第一章 第九幕
ボクのママは元勇者
勇者マリエル。
もう、今は遠い過去のように思う。
いや、実際それはもう、過去なのだろう。
シモノフ雑貨店。
それが今の、彼女の居場所だった。
「はむ、むぐ……んぐ」
「ただいま、マリエル。って……」
「んぐううう~!」
突然のことに、マリエルは慌てた。
喉に詰まったものを飲み込み、けほけほとする。
夫、クロード・シモノフは、やや呆れ気味であった。
「マリエル」
「な、なにかしら!?」
妻はさっと背後にそれを隠し、素知らぬ顔をする。
バレバレである。
さっきまで幸せそうに頬張っていたものがなんであるか。
チョコレートの匂いがした。
「口元についてるんだが」
「え、うそ!?」
雑貨屋、商うものは多い、飴やクッキー、チョコレートのような菓子から、狩猟に使う硝薬、革細工の工芸品に至るまで。
そんな、辺境の田舎に幾らでもあるような店が、このシモノフ雑貨店である。
妻がたまにつまみ食いしているのも夫は知っていたが、ここまで呆けきった調子で貪っているのも珍しかった。
平日の昼間では客もそう多くあるまい。
かつては、彼女の昔日の栄光を聞き、騎士や戦士、魔道士などが、逸話や武勇を聞きに、あるいは、弟子入りを懇願に来たりもしたが、最近はめっきりない。
マリエルはもう武器に触ることもほとんどない。
極稀に、教会騎士団本部に趣き、若い騎士の修練に付き合う程度である。
今の彼女のするべきことは、家にいることだ。
夫のクロードが、農作業から帰って来たとき、息子のイーライが、学校から帰ってきたとき、出迎えるのが仕事だ。
だが、あまりつまみ食いするのも感心しない。
「君は相変わらずだな。そんなだから、あちこち成長が止まらないんじゃないか?」
「~っ!」
ぼっ、と、音が聞こえそうになるほど、赤く染まった。
マリエルは、エプロン姿の身をくねらせる。
「な、なによ! 私が太ったっていうの! そ、それは……たしかに昔よりお肉はついたかもしれないけど……でも全然崩れてない自信あるんだからね!? え、ないよね、崩れてないよね!?」
「どうかなあ」
と、意地悪そうに夫は言った。
いつ見ても、見飽きることのない妻の姿を見つめて。
昔、彼女が、魔王討伐の旅に出る前、教会騎士団の、訓練生であった頃、マリエルは折を見て、この故郷の里に戻ってきていた。
当時から、スタイルの良さは凄まじいの一語に尽きた。
胸も、尻も、男の理想の結晶のようだった。
長身と、鍛えた芯の絶妙のバランスが、美しさに拍車をかけて。
煌めく淡桃色の髪、白磁の肌、天上の美貌。
まさに貴人である。
だが、結婚して幾年、マリエルの美は別次元に達していた。
熟している。
実を結んだ果実が、さらに果肉を増し、果汁を滴らせるにも似て。
凄艶、であった。
夫の愛を無限に注がれ、女として熟れきる色香。
胸も、尻も、さらには、脚も、以前にも増して肉厚である。
余人は年かさの女を年増と呼ぶが、天の神と仙桃の精が加護を与えたこの麗人には、関係のないことだろう。
夫の前でだけ見せる、どこか幼気な様子が合わさると、なんとも……
(かわいいなあ)
彼は存分に、己の妻を愛した。
幼い頃の誓いを守り、彼女が戻るまで、色恋を避け、待ち続けた末の結婚だ。
恋しさもひとしおだった。
世界では、彼女は勇者、聖なる戦士、救世の英雄と謳われ、讃えられている。
だが、誰も彼女の真の姿を知らない、剥き出しの心を知らない。
マリエルは、ただの女だ。
純朴で純真で、優しく、少しおっちょこちょいで、寂しがり屋の。
クロードはそれを知り、深く、深く、愛していた。
「マリエル、口元まだついてるんじゃないかな」
「え! ほんと」
眼鏡姿の人妻は、慌てて拭おうとするが、そうすると、セーターの袖が汚れるのを思い出して止まる。
