うにね」

「スタンリー・バルデズはあのじじいになん

だか秘密を握られていたんだ。オレが知って

るのはそれだけだ!」

「それならなぜ死んだ後にも用事ができる?」

「死んだ後? 何を言ってやがるんだ? リ

カルドは失敗したって聞いてる」

「確かに、失敗したよ。そのじいさんの遺体

がその後すぐに消えた」

「バカな」

「私もそう思ったさ。しかし、事実だ」

「生きていたというのは?」

「ありえない。確認した」

「何者なんだ。お前は?」

「レイン。探偵。そのじいさんの孫でもある」

「お前か、ミスターゴーンが言ってたのは」

「情報だけは早いな。なのに、彼が死んでい

たことは知らされてない。それとも、バルデ

ズもその事を知らないのか?」

「……」

「知らなかったんだな。お前は時期を待って

違う人間に仕事を与えるつもりだった。答え

た方がいい。こっちはカードを出したんだ」

「……そうだ」

「それなら、急いで連絡した方がいい。言わ

れなくてもそうするだろうが」

「生きていられると思ってるのか、オレをこ

んな目にあわせて?」

「ミスターゴーンもいたくご立腹のご様子だ

った。オレを殺したければ、彼の後だ」

「くそったれが!」

「他に言葉を知らないのか?」

「うるせぇ!」

「情報をありがとう。ついでにバルデズに伝

えてくれないか? じいさんの孫があいたが

っていると」

「うるせぇ!」

私は銃口を彼に向けたまま、車を降りた。私

が降りると、車はものすごい勢いでバックし、

駐車場から飛び出して行った。

 車に戻ってから、タバコを吸いながら、私

が与えた情報がどういう意味を持つのか考え

た。

 わからなかった。

 ボタンを掛け違えたシャツを着ているよう

な気分だった。

 携帯を取り出し、『ヘンダーソン警察所』

の殺人課に電話をかけた。

「レインというものだが、ビルかジョンはい

るかい?」

「オレだ。ビルだ」

しばらくして、ビルが電話を取った。

「訊きたいことがある」

「お前のくだらない話につきあってる暇はな

いね」

「リカルドに仕事を伝えたメッセンジャーに

あった。むこうさんは祖父が死んだことをご

存じないそうだ」

「オレの知ったことか!」

「ジョンは元気か?」

「ヤツは休暇を取ってるよ。用件はそれだけ

か?」

「今のところは」

言い終える前に、勢いよく受話器を置く音が

耳に響いた。

 情報こそが本当の道具であるはずのマフィ

アにもっとも重要な情報が伝わってない。

 祖父が自殺した事も。

 リカルドが殺された事すら。

 もし、リカルドがブッチの、スタンリーの

指示した通りでなく、それよりも早く仕事を

済ませてしまおうと、考えたとしたら。

 たくさんのなぜ、そしてもし。

 リカルドの死から、二十四時間は経過して

いた。身元は彼の所持していた免許証からわ

かったと聞いた。

 ルゥーイが、彼以外が彼の存在を証明でき

る一番の情報だった。

 その彼女は、おそらくあれからアパートに

は戻っていない。

 私はそれを証明するため、老売春婦、ミラ

に逢ってみることにした。

 『デザート・イン』から『ストリップ』に

入るのに、その『ストリップ』をくぐるトン

ネルの前の高架路で道を外れ、『ストリップ』

で右に折れた。

 この間と同じように『トレジャー・アイラ

ンド』にオムニを止め、この間と同じように

カジノに見向きもせずホテルを抜け、この間

と同じように歩道橋を渡り、『ベネチアン』

のすぐ側にいたミラに近づいていった。

「意外と簡単に見つかったね」

ため息みたいな声でそう言った。

「ルゥーイに逢ったのか?」

「何寝ぼけてるんだい? 今時の探偵は新聞

も読まないのかい?」

「なにか、あったんだな」

「そうか、本当に知らないんだ。彼女、死ん

だよ。事故で。ちっぽけな記事だった。あた

しも死んじまったら、あんなちっぽけでも新

聞ネタになりたいね。最後なんだから」

ミラは彼女らしい感想をくわえて、言った。

 詳しく話を訊くと、ルゥーイは私が彼女を

降ろした場所のすぐ近くで、すぐ後に、車に

ひかれたらしい。

 尾行されていた。全く気がつかなかった。

 私は彼女は消されたのだと考えた。

 それが一番わかりやすい説明に思えた。

 私はミラと別れ、車に戻ることにした。

 『トレジャー・アイランド』に入った時か

ら、視線を感じた。豪華帆船の様にきらびや

かに装飾されたカジノを私は普通の人と同じ

ように歩き回ることにした。

 しばらくして、駐車場へ向かうエスカレー

ターに乗り、一度も振り向かず、私は車へ向

かった。

「何のようだ?」

私は真後ろにいる男に言った。

「物騒なものは元にあった所へ戻していい」

私は右手に持っていたベレッタを助手席に置

いて、ゆっくりと振り返った。

「年を取ったな」

振り返って、言った。

 男は私と同じくらいの身長で、私よりも確

か六つほど年上で、黒髪はすっかり色あせ、

それでもたるんだ様子はうかがえず、白髪が

見え隠れするひげが顔の下半分を覆っていた。

 その男、ブラウン・ホワイトは私の上司だ

った。

「レインこそ」

この日本びいきの黒人が私にその名をつけた

本人だった。

「あなたが休暇でベガスに来た、なんていう

嘘はつかなくてもいいですよ」

「かわらないな」

「そっちこそ」

私は大学を卒業したあと、数年間、CIAで

働いていた事があった。今となってはあって

もなくてもいいような数年間。

 祖父は第二次大戦以後、この国へ移住した。

その後すぐ、彼は、十数年をCIAで過ごし

たそうだ。ブラウンは祖父が働いていた頃、

CIAに配属されたのだそうだ。

「探偵の仕事はどうかね?」

「想像通りですよ」

祖父はCIAでは事務屋だった。私は、営業

に回された。

 私にそういう才能があったかどうかはわか

らない。それはどうでもいい事だった。

「それで、なんの用事です?」

「タツノシン。いや、君のお祖父さんに関わ

る話だ」

「いつから、CIAは警察の仕事を横取りす

るようになったんです?」

「あのテロ以降、われわれの風当たりも強く

なってね」

「それで?」

「私は君のお祖父さんが、非常に重要な情報

を持っていると信じている」

「私が、それとも我々が?」

「我々だ」

「どんな種類の情報を? もし、情報を公開

する権利をあなたが持ってるならですが」

「私もいくらか権利を与えられる立場になっ

てね。……しかし、残念だが、言えない」

「私にも関わりありというわけか?」

「ひょっとしたら」

「それで、私になにをしろと?」

「お祖父さんの遺体の捜索をやめて欲しい」

「祖父の死を知っているのは、わずかな人間

だけだ。私が知る限り、そのだれもCIAな

どと関わりのない連中だ」

「FBIの連中と連携しているんでね」

「こんなちっぽけな街の、ちっぽけな会社の

会長がFBIに注目されてるとはね」

言ったが、それは違うと知っていた。日本で

も、数人の元学生活動家がいまだに公安の監

視下にあるのと同様、CIAの社員は、CI

Aの監視下にある。CIAは自分たちの組織

をテロ活動家と認識しているのだ。ただ、そ

れを公開することはないだけで。

 私は確実に監視下にある事は知っていた。

しかし、事務屋だった祖父すらも監視下にあ

った事に少しばかり驚いた。

「断る」

「君の祖父の遺体は私が、今度は私個人がだ、

責任を持って君の元に返すと約束する」

「まるで、祖父の遺体がどこにいるのか、知

っているみたいな口調じゃないですか」

「……」

「私は、私のやり方で探しますから、安心し

てください。あなた方の邪魔はしません」

「それだから、止めるのだ。君は確実に探し

出す。私に任せてくれないか?」

「断ります」

「……」

「用事が終わったのなら、行きますよ」

「どうしても、かね?」

「ブラウン。あなたには自分をもっとも愛し

てくれた人はいますか?」

「……わかった」

「できたら、もう逢いたくないですね」

私はそう言って、車に乗り込んだ。

 スタンリー・バルデズに早く逢わなければ

いけなくなりそうだった。

 情報でも、人員でも私個人がCIAにかな

うはずがなかった。

 私は祖父を自分で見つけたかった。

 なぜだろう?