戦う時は、いつも眼鏡は外していたらしい、魔力で矯正できるからだ。
日常で裸眼でない彼女を見つめるのも、家族の特権か。
クロードはマリエルに近づく。
見上げた。
彼女は、自分の長身を気にしていたが、彼はそんなこと少しも気にしなかった。
「ほら、ここだ」
「ん!」
驚く妻を、抱きすくめ、口元を唇と舌で愛撫した。
一瞬驚いた彼女だが、すぐにふっと力を抜いて、されるがままになる。
離れると、寂しそうに「あっ」と漏らした、なんと可憐で愛おしい。
眼鏡越しに、濡れた黄金の眼差しが見下ろす。
「もう……あなたったら。まだはやいわ」
「君があんまり可愛いもんだからね。でも、そろそろいいんじゃないかな」
「なにが?」
「イーライに兄弟ができても」
「~っ!」
ぼそりと告げると、マリエルはついに、爆発しそうに赤くなる。
しかし反応からして、まんざらでもなさそうだ。
イーライも一〇歳だ、一人っ子ではなにかと寂しいであろう。
内気な子でもあるし。
夫婦がいちゃついていると、まるで話題に誘われたように、からんとカウベルが鳴り、息子が店の戸から帰宅した。
「ただいま、ママ。あ、パパも帰ってたんだ」
「お、おお、お帰りなさいイーライ! 早かったわね!」
「うん。どうしたのママ、真っ赤だよ?」
「なんでもないわ! さ、店じまいしてご飯の支度しましょうか」
慌てて駆け出すマリエル。
くつくつと微笑するクロード。
きょとんと首を傾げるイーライ。
シモノフ家の一家、三人、平和な日常だった。
その日、マリエルは家にいなかった。
近郊の教会騎士団の駐屯地に赴いていた。
もはや戦士として実戦の場に立つことを拒んで久しいマリエルだが、彼女は武芸の尽くを極めた最強の勇者である。
退魔の技を納めんとするものには、名も武勇も輝きが過ぎた。
騎士団より請われ、なにより、死地を共にくぐり抜けた、聖騎士レイモンド・ウィンチェスターたっての頼みとあっては、断りきれない。
たまに時間のある日は、騎士団の修練所に行き、若い騎士たちに、剣や魔法を指導していた。
木剣を、あるいは、真剣を用い、乱取りから型稽古、魔道式の強化術に明け暮れる若い騎士へ、そこはこうだ、いや、こうすべきだ、と、珍しく厳しい目で指示するマリエル。
実際に剣を手に取り、振るわば、その細緻にして俊敏の業に、未熟な兵は目を見開き、驚きや憧憬を見せた。
屈強な体躯の腕自慢のひとりを、容易く乱取りの中で、いなし、組手術で宙を舞わせる姿など、芸術的でさえある。
月日を経ても、彼女の戦技には微塵の錆付きはない。
だが、心のほうは、どうであったか。
稽古の最中だった。
司祭がひとり、おっとり刀で修練所に駆け込んできた。
息を切らせたその男は、叫ぶように言った。
マリエルの住まいの里が、襲われたと。
馬を駆る時間さえ惜しんだ。
移動手段は、飛翔であった。
空間跳躍の魔法も、座標が確実で、地を走る龍脈の位置関係が適切ならば不可能でないが、なんらかの『阻害』因子があるのか、できなかった。
最速の移動手段は、背中に魔力翼を形成して、飛ぶことだった。
マリエルは報せを聞いて、事情を察した瞬間、まさしく飛び出して、自分の里へ、家へ向かった。
叢雲のように湧き上がる不安がただの予感でないと知ったのは、遠景に臨んだ村の姿が、黒い煙を立ち上らせる様子を目にした瞬間だ。
燃えていた。
いや、燃えていた、か。
家が、木が、ひとが、様々なものが燃え、炭と化していた。
「クロード、イーライ!」
叫びながら向かった。
マリエルの家も、半ば炭化した有様で、彼女を出迎えた。
ドアを蹴破り、泣きながら必死にふたりを探したが、遺骸の姿さえなかった。
マリエルはほとんど半狂乱の有様になり、我が家を虱潰しに調べ尽した後、近隣も捜索した。
当然、魔法を収めた彼女は、探査術を走らせるが、それも上手く作用しない。
極めて高位の阻害術の痕跡があった。
そうして一時間以上を費やしたとき、ようやく遅れて、教会騎士たちが訪れた。
彼らが目にしたこともないほど、泣き腫らし、夫と子供の名を呼びながら闇雲に探索を続けるのを、なだめ、彼らも隊を編成して捜索を行った。
努力をあざ笑うかのように、探せど探せど、ふたりの姿は見当たらなかった。
捜索を続ける傍らで、最初の、襲撃の情報をある程度整理した。
マリエルの村には、密かに、彼女を護衛するべく騎士が潜んでいた。
人界の英雄たるマリエルに恨みを抱く魔縁に、なんらかの報復をされるのを防ぐためだった。
護衛騎士隊は、表向きには村の住人として商いをしながら、勇者一家を陰ながら見守っていた。
華々しい昇進や栄光を捨て、里に骨を埋める覚悟の、誇り高い、そして、屈強な騎士たちであった。
その全員が死んでいるのを確認されている。
襲撃の報を出したのは、隣村の教会僧であった。
ひとびとの泣き叫ぶ声、破壊の魔法術が巻き起こす火炎、爆裂の気配を感じ、探りに出て。
僧は帰って来なかった。
訝しんだ尼僧たちが遅れて向かい、ようやく陰惨な殺戮の事件を知ったのである。
いったい、なにものがこんな仕業を成すか。
なにもかもが闇と影に包まれるような心地だった。
マリエルは一晩中探し続け、疲弊し、それでもなお探すのを止めない。
なにが起こっているかもわからないという不安は、凄まじいものだった。
二日ほど後である、ようやく、事態に変化が訪れた。
隣村に急造された捜索隊臨時本部に、一枚の封書が届いた。
マリエル宛だ。
ご丁寧に、親愛なる勇者様へ、としたためて。
夫と子供に会いたければ、以下の場所に来るべし、と。
マリエルは向かった。
どんな罠や敵が待ち受けていようと行っただろう。
もはや纏うこともないと思っていた魔道戦服に袖を通し、腰に神より賜った二剣、宮毘羅と破沙羅を下げて。
もちろん、彼女を案ずる騎士たちも付き添った。
ブラック司祭も、これに同行している。
あまりに急のことで、かつての旅の仲間の生き残り、リュウとレイモンドを欠くのが不安であったが、それでもマリエルは地上最強存在といえる女性である、戦力として、魔王以上の敵でなければ、撃破は不可能でない。
行き着いた先は、さほど大きくもない、湖であった。
「マリエル様……」
不安になったのか、ブラックが呟く。
マリエルの顔は、毅然と、内心の怯えを隠していた。
さあ、来い。
我らは来たぞ。
敵の待ち伏せを覚悟し、彼女の黄金の瞳は、家族を救うべく祈りと、戦意に燃えていた。
『ハハハ! よくぞおいでになった、勇者殿。お久しぶりと言うべきかな』
声が、響き渡った。
湖の中より、である。
突如、閃光が場を満たした。
湖面が光を生み、そこに巨大な像を結んでいた。
遠隔地よりの、映像投影魔法であろう。
並ぶ牙、大きな口、角、長い首、燃えるような目。
異形。
龍と呼ばれる、魔物の、あるいは、神の姿であった。
それは、頭だけであり、首から下の胴と手足は、人間のシルエットにも似ている。
マリエルは、その異形と出会ったことがあった。
いや、それのみならず、戦い、その末に、殺した。
殺したはずの相手だった。
「シャルプス……生きていたの」
『覚えていてくれたかね。これは嬉しい。もう一〇年以上前だ、忘れたかと思っていたよ』
魔王軍十二神将、魔王に仕えし最強の三騎と数えられた、二つの龍の首を持ち、呪殺魔殺シャルプス。
それこそ、今まさに、マリエルの目の前で、湖面に映像を投影し、語るもの。
背筋が、凍るような想いだった。
そのマリエルの不安と恐怖を噛みしめるように、龍が笑う。
口元を釣り上げ、鋭い牙を見せながら。