 私は『トレジャー・アイランド』の駐車場

を出て、『ストリップ』を南へくだった。

 スタンリーに逢うことはできるだろうか。

 分刻みのスケジュールで動き回っているだ

ろう、彼にこちらから逢いに行くのは不可能

のように思えた。

 私はスタンリーが所有するホテルの一つ、

『ベラージオ』に標準をあてることにした。

 夜まで、待たなくてはならない。



□SIX


 『ベラージオ』は『ストリップ』のちょう

ど真ん中らへんに位置する高級ホテルで十八

歳未満はホテルの客でなければ入ることもで

きないというのが建前になっている。

 イタリアのコモ湖畔を再現して作ったとい

う、巨大人造池で水のショウが行われるので

有名なホテルだ。

 ホテルの内部は天井が高く、高級別荘を巨

大に仕上げたような内装。

 時計は十一時を指していた。

 私はナイトクラブ『ライト』の前でしばら

く待つことになった。

 私と同じように列を作っている人々は、ほ

とんどが私より一回りは若い連中ばかりで、

男達はボタンダウンの開襟シャツを、女達は

まるで競うあうかのように肌を露出される服

をまとい、そして全員がまとわりつくつまら

ない現実から目をそらすように、『ライト』

からもれる薄暗い光と、まばゆい音を眺めて

いた。

 三十分ほど待って、二十ドルを二人いた巨

大な黒人と白人の門番の間にいた男に払い、

私の知らないヒップホップの曲ががなりたて

るクラブの中に足を踏み入れた。

 クラブの中は時折流れるレーザーの光と、

曲のリズムに合わせ点滅をくりかえすストロ

ボライト、そして、入り口すぐ右手にあるバ

ーの薄いライトのみであとは暗闇だった。

 私はそれほど人のいないバーへ進み、ワイ

ルド・ターキーを頼んだ。

 二十一ドル。ボトル一本をかえる値段を払

って手に入れたシングル。

 私がここでやろうとすることは私でなくて

もできる事だが、効果的なはずだった。

 人の持つすべての欲望がうずまいているよ

うなこの空間。ここには本当にすべてがある

と信じている人間。

 男は女を求め、女は男を求め、金は権力を

求め、権力は金を求める。

 私は十二時を少し過ぎるのを待って、バー

ボンを飲み干し、タバコに火を点け、吸い終

えるのを待って、この圧縮された日常空間で、

唯一普段と変わらないトイレへ行き、携帯を

取り出した。

「今、『ライト』にいる」

私はラスベガス警察の麻薬取締課に電話をか

けた。

「コーク、ヘロイン、マリファナ、エクスタ

シー、薬はなんでも揃ってる。売春婦だって

いるだろうな。来なければ、新聞にでも証拠

写真を送ろうと思ってる」

「あなたの名前は?」

「それは言わないでおこう。しかし、来た方

がいいと思う。君らの署長の為にも」

そう言って、電話を切った。

 警察がくるかどうか、正直半々だった。

 しかし、私に迎えがくるのは間違いがない

ように思えた。

 それが、警察か、それとも、他の誰かかは

わからないが。

 待っている間、頼んだジン・トニックを飲

み干し、タバコを二本吸い終えた。

 警察ではない方が、私の迎えに来たようだ。

「ミスター・ゴーンがお会いになりたいそう

です。ミスター」

そう伝えに来たのは、門番をしていた片割れ

の白人のほうだった。彼にはスーツよりも、

タンクトップのほうがよく似合いそうな、体

つきで、ボクサーくずれというよりも、レス

ラーくずれという方が似合いそうだった。

「レインだ」

「ミスター・レイン。それではこちらへ」

それに、丁寧な口の利き方は彼には似合って

いなかった。

 私は『ライト』を出て、カジノの方へ戻り、

目立たない所に配置してある従業員の出入り

口をくぐった。

 高級別荘もふたを開ければ、どこにでもあ

るような内装だった。ただ白く塗ってある壁

に、低い天井、通路は狭く、ごく普通の素っ

気のない会社のオフィスのような作りだった。

 それでも、私が連れて行かれた所は、多少

は見栄えがする、それほど重くはなさそうな

ドアの先にあった。

 部屋は十畳ほどで、リノリウムの通路とは

違い、カーキのカーペットが敷かれ、三百ド

ルほど払ったと思われる机が部屋の真ん中に

置かれ、部屋の左右に観葉植物があった。デ

スクの上にはデルのパソコンと筆記用具に銀

行にありそうな緑のカバーがかかったランプ

があって、後頭部を一撃したら死人がでそう

なグラスの灰皿には私の親指よりも一回りは

太く、中指二本分よりほんのすこしだけ長い

葉巻が置かれていた。その葉巻の主は、肘掛

けのついた七十ドルで買えそうな椅子に座り、

たいしておもしろくもない窓から見える景色

から、たいして代わり映えしない私に視線を

移した。

 男は六十代半ばで、肉付きがいい、イタリ

ア系。髪は見事に白髪に代わり、オールバッ

クになでつけてある。私が着ていたスーツが

十着は買えそうな光沢のスーツを着て、右手

の中指にごついサファイヤの指輪をはめ、左

手の中指にはプラチナのシンプルな指輪がは

まっていた。

「ミスター・レインをお連れ致しました」

白人が言ったのを、あごで返事をし、白人は

合図もなく、静かに部屋をあとにした。

「ミスター・レイン。初めまして」

その声はまず間違いなく私が『エリア51』

で聴いた声と同じだった。

「一つだけ訊いても?」

「どうぞ」

彼は私が挨拶に返事をしなかったことにすこ

し顔をしかめたが、そう言った。

「『エリア51』のバーテンとの関係は?」

「テリーのことか? 出来の悪いいとこでね」

「ファミリービジネスのつらいところだな」

「まったくだ」

彼は優雅に笑うと、葉巻を親指と人差し指で

掴み、華麗な手さばきで先を銀のはさみで切

り落とし、デュポンとおぼしき金のライター

で火を点けた。煙を吐き出すと、カリブ海の

海の匂いのような独特の葉巻の匂いが部屋中

に充満した。

「質問はそれだけかね? ……それでは、こ

ちらから質問をさせて貰おうか」

「どうぞ」

「なにが望みですか?」

「スタンリー・バルデズに逢いたい」

「なぜ?」

「彼が祖父の遺体の行方を知っているか、そ

の事についての情報を持っていると信じてい

るから」

「私の知る限り、彼はなにも知らない」

「ファミリービジネスに二番手はいない」

「東洋人にしてはずいぶん失礼な口の利き方

だ」

ゴーンは少しづついらついてきたらしく、言

葉遣いも、顔つきも紳士らしくは無くなって

きた。

「あなたが私の事をどう思おうとかまわない」

「……」

「今日『ライト』でやったような事をなんど

でもやる気でいる。その事だけを忘れないで

欲しい」

そう言って私は立ち上がった。

「まだこちらの話は終わっていない」

「残念だが、こちらの話は終わった。ミスタ

ー・バルデズによくいっておいて欲しい。レ

インが逢いたがっていたと」

言い終わると、私がつれてこられたドアが開

いた。ゴーンは紳士の称号を永遠に剥奪され

たような表情を浮かべていた。

 私は振り返った。

 入り口の所に立っていたのは、三十代半ば

くらいの、スマートなグレーのパンツスーツ

と銀縁のめがね、そして深紅のアップに束ね

た髪がよく似合う女性が立っていた。

 ルゥーイと似た雰囲気だったが、彼女より

はるかに洗練された容貌で、隙間無く埋めら

れた知性があふれてだしているように見えた。

 学校の先生という雰囲気だった。しかし、

学校の先生が一生かけても手に入れられない、

いいがたいカリスマ性を醸し出していた。

「もう、結構よ。メイナード」

ハスキーな声には、それだけで納得したくな

るような響きが含まれていた。

 彼女はゴーンが部屋を出て行くのを身じろ

ぎもせず、静観し、ドアが閉まるのを待って、

机の後の椅子にすわった。

 まるで蛇が移動するように、音もなく歩く。

「話を聴きましょう。レイン、でしたね?」

「ええ、しかし、あなたは私を知っているよ

うだが、私はあなたが誰だか存じない」

「失礼しました。わたしがスタンリー・バル

デズです。初めまして」

「あなたが?」

「ええ。驚いた様子ですね。女にはマフィア

のボスがつとまるわけがないとでもおっしゃ

るのですか?」

「いえ、ただ、想像と違っていたので」

「そうでしょうね。スタンリーというのはこ

のビジネスをやるときの名前なんです。それ

で、わたしに訊きたい事とはなんですか?」

「私の、祖父、タツノシン・アメミヤの遺体

がある場所を」

無理矢理に、熱いスープを飲み干すように、

目の前に置かれた事実を飲み込みながら、言

った。

「なぜ、わたしが彼の居場所を知っていると

思うか聞かせてください」

「……二日前、祖父は『グリーンバレー』に

ある自宅で拳銃自殺をしました。詳しい状況

は私もわかりません。しかし、警察は祖父の

死を自殺と決定づけた。わたしはその事につ

いて警察へ話を訊きに行きました。そこでわ

かったことはそれほど多くはありませんでし

た。しかし、祖父の家に戻り、しばらくして、

二人の、初めは二人だと知らなかったんです

が、男が家に不法侵入を試みました。リカル

ド・バルデズとその仲間です。私はリカルド

を射殺し、彼の名字、そして私の手に入れた