『私には、秘密があってね。甲羅、今はもうないが、あの中に、三つ目の首があったんだよ、そう、この首だ。もしもの時に生きながらえるためにね。お前に体を吹き飛ばされたときは、流石に死ぬかと思ったが。運良く仮死状態に入っていたおかげで、こうして生き永らえることができたわけだ。お粗末な探査に感謝せねばならないな』
「夫は、どこ……息子は……」
喜々として口上を述べ立てる龍に、マリエルは、震える声音で問うた。
震えを抑えようと必死にしているが、無理だ、できない。
おぞましい予感がする。
隠れて探査魔法術を全魔力を費やして走らせているが、半径一〇〇メートル以内に痕跡がない、もっと広げる、ない。
魔力の強大さでならともかく、術の精巧さでは、シャルプスのほうが上だった。
数千年を魔界に生きた古代種の魔族の術、そんなものに勝てるのは、あの大導師ダネルくらいしかいなかった、そのダネルも、もうこの世のひとではない。
『ああ、そうだな。お前を呼んだのも、そのためだ。もちろん生きているさ。ほら』
シャルプスは、すっと体をどかせる。
声が響いた。
マリエル、ママ、ふたりはそう叫んだ。
縛り上げられた父と子の姿。
「ふたりを離して! 欲しいのは私の命でしょ! なら早く殺しに来なさい!」
マリエルはもはや、耐えられぬといった有様で、声を荒げた。
笑い声が響く。
邪悪な、おぞましい、不快な声、魔族の声だ。
『善い、善いなあ、実に。魔王様さえ屠ったお前が、その慌てぶり。こんな手を使ってみるのも、悪くないのだな、うむ』
シャルプスの異形が、のそりと動く。
龍の首を持つ魔族は、まず、夫のほうに近づいた。
手を上げる。
長い、鋭い、刃物のような爪が伸びた。
『お前を殺したい、我ら魔族の悲願を妨げ、また、仕えし主の魔王様をも葬ったお前が憎い。だが、お前は強すぎる、たかが人間と侮った我らが愚かであった』
手が振るわれた。
赤。
鮮血。
悲鳴。
夫の声と、妻の声。
『武器を投じて身を差し出す? 縛り上げて捕まえる? なんなら肉奴隷にでもするか。うむ、悪くない。だが神性を帯びお前のことだ、いつ寝首をかかれるかわからんし、殺したつもりが逆転されないとも限らない。そこで、私は、こうすることにした』
ぼとぼとと、落ちる。
夫、クロード・シモノフの、農作業をこなしてきた指が数本。
そこにさらに追加で肌と肉が落ちる。
『物理的に強靭すぎるお前は、まず先に、こちらを壊す。そう、心だ。その中身を砕かせてもらおう』
歌うように軽い口ぶりだった。
マリエルが叫んだ、止めて、だっただろうか。
あまりに凄まじい、血を吐くような声のため、判然としなかった。
龍が笑いながら爪を振る。
夫の下腿が音を立てて千切れた。
さらに、今度は、息子のほうに近づいた。
マリエルの声がいよいよ、絶叫を超越したものになる。
手も足も出ない状態で、愛するものが嬲られるさまは……地獄だった。
「やめて、やめて……お願い、お願いだから……それ以上……お願い……なんでもする、犬にでもなります……だから、だからっ」
膝を突き、もはや叫ぶ気力さえ失せたマリエルが、あの、地上を救った大英雄、勇者マリエルが、啜り泣きながら、繰り返し、繰り返し、懇願する。
湖が映す映像は、もう全て真っ赤に染まりきっていた。
父と子の形は、もう人間のそれでなかった。
呻きの合間に、また、強烈な痛みを、爪、牙、あるいは、おぞましい道具で与えられると、魂を千切るような絶叫があがり、マリエルの心を苛む。
血と肉を飲みながら、龍はにたりと笑う。
『ほう、そうか、そうか。なんでもする、か。いい言葉だ。では、それに免じて、ひとつ情けをくれてやろうか』
マリエルが、顔を上げた。
今ならまだ、助かるかもしれない、救えるかもしれない。