情報からスタンリー・バルデズ、つまりあな

たがこの件に関わっていると結論づけた。長

くなりましたが、そういう理由であなたに面

会を求めたのです」

「確かにわたしはあなたの祖父を殺すように

依頼しました。それは事実です」

彼女はまるで、昨日の夕飯はステーキだった

というように、言った。

「しかし、彼の死は見せしめでなければ、な

らなかったのです」

「見せしめとは?」

「……やはり、知らないんですね。本当に。

お祖父さんはあなたになにも話さなかった?」

祖父が私に話す事はいつだって、現在の事で、

未来の事ばかりだった。過去の事は一度だけ、

祖母の話をしたときだけだった。

「話してください。もし、よかったら」

「いいでしょう。あなたの祖父、タツノシン

・アメミヤは、わたしの家族でもあるんです」

「……彼は昔のことは話したがらなかった」

「マリア・バルデズ。彼の妻よ。わたしの親

戚でもあるわ」

「そのあなたの親戚でもあるはずの祖父をな

ぜ殺さなければならなかったと言うんです?」

「利益」

「私の祖父は私の知る限り、あなたがたの商

売の邪魔をするような商売に携わっていたと

は思えない」

「ええ、わたしたちも同じ意見だったわ。で

も、二月前ほどに彼はわたしにあいにきてね。

ある仕事の契約について破棄するように言っ

てきたの。どこから手に入れたのかわからな

いままだけれども、その仕事の件についての

詳細を彼は知っていたわ」

ここ数ヶ月の間、私は『サンバナディーノ』

の仕事を祖父にどうしてもと頼まれ、その仕

事にたくさんの時間を費やしていた。

「どんな関係の仕事です?」

「残念だけど、話せない。その仕事はまだ継

続中だから」

「祖父は自殺したのはご存じですね? その

理由について、なにか思い当たることは?」

「……残念だけど。それに失礼だけど、こち

らにはありがたいニュースだった」

「そうですか」

言って、立ち上がると、小さく頭を下げた。

彼女は、ゴーンが立ち去ったときと同じよう

に私が部屋を出るまで身じろぎもしなかった。

 私は、なぜ祖父が私に仕事を頼んだのか、

わかった。彼は自殺するためでなく、私を巻

き込まないように、私を『サンバナディーノ』

へ追いやったのだ。

 一つ減ったなぜは、もうひとつのなぜに置

き換えられただけで、なにも変わらなかった。


□SEVEN


 祖父が会長を務めていた会社『タツ・セキ

ュリティ』は、祖父の家のある『グリーン・

バレー』から、二十分ほどの『サンセット』

のどん詰まりにある。すぐ側に有名なチョコ

レートの工場と、五分ほど東に下った所に、

『サンセット・カジノホテル』その正面に

『ギャラリア・モール』がある。

 周りにある建物同様、飾り気のない灰色の

のっぺりとした二階建てのそれほど大きくも

ないビルは、『タツ・セキュリティ』が所有

している。

 私は分厚いガラスドアの前に立って、携帯

を取り出し。マリアがいるはずの社長室直通

の番号を押した。

「はい、社長室」

なんだかずいぶん久しぶりに彼女の声を聞い

た気がした。

 なぜだろう。

「私だ。リュウだ。お仕事ご苦労さま。今、

会社のドアの前にいる。開けてくれないか?』

「はいはい」

そう言った後すぐに、目の前のドアが、カチ

リと音をたてて、静かにゆっくりと開いた。

ドアが開くと同時に、天井にある蛍光灯が一

斉に明かりをともした。

 内側も外側と同様に飾り気がなく、どこか

大学の建物に入ってきたような錯覚すらする。

 私は無人の受付台を歩き過ぎ、その奥のエ

レベーターに向かった。

 ちょうど降りてきたエレベーターにマリア

が乗っていた。

「いらっしゃい。久しぶりかしら? リュウ

イチロウが会社に来るのは」

確かにそうだった。大学に入ってから、一度

もここを訪れたことはなかった。

「話をしてほしいんだ。祖父の」

「あたしの知っていることなら、なんでも」

彼女は、笑顔をしまい込んで、神妙な表情で

言った。

「上に行きましょう。コーヒーでも飲みなが

ら話しましょう」

私はそれに頷いて、エレベーターに乗った。

 私たちはエレベーターの中では口を開かな

かった。そして、エレベーターから一番遠い

社長室と書かれた黒地に金縁の表札のかかっ

たドアの前で、「わかったことを聞かせてく

れない?」とマリアが言った。

 私は頷いて、彼女の後に続いて社長室に入

った。社長室は私が『ベラージオ』で案内さ

れた部屋よりも遙かに小さく、そして長方形

で、観葉植物もなく、百ドルほどで買えそう

な机に、二十ドルの椅子、唯一高価そうなも

のはマックのパソコンと、コーヒーメーカー

くらいだった。

「今、椅子を用意するわ」

そう言って、机の左側にあった小さなウォー

クイン・クローゼットのような物置から、灰

色の折りたたみの椅子を取り出し、机の正面

に置いた。

「応接室もあるんだけど、この部屋でないと

コーヒーが飲めないのよ」

 そう言いながら、コーヒーメーカーからサ

ーバーを取り外し、白い少し大きめのカップ

になみなみとコーヒーを注いで、二つ机に置

いた。

「タツがくれたのよ。このコーヒーメーカー。

わざわざ日本からとりよせたんだって自慢し

てたわ」

 そのコーヒーメーカーはサイフォン式で、

アルコールランプの代わりにヒーターを使っ

たタイプの物で、同じ物が私の家と、祖父の

家、そして、私の事務所にもあった。

「うまいコーヒーだ。祖父のコーヒーの味だ」

私は正直にそう思った。祖父が入れるコーヒ

ーはうまかった。私にはまねができなかった。

「いいえ。タツのコーヒーはもっと、もっと

おいしいわよ」

私は、もうコーヒーで唇をしめらせ、私にこ

の数日起こったことを話し始めた。要点だけ

なら、あれほどいろいろな出来事も、ほんの

十分で話し終えてしまうような事だった。

「なるほどね。それで、わたしに聞きたいこ

とは?」

「その前に、タバコを吸ってもかまわないか

な?」

「どうぞ」

そう言って、一度も使ったことのないような、

グラスの灰皿を引き出しから取り出して、私

のカップの隣に置いた。

 タバコを取り出し、火を点け、紫煙をはき

出した。まるでため息をするように。

「祖父がこの数ヶ月の間なにをしていたか、

聞かせて欲しい」

「……わたしにも詳しいことは話してくれな

かった。ただ、前の仕事と、それと前の奥さ

んに関わることなんだって。タツはこんな事

を言ってた、私のような老いぼれには未来な

んてない。過去が現在を飛び越えて、未来の

ふりをして待ってるんだ、と」

「祖父は会社では実質的になにをしていた?」

「なにも。会長に退いてからは」

「私が『サンバナディーノ』に行っている間

彼は会社に来ていた?」

「この二週間くらい、時折会社に顔を出すだ

けだったわ。電話にも出なかった」

「……祖父が自殺を選んだのは、そうするし

かなかったからだと思ってる。その理由はま

だわからない」

「わたしもそう信じてる。そして、リュウが

彼を見つけてくれることも」

「ありがとう」

「ずっと考えていたことなんだけれど、わた

しが正式にリュウにタツの捜索依頼をします」

「気持ちだけで、ありがたいよ。でも、これ

は私の問題でもあるから」

「わたしの問題でもあります。捜索にかかる

経費、それから報酬はしっかり払います。確

か捜索依頼は前払いで千ドルでしたね」

マリアは私の前で始めてみせる、キャリアウ

ーマンの顔をして、社長らしい話し方をした。

「ええ、それでかまいません」

だから私も仕事用の顔と、話し方をした。

「では、これを」

マリアはそう言って、小切手を差し出した。

額面はきっちり千ドル。宛名は私の事務所に

なっていた。

 私はそれを財布にしまい、いつもスーツの

内ポケットに入れている領収書を取り出し、

マリアに渡した。

 これで、契約終了だ。

「報告書はタツノシン本人の遺体を発見した

後、書きます。かかった経費、報酬の請求書

もその時になります」

「それで、かまいませんが、一つだけ、何か

進展があったら、連絡してください」

「できるだけ」

「必ず」

「わかりました」

そう言って私は立ち上がった。


□EIGHT


 私は祖父の会社を後にしてから、事務所に

向うことにした。

 『サンセット』を『ペコス』まで戻って、

北へ進み『フラミンゴ』で左に入ってすぐの

所に私の事務所はある。テナント賃は月々三

百ドルで、十五畳ほどの一間。ラスベガスで

は高くもないが安くもない値段を払っている。

この辺りは危険でもなければ、安全でもない

地域だった。

 私は事務所のあるオフィス・コンプレック

スの駐車場に車を入れ、暗闇の中、階段に足

を踏み入れた。

 二階まで二十数段の階段を昇り、一番右は

し、階段から四つ目のドアの事務所のドアの

ノブに手をかけた。

 扉を開くと暗闇。

 そして、カチリと冷たい撃鉄の起きる音。

 ようやく暗闇に慣れてきた目に入ったのは

祖父が開業祝いに買ってくれたオークの四百

ドルと大の男四人かかった机の後の机に無理

してあわせて買った車輪、手すり付き、革張

りの百ドルの椅子に座った人影だった。

 影は私がよくそうするように、机に脚を乗

せていた。黒のカウボーイハットに黒のスー

ツに、持っている銃が44マグナムなら、見

飽きた映画そのものだった。

「待たせて貰ったよ」

男は腹に響くような低いしわがれた声で言っ

た。彼は残念ながらカウボーイハットはかぶ

ってなかった。

「なにもなくて退屈だったろう」

私はドアを閉めずに静かに一歩部屋に入りな

がら言った。

 事務所には電話とコーヒーメーカーがある

きりで、ダミー会社のようなありさまだ。

「いいや、静かなひとときを過ごさせて貰っ

たよ」

彼はなまりのない、綺麗な英語で言った。喉

のつぶれた声からは年齢はわからなかった。

 彼は暗闇に混ざり込んだように、身じろぎ

もしない。光が届かないようにすら見えた。

「……なんのようかな?」

「推理するのが、仕事だろう?」

「私の仕事は調べる事で、考える事じゃない」

そう言うと、彼の右手の拳銃に一瞬だけ光が

挿した。サイレンサー付きの新しい拳銃。

 黒く光った拳銃の口は私を飲み込もうとし

ていた。

「いいだろう。私は君を殺しに来た」

「バルデズの所から来た?」

「いいや、別の口さ」

「祖父の遺体を誘拐した方か」

「知らなくてもいいことが世の中にはたくさ

んあるという事は知っておいた方がいい」

「これから死ぬ人間には必要のない説教に聞

こえるが?」

「そうかも知れない。だが、死ぬ前に自分が

死ななければならなくなった理由を知ってお

いた方がいいだろうと思ったのさ」

「心遣いありがたいね。ついでに一つだけ訊

かせてくれないか?」

「どうぞ」

「なぜ、祖父の遺体を誘拐した?」

「知らんね。私は君を殺すように言われただ

けだから」

「そうか」

「ああ。……すまんが、私も仕事なんでね」

「こっちも仕事なんだ。今、あんたに殺され

ている暇はない」

言い終わらない内に、私は外へ飛んだ。

 圧縮空気を発射するような音。

 ドアが閉まる音。

 そのドアを弾丸が貫通する音。

 左足に弾丸がかする音。

 そして、手すりを飛び降り、着地する音。

 向こうはプロだ。人を殺すのを生業にして

いる人間だ。

 私はクイーンになる三歩手前のポーン。

 だからといって、ここで諦めるわけにはい

かなかった。後に下がることはできないのだ、

前に進むしかないのだ。

 私は少し痛む左足を引きずるように走った。

 一度も後を振り返らずに走った。

 何時間も走った気がした。

 私が立ち止まったのは、車なら五分もかか

らない『ペコス』にあるオーストラリア系の

ステーキハウス『アウト・バックス』の前だ

った。

 勝てないとわかっていても、拳銃を持って

おけばよかったと後悔しながら、大きく深呼

吸をすると、背中に気配を感じた。

 私は腰をほんの少しかがめ、両足を軽く曲

げ、肩幅よりも少しだけ広げ、肘を腰の辺り

から前に出し、振り返った。

 ステーキハウスの看板から挿す赤いネオン

の下には、ブラウン・ホワイトが立っていた。

「早く!」

その妙に落ち着いた声は、あの頃いつだって

私を現実に引き戻した。

 私はその声に引き寄せられるように、彼の

走る後に続いた。

 白いフォード・トウラスの助手席に体を滑

り込ませ、車が走り始めた頃に、やっと私の

頭に、なぜが生まれた。

 なぜ、ブラウンがここにいるのか。

「なぜ、あなたは?」

「情報を集めるのが我々の仕事だ。忘れたわ

けではあるまい?」

「違う。……降ろしてください」

「何を言ってるんだ?」

「降ろしてください。命の助けて貰ったのは

感謝します。しかし、祖父の誘拐に関わって

るかも知れない人間の助けは必要ない」

「レイン。お前は何を言ってるのかわかって

ない。興奮しているんだ。深呼吸するといい」

「降ろしてください」

車はゆるゆると歩道により、止まった。

「ブラウン。命を助けて貰ったのは感謝する。

ありがとう。また、近いうちに逢うことにな

るでしょうね。あなたの命を奪わなければな

らないような事にならないとありがたいです。

しかし、そうしなければならないというなら、

私はためらいもなくそうします。いいですか、

私はためらいなく、あなたの命を奪います」

「後悔する事になるぞ」

「私は後悔はしない主義です。覚えているで

しょう?」

それだけ言って、まだ何か言いたそうなブラ

ウンを無視して、車を降りた。

 一五分ほど歩いて家のすぐ側の『トロピカ

ーナ』で、『ストリップ』に最後の一仕事に

向かおうとしているタクシーを捕まえた。

「どちらまで」

「『ストリップ』に」

「『トロピカーナ・ホテル』でいいかい? 

ちょうど、客を迎えに行くところなんだ」

「かまわない」

そう言ってから、左足の傷を見た。それほど

深くないが、パンツは台無しだった。私は持

っていたハンカチで傷口の上あたりを結び、

座席にもたれ、大きく息を吸って、吐いた。

 しばらく目を閉じていた。

 まだ、見えてこない全貌。

 目隠しでも、走り続けなければ、答えは見

えてこい。

「疲れてるみたいだねぇ。今まで仕事かい?」

ホテルについて、金を払うと運転手はそう言

った。

「ああ。そんなようなものさ」

「あんたも大変だね」

「そっちこそ」

私はつりはいいと言って車を降りた。

「グット・ラック」

私はなにも言い返さずに、二十四時間、三百

六十五日変わらずに照らす光に向かって歩き

はじめた。

 これまでに二度しか入ったことのない『ト

ロピカーナホテル』には、そのときと同じよ

うな客と、スロットマシンがあった。

 体内時計を狂わせるように設定された少し

薄暗い光の中、スロットマシンを縫うように

歩いて、五分程もかかってフロントにたどり

着いた。

「シングルの部屋は空いてるか?」

「ええ。でも、今からでもチェックアウトは

十二時になりますけど」

「かまわない」

たった一人でいる私にいぶかしげな表情を見

せながらも、断る理由もないと見たフロント

の男は、意外にすばやく書類を取り出し、ペ

ンと一緒に私によこした。

 十分後に、私は二十四階にある2455の

部屋の中にいた。

 『ラスベガス』のホテルの部屋はスウィー

トか、ぺントハウスでもないかぎり、中身は

そのへんのモーテルと変わらない。ただ違う

のは、窓の外から『ストリップ』が放つ光の

洪水が見えるかどうかだけで。

 部屋に入るとすぐに私は左足の傷口を洗い

流し、備え付けのタオルをハンカチの代わり

にして、バスローブに着替え、明かりをつけ

たまま、ベットに横になった。

 部屋は静かだった。光は窓からでも見える

が、音は二十四階までは届かない。

 わたしはなにをするべきか考えた。

 どんな人間が関わっているのか、まだわか

らないが、ブラウンを取り込めるような、も

しくはブラウンを取り込まなければならない

ような人間なはずだった。

 その人間は私を殺したがっている。

 殺し屋の駒が動くということはまだ私はそ

の人間には近づいてない。しかし、その人間

に近づきつつあるという事だ。

 祖父はなにを伝えたようとしているのだろ

うか?

 遺した遺書に込められたメッセージを手に

いてるための鍵はまだ手に入れてない。

 ほんのいくつかしかはまってないジクソー

パズルのピース。

 目が覚めると、十時だった。

 私はシャワーを浴びて、ひげを剃り、穴の

空いたパンツと汗くさいシャツを身にまとっ

て、チェックアウトに向かった。

 昨日タクシーを降りたところで、タクシー

を捕まえ、銀行に行き、マリアから預かった

小切手をキャッシュにし、レンタカー屋まで

タクシーに乗った。

 レンタカー屋で車を、ダッジ・ネオンを、

待っている間にマリアに電話をかけた。

「よく聞いてくれ。いいね」

「もしもし」

マリアの緊張した声が聞こえた。先を越され

たらしかった。

「黒ずくめの男がいるね?」

「はい」

「今は家か?」

「ええ」

「今から向かう」

彼女はたった一人で二階建ての大きな家に住

んでいた。夫を亡くし、一人息子はまだ刑務

所に入っていた。

「わかりました」

「殺させはしないよ」

「どちらでも、そちらのお好きなように」

「そうはいかない」

そう言って電話を切ると、車が用意できたと

男が鍵と受取証を渡して、言った。

 行き先は『ラスベガス』の東端に位置する

『サマリーン』にあるマリアの家。

 マリアの家に向かう前に三分の一ほどしか

入ってなかったガソリンを満タンまでいれ、

事務所にある車から、拳銃を拾って、『I−

15」から『I−94』そして『レインボウ』

の手前で『サマリーン・ドライブ』に乗り換

え、合わせて四十分かかってマリアの家の前

の歩道に車を止めた。車の窓を開けたままで、

エンジンもかけたままにしておいた。

 私はベレッタを右手に握ったまま、左手で

白いドアをノックした。

 三つ数えて、ドアを開け、二階へ向かった。

 二階のマリアの寝室らしい部屋にマリアと、

昨日の男がいた。

 マリアは起き抜けらしく、パジャマを着た

ままで、頭にはカーラーが巻かれていた。

 恐怖は見えなかった。いまにも、あら、い

らっしゃい。コーヒーとクッキーはいかが?