自分が代われるならそうする、自分が千切られるならそれでいい、死ぬほどの拷問を受けたって構わない、命も誇りもなにもかも差し出していい。
夫と子供は、彼女の全てだった。
そのためならなんでもした。
邪悪の龍は、それを見越した上で、告げた。
悪魔の言葉を。
『そこにいる人間どもを全員殺せ』
と。
マリエルの顔が、蒼白となった。
共についていた騎士隊の顔も、だ。
視線が、落ちる。
マリエルが、無残に過ぎる光景に、へたりこみ、足元に落とした、剣。
天の神が、悪鬼を払うために拵えた、二振りの刃。
「あ、あ……ああ」
震える手が、剣の柄に、触れようとした。
騎士たちの顔が、凍りつく。
かつて、魔界の王を打ち倒し、世界を救った剣。
使い手の勇者。
それがひとを殺すなど。
夫と子供、救った世界と人々。
天秤に懸けるには、あまりに重すぎる。
彼女の中で、無限のような葛藤が巻き起こる。
「あ、ああ……ああ……ああ」
意味のない呻きが、嗚咽が漏れ、マリエルは泣きじゃくった顔を歪める。
そして、対に、その手は剣の柄を握りしめ――
手は、持ち上げることができなかった。
誰かを犠牲に誰かを救う。
生かすために殺す。
清きに過ぎるマリエルの心は、殺人という最大の禁忌を超えられなかった。
笑い声がした。
邪悪な、泥沼の煮えるような、龍の声。
『可哀想になあ、小僧。お前の母は、お前より見ず知らずの、赤の他人のほうが大事だそうだ』
長い爪が、白い、細い首にかかった。
マリエルが、今までで最も凄まじい悲鳴を上げた。
言葉にならない声だった。
『では、さようなら、だ』
最期に、蒼白になった唇が動き「ママ」そう呟いたように聞こえた。
肉と骨を諸共に断つ、不愉快な音色。
『そして、お前も』
夫もなにか、言おうとした、それは呟きにさえならない、吐息だった。
また、二度と聞きたくないような音を聞かされた。
マリエルはその光景を見た瞬間、気を失い、倒れた。
一日が明けた。
湖の映像は掻き消え、気絶したマリエルは、臨時捜査本部に連れて行かれた。
目を覚まし、最初、彼女は自分に起こった事態を、飲み込めなかった。
心が拒否していたのだろう。
それでも、やがて意識が醒めていくと、小刻みに震えながら、騎士たちに問う。
「ねえ、あれ、嘘よね……あんなの、作り物でしょ? ねえ」
そう、繰り返し、繰り返し呟くのだ。
答えられるものなどいなかった。
地獄はまだ、終わりではなかった。
その臨時本部に、包みが届いたのだ。
いつ、誰が運んだものか、分からなかった。
マリエルに、隠しておくべきだった。
しかし彼女はすぐ気づき、その、大きな包み箱を見下ろした。
震える手が、蓋を開けてしまった。
開けて、しまった。
ごろりとしたふたつの塊があった。
頭であった。
首であった。
あれだけ凄惨な拷問をしながら、顔だけは綺麗にしておいたことは、まさに邪智の極みである。
「――」
その瞬間、だったのだろう。
マリエルの心は、永遠に崩壊した。
悲しみさえない。
誰よりもなによりも大切にし、愛したものをが、奪われたのだ。
もしかしたら、自分が鬼になっていれば、救えたかもしれないということが、彼女を一層苛んだ。
マリエルはふたりの首を抱きかかえ、もはやなにも言わず、なにも言えず、呆然と、へたりこんだ。
誰が、そんな彼女に声をかけられる。
無言のまま、座ったまま、抱えたまま。
硬直し、放心してから、何時間過ぎたろう。
月が沈み、陽が登り、腐臭と蝿が漂い、蛆が蠢く。
マリエルの視線は、宙を彷徨い、なにも見てはいなかった。
まるで、見上げた果てのさらに遠く、空の上の宇宙の中に、虚空に、向けられているかのように。
何度か、騎士たちが、声をかけようとする。
だがその寸前で、喉から出ない。
彼女のへたりこんだ部屋は、死臭と、沈黙だけの世界だった。