と言いそうに見えた。

 黒ずくめの男は、数時間前と何も変わらず。

 身じろぎもしない彼の頭に、ベレッタの標

準を合わせた。

「マリアを離すんだ」

「この間は、お前の運がよかっただけさ」

男はマリアのこめかみに、拳銃を突きつけて

言った。

 男はマリアの体の後に隠れるようにして、

私からは頭しか狙えない。

「撃ってしまいなさい。リュウ」

「そういうわけにもいかない」

「タツに合いたくなっただけよ。なんだか、

急に寂しくなった。それだけよ」

「わかってる。でも、そうするわけにはいか

ないんだ」

「なぜか、聞いてもいいかね?」

「……彼女は私の母親だからさ。自分の母親

を見殺しにする息子がどこにいる?」

「リュウ……」

「それじゃあ、おまえにチャンスをあげよう。

お前が生きるか、彼女が生きるか。どちらか

一つ」

「わたしを殺しなさい」マリアの声が響いた、

「リュウ。息子を見殺しにするような母親は

それこそ、どこにもいないわ。それに、年寄

りは若者より早く死ぬものよ」マリアは笑顔

を浮かべていた。母親が子供を諭すときの笑

顔だった。

 静寂の時は流れ、静寂の時は銃声が壊した。

 そして、静寂。

「ありがとう。マリア」

「あなたはわたしの自慢の息子よ」

マリアは私に駆け寄り、飛びついてきた。

 眉間に小さな穴があいた、黒ずくめの男は

静かに、ゆっくりと後に倒れていった。

 マリアは笑顔で、涙を流していた。

「さあ、ここを出よう。マリアは何処かへ行

くんだ。どこでもいい。フロリダでも、ハワ

イでも」

「リュウ」

「私は祖父を見つけてやらなきゃいけない」

「危険すぎる」

「だとしても」

「強情なところはタツとよく似てるわね」

「マリアにもね」

そう言うと、彼女は声を上げて笑い出した。

「ありがとう」

そして、そう言った。



□NINE


 その日の内にマリヤを空港で降ろしてから、

私は一度家に戻った。

 新しい洋服と、新しい弾丸を手にして、家

を後にしようとした時、電話が鳴った。

「こちらはミスターレインでしょうか?」

聞き覚えのない若い女性の声だった。

「そうだが、そちらは?」

「わたし、エリン・ジョーンズと言います。

あの、ステファニー・ジョーンズの娘です」

「どちらのステファニーさんかね?」

「あの、母はミラと名乗ってました」

驚いた。ミラに娘がいただだなんて、それに

そのミラの娘が私になんの用事なのか気にな

った。

「それで?」

「母が亡くなりました。昨日の事です。母の

遺言で、母に何かあったときはミスターレイ

ンに連絡するようにと」

「なぜ、亡くなったのか尋ねてもいいかね?」

「薬物過度摂取」

「まさか」

ミラは確かに常習者ではあったが、過度摂取

で死ぬほどではなかった。それほど若くもな

いし、それほど愚かでもなかったはずだ。

「わたしも、同じ思いです。だから、お電話

を差し上げました」

「わかった」

「どちらへ行けばいいでしょう?」

「私がそちらへ行く。『ラスベガス』は初め

てだろう?」

「ええ」

「今どこへ?」

「『ベネチアン』に泊まっています」

「そちらについたら連絡する。部屋の番号を」

「4733です」

「二十分ほどかかる」

「わかりました。お待ちしています」

受話器を置いて、私は家を後にした。

 家から『ペコス』で北へ『デザート・イン』

まで行って、『パラダイス』で左へ入り、

『トウェイン』で右に、コンベンションセン

ターの手前で左に曲がり、『ストリップ』カ

ジノホテルで一番新しいのに、駐車場がやや

こしい『ベネチアン』ホテルに入った。

 五階に車を止め、三階のホテルの入り口ま

でエレベーターで下り、降りたところで、エ

リンの部屋に電話をかけた。

「レインだ。今ついた。フロントのところで

逢おう」

「わかりました。すぐ降ります」

『ベネチアン』のエレベーターが早いのか、

どうかはわからないが、四十七階から降りて

きた割にはそれほど待たされなかった。

 黒いスーツを着た、二十七歳くらいの、女

性が私に近づいてきた。

 背はそれほど高くはないが、均整の取れた

体。赤い髪は綺麗に一つに束ねられ、こぶり

の耳にシンプルなプラチナのイヤリングが見

えた。小さい顔は整形ならば三万ドルは最低

かかると思われるくらい整った顔。悲しそう

に、開かれた瞳は大きく、綺麗に整えられた

弓なりの眉と相性がいい。鼻と口はミラに似ているかも知れなかった。ただ表情がなく、よくできたCGのようにも見えた。

「ミスターレインですか?」

「そうだ」

「エリンです。初めまして」

「こちらこそ。立ち話もなんだから、何処か

へ行こう」

そう言って私は歩き始めた。歩きながら、カ

ジノにまともな場所はないなと考えた。

 私たちは口を開かず、カジノを通り過ぎ、

二階へ行って、数々のブティックを通り過ぎ、

いつも人のあまりいないコーヒーショップに

腰を落ち着かせることにした。

「……母が亡くなった本当の理由を知りたい

んです」

私がタバコに火を点けるのを待って、言った。

「ちょっと待ってくれ。死因に不審な点があ

るとおもった理由は?」

「きっと、ミスターレインもご存じだと思い

ます。母は愚かな人ではありませんでした。

確かにあんな商売をしていましたが」

「確かに、しかし」

「母はミスターレインなら、信用できるとい

つも言ってました」

「ミラがそんなに私を買っていたとは知らな

かった。逢えばいつだって口げんかの一つや

二つしていた」

「自分の感情を上手く表現できない人でした

から」

エリンは過去形でしか自分の母親を表現でき

なくなった状況を思い出したのか、大きな瞳

を潤ませた。

「お忙しいのはわかります。でも、お金はい

くらでも払います」

「金だけの問題じゃない。私がその調査に向

いているかどうか。金を無駄遣いさせるのは

私の流儀とあわないんでね」

「人手が必要なら、わたしを使ってください。

探偵ではありませんが、似た仕事をわたしも

していますから、何かのお役に立てると思い

ます」

「なにをしている?」

「弁護士です」

「なるほど。私の仕事からはほど遠い職業だ

が、似てないこともないかも知れない」

「引き受けてくださいますか?」

「いいだろう。ただし、私が君の手伝いをす

るという形で、そして期限付きで。私も一つ

大切な調査があってね」

「ごめんなさい」

「そういう時はありがとうと言うんだ」

「ありがとう。ミスターレイン」

「レインでかまわない。早速、始めよう。ミ

ラの家に案内してくれ」

エリンは静かに立ち上がると、私が立ち上が

るのを待って、小さく頭を下げた。

 今度は私がエリンの後に続く番だった。

「ミラはどこに住んでいた?」

私は人工のベネチアを模倣した運河を渡す橋

のところで訊いた。

「母はここに住んでいたんですよ」

すこしおどけたような笑顔を浮かべ、言った。

「ここに?」

私は初め意味がわからなかった。

 このホテル『ベネチアン』は『ラスベガス』

を代表する高級ホテル。すべての部屋はスウ

ィートで、すべての部屋が完成すれば、世界

で最大の部屋数を所有するホテルになる。

「ええ、仕事場がちかいからというのと、彼

女なりのプライドの為に」

どこからその金がでてくるのかと訊くのは失

礼だろうかと、考えたが、そんな質問をいつ

だってするのが私の仕事なのを思い出して、

訊いた。

「母は大金持ちと結婚したんです。彼女自身

にもちょっとした才能があって、いくつもの

セックス・トイを発明したりしたんです」

もちろん、それは表の顔で、裏では『ラスベ

ガス』の売春婦の大部分を取り仕切っていた。

『ラスベガス』の南にある街では売春は合法

なのだ。その売春宿を経営していると聞いた

こともあった。ただ、本人はなぜか、『ラス

ベガス』で本来の仕事を続けていた。

「なるほど、そうと知らずにそのミラに情報

料を二十ドルくらいしか払ったことのない私

はとんだ道化だったというわけだな」

「いいえ、母は、レインにしか、情報を売ら

なかったそうですよ」

彼女はミスターと言いかけ、レインと言い直

した。

「君が滞在している部屋が?」

「ええ。驚きました?」

彼女は先ほどと同じ笑顔を浮かべ言った。

 彼女は少しずつながら、表情を取り戻し、

人間らしく見えてきた。

 笑った顔はとても魅力的だった。

 私たちはたっぷり十分かけて、4733号

室にたどり着いた。

 部屋はスウィートらしく、間取りに余裕が

あり、家具もそれなりのものを使っていた。

ただ、窓の外の景色は文句のつけようがなか

った。『ストリップ』全体がよく見渡せる。

今が夜なら、街の光全部をまるで自分一人が

所有しているような気分にさせてくれるだろ

うと思った。

「ミラは?」

もう一つ、部屋にはミラの姿はなかった。

「警察に」

「過度摂取したはずの麻薬は?」

「それも警察に」

ミラはコカインしか使わない。『ラスベガス』

に流通するなかでももっとも高価なコカイン

のみ彼女は買っていた。

「本当に過度摂取による死亡かどうかわから

ないが、少なくともそれに何らかの関わりは

あると思う。だから、ディーラーに会ってみ

ようと思う」

「ご存じなんですが?」

「まあ、私とミラの共通の友人のようなもの

でね」

私とディーラーのバイロンが友人であるかは

疑いがあるが、彼が私とミラを繋いだことは

確かだった。

 何年かまえ、ある調査でバイロンの話を聞

きに行ったときに、ちょうど、いたのがミラ

だった。その時は彼女がどんな素性の人間か

知らなかったが、少し後になって、違う仕事

で彼女と逢ったときに、彼女が何者かわかっ

たのだった。

「わたしも一緒に行きます」

「いいだろう。その前に部屋を調べさせてく

れないか?」

「どうぞ」

彼女はテレビの前のラブソファに腰掛け、私

はバスルームから捜索を始めた。

 十五分ほど、色々な場所をひっくり返して

みたが、警察がすでに同じ作業をしたのか、

コカインの粉すら見つからなかった。

「では、行こうか?」

私は何事もなかったかのように、ソファに腰

掛けたままだったエリンに言った。

「調査料というのはどれくらいなんでしょう

か?」

「私は君の手伝いをしているだけだ。この期

間中は金はいらない。もし、この期間中にな

にも見つからず、君がさらに調査を依頼する

気があるなら、その時に金の話はしよう」

「ありがとう」

「いいんだ。ミラには借りがある」

そう言って、私は部屋のドアを開け、彼女を

外に促した。

 駐車場に戻って、私と彼女とどちらが運転

するかの話し合いに私が折れ、車はごく普通

の車だと言った彼女を信じ、彼女の車へ向か

った。

 彼女のごく普通の車はソアラだった。今年

出たばかりのモデルらしいが、高級車には縁

も、興味もない私には、詳しいことはわから

なかった。

 ソアラでコカインのディーラーを訪れるの

と、五階まで戻って私の車を取りに行くのと

を比べたが、どちらもそれほど代わりがなさ

そうだった。だから、私はソアラに乗り込む

事にした。

 私が知る限りバイロンはどこへも転居して

いないはずだった。

 中間業者でしかないディーラーはそれほど

もうけが出るわけでもなく、もうけもほとん

どが自分が買う分になくなってしまうらしく、

たいていは安アパートに住んでいたりする。

バイロンは高級品しか取り扱わないから、多

少はまともな所に、まともな一軒家を持って

いた。

 『ディケーター』と『トロピカーナ』の交

差点にある『インターナショナル・マーケッ

トプレイス』の向かいにあるガソリンスタン

ドのすぐ裏手にある『メザニーン』と冠され

た住宅街にその家はあった。

 『シルバーポイント』という小さな道で右

に入り、正面にある角に立つ家がバイロンの

家だった。この住宅地は外から見る限りはみ

んな同じデザインのタウンハウスで、赤土色

の瓦に、白い壁。いかにもアメリカの家とい

った趣だった。

 私はエリンに車で待機しておくように言っ

て、ドアの前ですぐ左にある濃いクリーム色

の呼び鈴を押した。

 しばらく待たされて、ドアが開いた。

 バイロンは起き抜けだったらしかったが、

そのことを差し引いても、以前より病的な白

く、頬のこけた表情のない顔はひどくなって

いたようにみえた。

 灰色の伸びきったTシャツに、黒に赤い線

が入ったバスケットボールのパンツを身に纏

った彼は、私を確認するなり、ドアを閉めよ

うとした。

 そうされるまで、すっかり忘れていたが、

以前の訪問は必ずしも友好的とはいえないも

のだったことを思いだした。

 思い出しながら、ドアを右足で止め、ドア

を思い切り引いた。それほど苦労もしなかっ

た。彼はあったり降参したらしく、「今度は

なんのようだ?」と肺ガンに冒された末期患

者みたいな声で言った。

「お前さんが、この間『ベネチアン』のミラ

に売ったホワイトについてだ」

ホワイトというのはコカインの通称で、彼は

コークでなく、ホワイトという名前を好んで

使っていたのを思い出して言った。

「ミラとは最近商売してない」

「嘘をつくな」

「う、嘘なんかじゃない。ほ、本当だ」

「私に嘘をついてもなにもならないのはよく

覚えてるだろう?」

「嘘じゃない。鞍替えしたんじゃねぇかって

頭に来てたところだよ。オレも」

どうやら、彼は本当の事を言ってるらしい。

「最近、仕事が減ってるんだ」

「お前のは、高級品だからだろう」

「だから、売れたんだ。でも、ここんとこ、

バルデズの辺りから、もっといいものが、安

値で売られてやがるんだよ。くそったれイタ

リアンどもが。あ、すまん、お前さんもイタ

リアンだったか」

「バルデズが?」

「この仕事だって、お前さんと同じに情報が

命なんだ。オレの所の常連はみんなそっちに

流れちまったらしくて、音沙汰なしさ」

「確かなんだろうな?」

「こっちは生きるか死ぬかの商売やってるん

だ。確かも確かさ。商売の事はきっちりやる

ほうなんだ」

「お前の取られた客はどうしてるか知ってる

か?」

「なんのことだよ?」

「ミラは死んだ。過度摂取だったそうだ」

「へっ、よっぽどいいもんなんだろうな、オ

レんとこより純度が高くて、安けりゃ、みん

な過度摂取で死んじまうだろうよ」

これで、バイロンには用事がなくなった。

「その事でなにかわかったら連絡してくれな

いか?」

そう言いながら、財布から百ドルを取り出し

渡した。

「ありがてぇ。わかったよ。必ず連絡する」

「番号はここだ」

言って、名刺を渡して、車に戻った。

「最近商売敵ができたそうで、困っていた。

ミラには売ってないと。この調査の期限の事

だが、あれはなしにしよう」

バルデズが関わってるなら、祖父の事件と関

わってる可能性は十分にあった。

「だが、金の事はいい。私の事件にも関わっ

てきたということだから」

「お金の事なら平気です。母と父は私の孫が

働かなくても十分食べていけるくらいのお金

を遺していますから」

「払いたいというなら、請求はすべてが片づ

いてからにする」

「わかりました。それじゃあ、次はどこへ行

きますか?」

彼女はこの調査を楽しんでいるとさえ思える

ほど、明るい声で言った。

「『ベラージオ』へ」

「わかりました」

私はもう一度、スタンリー・バルデズに話を

訊きに行くつもりだ。

 私たちは『ストリップ』を、『ベラージオ』

に向かうことにした。

 もうすぐ二時になろうかという時間なのに、

『ストリップ』は相変わらず混み合っていた。

信号を無視して横断歩道を渡っている人達を

じっくり待って、人工の湖の南をぐるりと回

る道を通って駐車場へ向かった。



□TEN


 以前連れて来られた部屋の前で、一度深呼

吸をしてから、ドアをノックした。

 聞き覚えのあるゴーンの声が、入れといい、

私たちはそれに従った。

「なんの用事かね?」

私が目の前にいることなど、十年も前から知

っていたような諦めが浮かぶ表情だった。そ

して、以前に見たときよりやつれて見えた。

「ホワイトの値段を極端に下げたのはなぜか

聞かせてくれないか?」

「そちらのお嬢様は?」

私の質問を中空に浮くような表情で無視して、

石にでも話しかけるように言った。

「エリンです。エリン・ジョーンズ」

彼女も負けじと無表情で答えた。

「申し遅れました。メイナード・ゴーンです」

「ここにインターンにつれてきたんじゃない。

質問に答えろ」

私はそう言って、ホルダーにぶら下がってい

た拳銃を右手で抜いた。

「極秘扱いでしてね」

拳銃を突きつけられても、無表情は変わらな

かった。

「撃たないと思っているなら、それは間違っ

てる」

「撃ちたいなら、撃ってもかまいませんよ。

コカインビジネスの事は私とスタンリーしか

知らない」

「では、スタンリーに話を訊きに行こう」

私は言って、拳銃をゴーンに向けた。

「……慌てないでください。スタンリーは今、

イタリアへ行っている。しばらくは帰ってこ

ない予定だ」

「高飛びってわけか? 何にしろ、可哀想な

羊に選ばれたんだな、お前は」

「……お前と会ってからというもの、なにひ

とつといいことがない」

ゴーンはらしくない口調で言った。言い終え

ると、眉間にしわを寄せて、紳士と呼ぶには

ほど遠い表情を浮かべていた。

「慌てるな。取引をしよう」

「どんな?」

彼は深く息を吸い、はき出してから言った。

「私がお前をハメたヤツを見つけ出す」

「それが、なんになるというのだ?」

「やれっぱなしで、逃げるわけにはいかない

んじゃないのか? お前の仕事は。今のお前

は自分が動けば、チェックメイトになる役に

立たないキングさ。手駒の一つもろくに動か

せない様な」

「……哀しいとは思わないか? バルデズ・

ファミリーに二代続けて仕えてきたというの

に、会社を守るためなら、私すら生け贄にす

る。あの女はビジネスをこれで一気にクリー

ンにするつもりだ。きっかけを待っていたん

だ。クリーンビジネスの社員を養っていくに

は十分すぎるほどの利益は上がっている。今

回のことを期に私の仕事をすべて切り捨てる

だろう。専務の肩書きなど、蜘蛛の糸ほどに

もろいものだということだ」

「蜘蛛は二十四時間あれば、立派に巣を取り

戻す」

「……」

「さあ、どうする? ここでただのたれ死ぬ

のを待つか? それとも」

「……いいだろう」言って、深く息を吸って、

「最近あるルートから大量に、安価で、品質

の高いコカインが流れてきた、私はそれに飛

びついたんだ」と息を吐き出すように言った。

「あるルートとは?」

「A国」

最近起こったある事件でA国は国際的に有名

になった国だった。

「安物買いの銭失いだな」

「なんだって?」

「日本じゃそう言うのさ。それで?」

「簡単に言うと、麻薬を使っての無差別テロ

の片棒を担がされたという事だ」

「詳しく言うと?」

「それは、正直なところ私にもわからない。

純度を調べるときもって帰ってきたサンプル

にはなんの問題もなかったし、荷下ろしの時

のチェックにも引っかからなかった」

「何が混ざっていた?」

「毒だ。詳しいことはわからない。ごく少量

で大の大人を殺せる毒が混ざっていたんだ」

「いつ、なぜそれに気がついた?」

「常用者の若いヤツにテストのつもりでくれ

てやったんだ。ヤツはいつもと同じように、

吸引しただけなのに、急にけいれんを初め、

それからすぐに死んだと」

「どれくらい、すでに出回ってる?」

「その死んだ若いヤツのこともあって、スタ

ンリーはもう一度、テストを完全に繰り返す

ようにと言ったんだが、それをしたんじゃ、

普段の値段と変わらなくなってしまうと言っ

て、私は無理矢理に売ろうとしたんだ」

「自業自得だな」

「うるさい! だが、スタンリーは猛反対で、

大部分のコカインは何処かへ持って行かれた。

多分、焼却所だろう。私は手元に置いておい

た五キロを常連の客に売った」

「その常連の客になぜミラが入っていた?」

「『ベネチアン』のか? 死んだのか?」

「ええ、亡くなりました」

私の後に控えていたエリンが言った。

「彼女はミラの娘だ」

「……すまないことをした」

「私もお前をスケープゴートに仕立て上げた

スタンリーの気持ちがよくわかった」

「と、取引は取引だ」

「ああ、わかってるさ。コカインを売った連

中の名前を教えろ」

「ここに」

そう言って、フロッピーディスクをよこした。

おおかた後で強請の材料に使うつもりだった

のだろう。

「今、手元にコカインは?」

「まだ半分以上は残ってる」

「何人に売ったんだ?」

「五人の上客に、ミラは私から直接、そいつ

らの名前はフロッピーに入れてある。残りは

信頼できる部下に渡した」

「そいつを呼んでくれ」

「わかった」

そう言って、黒の受話器を取って、早口の命

令口調で、ジムという男を呼び出した。

「まさか、今更売ろうと思っていないだろう

が、安全な場所にしまっておいてくれ」

「わかった。それで、お前は何をするつもり

だ?」

「ゴーン、その質問は自分に訊いたほうがい

いんじゃないのか? お前ができることはこ

れ以上死体が増えないことを祈るだけだ」

ゴーンは机を見つめたまま、黙ってしまった。

「二十四時間だけ、時間をやろう。その間に

私はコカインの回収をする。そのための金も

必要だな。空港までは私が送ろう」

「そんな金などない」

「街の探偵にもそんな金はない。売った分の

売り上げがあるだろう。それを全部寄こせ」

「わかった」

彼は力無くうなだれ、しばらくそうしていた

が、諦めがついたのかゆるゆると立ち上がり、

クローゼットの後に隠れていた金庫から五つ

の札束をとりだした。

 百枚の百ドルの束が五つで五万ドル。

 コカインの末端価格の推移に興味がない私

には多いのか、少ないのかよくわからないが、

私が一生の内これだけの金を目にするのはこ

れで最初で最後であるのはほぼ間違いない。

 その束を私はエリンが抱えていた小さな鞄

にとりあえずしまうことにした。

 そして、ジムが部屋にやってきた。

「ジミー。こちらはレインだ。彼の話をよく

聞くんだいいね?」

「はい。ミスターゴーン」

「君が最近手にしたコカインを売った人間を

教えて欲しい」

ジムは出かけた言葉を飲む込むような顔をし

て黙っていた。

「ボスの前で、いいづらいなら、ゴーンには

席を外して貰うが?」

「ジミー。かまわん。話せ」

「……ええ。わかりました。……ミスターゴ

ーンに依頼されたコカイン一キロの処理は、

……五人のディーラーと交渉し、三人と売買

の約束を取り付けたのですが、一人にのみコ

カインを百グラム売っただけで、後の二人に

はしばらく、様子を見るからと言って、待た

せてあります。申し訳ございません。ミスタ

ーゴーン」

「君はまだマシな選択ができるようだ。すく

なくともここにいるゴーンよりは。そのディ

ーラーの名は?」

「デズモン・ジョンソン。黒人です」

「彼のなわばりは?」

「確か、『ノースラスベガス』だと思います」

「わかった。ありがとう。他に何か思い出す

ことがあったら、この名刺の番号に電話をく

れるね?」

そう訊きながら、名刺を取り出し彼に渡した。

「リュウイチロウ……」

「どうした? ジミー。ミスターレインを知

っているのかね?」

「いえ……。ただ、珍しい名前だと……」

「日本人だから」

と私は同じ反応をされたときの声色と表情で

言った。

 そう言った、私の顔を一瞬見て、ジムは頭

を下げ、部屋を後にした。

 その顔もよく見る表情だった。イタリア人

の血が流れている私は、日本人にも見えない

が、イタリア人にも見えない顔をしている。

「ここにいるんだな。連絡する」

「ここに私の携帯の番号がある。ここに連絡

して欲しい」

ゴーンはそう言って名刺をよこした。

「わかった。……行こう。エリン」

私はそう言って、エリンのためにドアを開け

てやり、その後に続いて私も外に出た。


□ELEVEN


 『ストリップ』を北へ進み、『ダウンタウ

ン』を過ぎると、五分も走らないうちに『ノ

ースラスベガスへようこそ』と書かれたサイ

ンが見えてくる。

 私はまず、『ノースラスベガス』をテリト

リーにしているデズモン・ジョンソンを訪れ

ることにした。

 『ノースラスベガス』にある『シャイアン』

のあたりは『ラスベガス』の街の中でも、も

っとも治安の悪い地域だった。

 私はスーパーマーケットの隣に立つ珍しく

三階建ての、この辺りではすぐ側の『シャイ

アン・トレイル』と肩を並べる高級アパート

『シャイアン・プラザ』の敷地内に入った。

 適当なところで車を降り、ジムがよこした

デズモンの部屋番号を確認した。

 03−322号。

「わたしはここで待っているわ」

エリンはバックから百グラムのコカインの分

の金を渡して言った。

「そうしてくれ」

私はコカイン・ディーラーとの話し合いと、

多少はまともなファミリー・アパートの安全

性とを秤にかけ、敷地内にある小さな公園で

子供達が嬌声をあげてはしゃいでいるのを見

て、車で待っている方が安全だろうと踏んで

答えた。

 私は右端にある建物に3と大きく書かれて

いるのを見て、そちらへ進んだ。ルゥーイと

リカルドが住んでいたアパートよりもはるか

に綺麗で明るい階段を三階まで昇って、そこ

からサインに従って左に歩いた。

 322号は私の昇ってきた階段から一番遠

くにあり、もう一つある階段から一番近くに

ある322号のドアをノックした。

 よほど訪れる客が多いのか、それとも楽観

的なのか、ちょうど外へ出ようとしていたの

か、間を開けずにドアは開かれた。

「なんのようだ?」

「バルデズの所から買ったホワイトを買いに

来た」

「へへ、耳が早ぇな」

「回収しに来たと言った方が正しいな。お前

が持ってるそのホワイトは売り物ではなくな

った」

「冗談だろ? オレの分のほとんどは予約済

みで、第一、今から売りに行くところだぜ」

「まだ、誰にも売ってないんだな?」

「ああ。まだだ」

「これが、お前がバルデズの所のジムに払っ

た金だ」

「買いたいって言うなら、売らないこともな

いけどよ、オレも飯食ってかなきゃならねぇ。

買った分で、売れるわけがねぇだろ?」

「牢屋で長年暮らしたいか?」

「お前を殺してか?」

なぜ彼が『ノースラスベガス』で麻薬を売っ

て生活できるかよくわかるような表情を浮か

べて言った。

「この金で手を打つか? それともこいつに

何か言いたいか?」

私はベレッタを抜いて、言った。

「……わ、わかったよ。おまえがそんなに言

うなら」

「渡して貰おうか?」

私は拳銃で手招きをして言った。

 デズモンは渋々靴箱らしき白の小さな棚の

奥から、小さい透明なプラスチック袋を私に

よこした。

「ありがとう」

「ひとつ、訊かせてくれねぇか?」

「なんだ?」

「なぜ?」

「知らない方がいいって事がこの世の中には

たくさんある。この事はそのひとつさ」

「くだらねぇ。早く消えちまいなぁ」

そう言って彼はドアを閉めた。

 階段を下りながら、私は残りは拳銃で脅し

とる必要がないようにと祈ってみた。

 車に戻り、キャメルに火を点けると、「次

はどこへ?」と、エリンが言った。ドライバ

ーがいたについてきた口調だった。

「『ベネチアン』に。君を降ろしに」

「……この件は母に関わってるんです。私な

ら平気ですから」

 新米の弁護士がボスにたてつくときに使い

そうな口調で言った。

「そういうわけにもいかない。君になにかあ

ったらあの世でミラにあった時に申し訳がた

たない。……私に任せてくれないか?」

「……わかりました」

私のどの説得に納得したのかはわからなかっ

たが、そんな事はどうでもよかった。

 尾行車の姿もなく、渋滞にも運良く巻き込

まれず、十七分後には

『ベネチアン』の正面入り口でボーイにソア

ラの鍵を渡し、エレベーターに乗って四十七

階に向かっていた。

「コーヒーでも頼みましょうか?」

意味ありげなエリンのまなざしを見ないふり

をして、私は頷いた。

 部屋に入ると、暗闇だった。

 私の事務所と同じ暗闇。

 暗闇には男。

「どうして、ここがわかった?」

ベットに腰掛ている男に言った。

「オレ達はプロだ。まあ、とにかく入れよ」

あの暗闇の男と同じような声で、言った。

それが合図だったかのように、一歩部屋を踏

み入れると、後でドアが閉まった。

「客を連れてくるなら、一言言っておいて欲

しいな」

「口が減らないヤツだな。お前は」

私の後に立ち、後頭部に拳銃を突きつけてい

る男が答えた。

「この間、私が殺した君たちの仲間より品質

が下がってるな、失業率がいっこうに低くな

らないのは、経済のせいではなくて、働く人

の標準が低くなったからかも知れないな」

「……ハニー、名前は?」

私の言ったことには何も言わず、言った。

 どこかで聞き覚えのある声だった。

 どこだろう?

「今度は君たちのお仲間に会わせてくれるん

だろう? 彼女は関係ない。招待されたのは

私だけだ」

「残念ながら、そうも行かない。レイン。こ

のパーティは同伴者がいるんでね」

蛇が話を始めたら、こんな話し方をしそうな

声色でベットに腰掛けている男が言った。

「では、そろそろ行かないと。パーティに遅

れる」

それを合図に後頭部に直径七センチはありそ

うなひょうが落ちたような衝撃を感じた。

 暗闇。

 目を覚ますと、私は美容室にありそうな椅

子に後手で縛られ、座らされていた。

 エリンの姿は見えなかった。

 ぼんやりとした視界には黒ずくめの男が二

人。あの暗闇の男と、もう一人、見たことの

ない男、背は低く、イノシシの様な体躯。ア

ジアとなにかが混ざっているような顔立ち、

日焼けした額に大きな血管の筋が見えた。

「お前のじいさんも同じ所にいたんだ」

男の声は先ほど私を失神させた声とは違った。

「祖父に何をした?」

「それは、知らないくてもいい事です」

暗闇の男が、瞳に怪しげな光を宿らせ言った。

「コカイン。毒。そして、祖父の自殺」

「……手遅れのようですね」

「毒、か。祖父はそのために死んだんだな?

お前達のくだらないテロのために祖父は死ん

だんだな? お前達は祖父を拉致し、祖父に

毒入りのコカインを打った」

 感染する毒。ウィルス。

「そして、お前もそうなるんだ。死して他の

人間を守るか、それとも生きて道連れにする

か。究極の選択だと思わないか?」

「なぜ、計画を途中でやめた?」

祖父の死も、ミラの死も彼らにとって予定通

りなはずなのに、彼女の遺体も戻っていない。

「お前を始末してからでも遅くはないと思っ

ただけだ。この計画は完璧でなくてはならな

い。計画を知っている人間には生きておかれ

て、困ることはあっても、いいことなどない

からな、それにおいそれとウィルスのサンプ

ルを与えるわけにもいかないんだ。あの二人

は早すぎたんだ、死ぬのが」

聞き覚えのある声。ジョンの声だった。

「休暇を取っていると聞いたが」

「長い休暇さ。これから警察は感染した山の

ような死体のせいで忙しくなるからな」

「何のために、こんな事を?」

「お前も外国人ならわかるだろう? この国

がアジア人を、いや白人以外の人種をいかに

無視してきたか。私は愚かなこの白人の国を

リセットしたいのさ」

「そんな事のために人を殺すのか」

「この国もそうしてきた。この国が正しいと

信じ込んでいることを、押しつけてきた。韓

国も、ベトナムも、パナマも、どこでもだ。

この国がしていることを、私たちはこの国に

仕返ししているだけだ。間違っているのは私

たちか、それともこの国か? 罰せられるべ

きなのは、私たちか、それともこの国か?」

「そんな事のために人を殺すのかと訊いてい

るんだ」

「そうだ。お前にはわからんのだろうな」

「わからないね。わかりたくもない」

「……わからなくても結構だ。我々はちょう

ど君のような知識のない人間から消えてもら

おうと思っている。あの薄汚い老売春婦のよ

うな、な」

「お前達には護らなければいけない人はいる

か?」

私は背中で聞こえてきた、六十は過ぎたくら

いの男の声に訊いた。

「お前達には護るべき家族はいるか? 命に

代えても護りたいと思える人はいるか? そ

の人達の小さな幸せを奪い取る権利など、誰

にもないはずだ! 確かにお前達の信条は間

違っていないのかも知れない。愚かな人間は

本当の痛みを感じなければ、自分が愚かだと

いうことに気がつかないのかも知れない。だ

としても、誰にも、例え神にですら、そんな

人間が毎日家に持って帰る小さな小さな幸せ

を奪い取る権利はない。自分を一番愛してく

れる人が死んでいく痛みをお前達は知らない

というのか? だとしたら、お前達だって、

この愚かな国と、愚かな人と変わらない 私

を殺したければ、殺せばいい」

「望み通りに。貴様に言われなくともね」

私には恐怖もなく、悲しみもなく、あるのは、

ただ憤りと、死。

 祖父のように死のう。

 そう思った。

「安心していい。貴様の連れも一緒に殺して

やろう」

エリンにあの世でなんと詫びればいいだろ

う?

ミラにあの世でなんと詫びればいいだろう?

祖父にあの世でなんと詫びればいいだろう?

 わからなかった。

「……女を連れてきなさい」

私の背後の老人が言い、ジョンが部屋を離れ

た。

「レイン」

五分の静寂の後、エリンの弱々しい声がした。

「……すまない。君をこんな目にあわせてし

まって」

ジョンに連れられ、私の隣にならんで、私と

同じように椅子に縛られたエリンの瞳を見て

言った。

「薬に、ウィルスを混入したのだそうだ」

なぜと尋ねるエリンの瞳に答えた。

「お前達二人に、そのドラッグの味を試して

貰う」

背中が異常に曲がった、小さな白髪の老人が

高らかに宣言した。六十を少し過ぎたくらい

の声の老人はそれに三十を足してもまだ足り

なそうに見えた。

「エリン。私は祖父のように静かに逝こうと

思っている。君がどうしようと君の自由だ。

君が私と同じようにしようと、そうでなかろ

うと、たくさんの人が死ぬことになるだろう」

「レイン。人が造ったものなら、きっと人は

壊せる。……どのくらい生きていられるかわ

からないけれど、できるだけ生きるほうがき

っと正しい。静かに死ぬだなんて、あなたら

しくない」

「……しかし」

「しかしは、いらない。今のわたし達に必要

なのはそしてだけ」

「感動の場面を邪魔して悪いが、我々のウィ

ルスは治療できない。それと、生きていられ

るのはせいぜい数日だろう。ウィルスが体内

に入って二十四時間以内には、体をむしばみ

はじめ、外へと向かう」

言葉はすべて数式の証明の解説のように聞こ

えた。

 二十四時間でなにができるというのだろうか?

 わからなかった。

 ただ、エリンの言ったことがは正しいよう

に思えた。

 しかしは、いらない。

 たとえ、たった一秒の人生でも長く生きて、

たったの0.01%の可能性でも、戦わなく

てはいけないのだ。

 あとはまかせたぞ、と言う祖父の声が聞こ

えてきた気がした。

 私に任せたのだ。祖父は、そう伝えたかっ

たのだ。最後まで戦えと。きっと。

「エリン。遅くなったが、愛してる」

初めて彼女と会った時に、言おうと思った言

葉だった。なぜかは、わからなかったが。

「わたしもよ。レイン。愛してる。生きまし

ょう。一緒に。二十四時間を誰よりも大切に」

「ああ。 ……『ベネチアン』には誰が送り届

けてくれる?」

私は目の前で身じろぎもしない老人に問いか

けた。

「オレが送ってやるよ」

老人が部屋に入ってきてから、直立不動だっ

たジョンが言った。

「残念だ、君たちに生きてこの世の地獄を見

せてやることができなくて」

世界が一瞬でコマ送りになった。

 エリンが流す涙。

 二人の男に押さえつけられるエリン。

 何もかもがコマ送りになった。

 私達は死ぬのではなく、戦うのだ。私達は

死ぬのではなく。

 耳元でなにかが爆発するような音がした。

 はじめ、血管に血が巡る音かと思った。

 そして、スローモーションは突然に三倍速

になった。

 爆発。

 爆風は私をドアの外まで吹き飛ばした。真

っ白になった頭は唯一、手が自由になった信

号を受け取った。

 爆風。

 エリン。

 私は間一髪壁に叩きつけられそうになった、

彼女と壁の隙間に入り込めた。

 骨のきしむ音がした。

 それでも立ち上がり、ドアを見た。

 ブラウンが立っていた。

「ブラウン」

「レイン」

「やはり、私にはできなかった」

「あなたが、これを?」

「……そうだ。レイン。私は彼らを裏切った」

「なぜ?」

「……私にも私を愛してくれた人がいたから

だ。私にも、私を愛してくれた家族がいたか

らだ。私にも愛する人がいたからだ。ほんの

わずかな間だったが、私の人生で、一番暖か

い時だった。それを思い出したんだ」

ホワイトは二歳年下の妻と、男の子二人、女

の子一人の三人の子供がいた。

 私が、CIAを去ったあと、彼を残し、全

員が殺された事を新聞で読んだのを思い出し

た。

 若い白人の男が薬をやって、車を運転した

結果だった。

「……祖父を、探してくる。エリンを頼める

か?」

「君のお祖父さんの遺体は、外へ運んでおい

た。白いバンに二人の遺体がある。この計画

はこの街だけじゃない。ここは始まりの一つ

なんだ。二人の遺体を、相応の施設で検分す

れば、必ずワクチンは創れるはずだ」

「あなたは?」

「ここで、お別れだ」

「なぜ?」

「逢いたくなったのさ。家族に」

「本気か?」

「ああ。それに全部、燃やしていかないとい

けない」

「……わかった。さよなら。ブラウン」

「さようなら。レイン」

私はエリンを抱え直し、走りだした。

 ねずみ色の煙の中、風の通り道をなぞり、

何とか外へ出た。

 どこだかはわからなかったが、大きな倉庫

街だった。

 すぐ目の前に、白のバンを見つけそれに乗

り込んだ。

 バンは運転席と助手席の後は分厚いサラン

ラップのような幾重もの層になっているビニ

ールがかかっていた。私は二つの黒いバック

があるのをかろうじて確認した。

 私はエリンを助手席に座らせ、エンジンを

かけ、タバコに火を点け、車を走らせた。

 倉庫街は、『ラスベガス』とその南東にあ

る『サーチライト』という小さな街とのちょ

うど間、見渡す限りの砂漠を横切るの狭いフ

リーウェイからはずれた所にあった。

 私は混乱したままの頭を整理しながら、す

ぐ近くの街『ボルダーシティ』まで、急いだ。

 『ボルダーシティ』で公衆電話を見つけた

私は、すぐにマリアに連絡をした。

「私だ。『ボルダーシティ』にいる。祖父を

見つけた」

「すぐに、いくわ。動かないで」

力強い声で言った。

 受話器を降ろし、ありったけのコインを電

話に入れ、私はCIAに電話をかけた。

「ブラウン・ホワイトからの伝言だ。計画は

中断。ウィルスのサンプルは私、レインが持

っている。私のことは監視しているヤツに訊

け。『ネバダ』の『ボルダーシティ』にいる。

白のバンだ。すぐに人をよこすように言うん

だ。すぐにだ」

受話器を降ろした私は、そのまま電話に寄り

かかり、目を閉じた。

 目を醒ますと、エリンの顔がすぐ近くにあ

った。

「レイン。レイン!」

「エリン。よかった、無事だったか?」

「ええ。ええ」

「マリアは? CIAは?」

「どちらも来てます」

ゆっくりと立ち上がると、マリアとスワット

のような連中、そして黄色の宇宙服のような

防御服をきた連中が見えた。

 バンから車内にあったようなピニールがヘ

リにつながっていて、ちょうど二つの黒い袋

がヘリに運び込まれているところだった。

「レイン。ありがとう」

マリアが素早く私に近づき、私を抱きしめ、

言った。

「リュウイチロウ・アメミヤだね?」

濃い灰色のスーツを纏った、背の高い白人の

男が近づいてきて、そう言った。

「そうだ」

「CIAのウィリアム・フロイドだ」

「ミスター・フロイド。一つだけ言っておく。

何が何でも、ワクチンを作れ、いいな」

「わかっている。それについては問題ないは

ずだ。君の事は聞いている。優秀だったそう

だな。どうかな、これを機に戻る気は?」

「ない」

「そうか。……とにかく、ありがとう」

「CIAのためにやったんじゃない」

「わかっている」

そう言って、彼はヘリに向かって歩き始めた。

「さあ、帰りましょう? 何かおいしいもの

でも、食べに行きましょう」

マリアは柔らかなほほえみを浮かべて言った。

「ああ。そうだね。マリア」

「そう、リュウ。こちらは?」

「ああ。エリン。知り合いの娘さんなんだ」

「エリンです。レインのお祖母さんですか?」

「そうだ。私の祖母、マリアだよ」

「もしよかったら、エリンも、一緒にどうぞ」

「ありがとう」

「いいえ、食事はたくさんでしたほうがおい

しいものね」

「行こう」

言って、マリアの運転してきた焦げ茶のボル

ボに乗り込んだ。

 そして、また目を閉じた。

 目を醒ますとエリンの顔がすぐ側にあった。

「起きたら、マリアに連絡するようにと」

「エリン。ありがとう」

「……いいえ、ありがとう。レイン」

「リュウと呼んでくれ」

「リュウイチロウ」

彼女はまるで何度も練習したみたいに、私の

名前をよんだ。

「リュウでいい」

「いいえ、リュウイチロウと呼ぶわ。それが、

あなたの名前なんだから」

「ありがとう」

「いいえ」

「ありがとう」

「ありがとう」

「きみをずっと護っていきたいと思ってる」

「ええ。きっと自慢できる。CIAの誘いを

断った男に護ってもらえるのって」

エリンは今までで一番の笑顔を浮かべてそう

言った。

「行こうか」

「もう平気なの?」

「病院は明日もやってる。マリアの手料理は

明日は休みかもしれない。彼女は忙しいから」

「楽しみ」

「ああ。私も」

「エリン。きみに逢えてよかった」

「私もそう思うわ」

「こうして、生きていられるから、こうして、

愛してられるから」

そして、私はエリンと口づけを交わした。


   了


 この物語はフィクションであり、文中に登

場する人物、地名、会社名、団体名等、実在

するものとまったく関係ありません。

 なお、風景や建造物など、現地の状況と多

少異なっている点があることをご了承くださ

い。(著者)


 あとがき


 初の試みとなった書き下ろし小説。一五〇

枚という枚数にも関わらず、前作『光の在る

場所へ』を書き終えてから、五ヶ月ほどかか

ってしまいました。

 やっと僕が何年も過ごした場所の物語を書

けたというのが正直な感想です。

 自分の年齢より上の登場人物を描くのにと

ても苦労しました。自分がレインと同じ年齢

になった時、この物語がどんな風に映るのか

楽しみでも、怖くもあります。

 とてもわかりづらいと思うので、書きます

が、この物語は家族をテーマに、ありがとう

をキーワードに書いたつもりです。

 文頭にも書きましたが、この物語は、天国

にいる祖父に捧げます。


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