それが、永劫続くかと思われた。
そんなことなど、ありえなかった。
炸裂/破壊/衝撃。
なにかが出現し、壁を、天井を崩落させながら、優に二メートルを超える巨躯と屹立していた。
マリエルの、すぐ目の前に、魔は姿を取る。
邪悪なる嗜虐に目を爛々と輝かせ、自分が心を壊した女の有様を、嬉しそうに見下ろしていた。
「魔族だ!」
「おのれ!」
付き添っていた騎士たちが剣を抜く。
あまりに遅い。
気づいたときには、彼らの首は刎ねられていた。
呪殺魔殺シャルプス、邪龍は高らかに笑う。
「いいざまだなあ、勇者。最初からこうしておればよかったかもしれん。立ち上がる気力もないか? 安心せい、すぐに夫と子のもとへ送ってやろう」
マリエルは、ふたりの仇を前に、痴呆のように、唖然と固まったままだ。
ゆるゆると顔を上げ、視線を向ける。
かつて宝玉よりなお、輝いていた黄金色の瞳も、濁りきり、まともに焦点を結んでいないようだ。
むしろ、このまま目の前のシャルプスに葬られ、ふたりの元へ逝くことこそ、彼女の幸福だったのかもしれない。
けれど――
けれど、そうは、ならなかった――
クスクスと笑い声が転がった。
絶世の美貌が、歪んだ笑みを浮かべた。
まるで、童女が面白い遊び道具を見つけたような笑みだった。
「死ねえ!」
雄叫びを上げ、本能的恐怖、この、目の前の女を殺さねばならない、突き上げる衝動のままにシャルプスが、鉤爪を振るう。
あらゆる魔界の魔導を極めた、邪龍の爪撃である、当然、放たれた鋭い手先の爪には、強力な物理保護と、障壁干渉術が施されていた。
閃光が跳ね上がる。
輝く黄金の魔力波動が生み出す障壁の硬さは、邪龍のそれを凌駕していた。
攻撃を放ったシャルプスが、逆に後ろへ飛んで叫んだ。
爪が剥がれ、指がひん曲がっている。
ゆらりと、幽鬼の如き影が立ち上がった。
マリエルだった。
彼女は宝物のように、そっと抱えていたふたりの生首を、床に置く。
「ちょっと、待っててね。今、仕返ししてあげるから、ね」
血まみれの手で、蛆のたかるふたりにキスをして、視線を、敵に向けた。
仇へ、憎むべき仇へ。
「貴様、貴様……おのれ……来るな、来るな! この……ぅおおお!」
ゾクゾクと、背筋を駆け巡る悪寒に、龍が叫ぶ。
声を荒らげる。
心を砕き、大切なものを奪い、立ち上がれなくして殺す。
彼の犯した過ちは、マリエルが放心したその瞬間を狙わなかったことだろうか。
ふたりの首をわざわざ送りおつけるという、悪夢めいた趣向が、災いだったか。
悲しみと喪失の度が過ぎたとき、その感情は、悲哀の域を超越する。
――憎しみだ。
果てしないほどの、壮絶なほどの、圧倒的憎悪。
血が逆流するほどの怒り。
そこには喜悦さえあった。
憎しみ抜いた仇が目の前にいて、我が手と我が剣の届くところに立っているというのが、泣くほど嬉しかった。
マリエルは泣いていた。
笑いながら泣いていた。
凄まじい声が響き渡った。
壊れた心が砕けながら、破壊の愉悦に沈む、声だった。
龍は悲鳴を上げ、復讐の宴が始まった。
彼女のそれは、殺害という範囲を逸した、拷問だった。
長い長い時間をかけ、夫と子が味わったのと同じ、いや……それ以上の苦痛を繰り返し与えながら丁寧に殺した。
最後に、ついに殺してしまったときなど、相手がもうこれ以上苦しまないことが悔しくて、なお屍を掘り返し、形が完全に失われるまで破壊に耽った。
陰惨な殺戮の後には、ふたつの生首と、立ちすくむ美しい復讐鬼と、死臭と、血と肉だけが残された。
葬儀は静かなものだった。
救世の英雄ということもあり、教会や各国要人などが、盛大な葬儀をとの提案をしたのだが、マリエルは断った。
しかし、それゆえに、本当に出席者の少ない式になった。
なにせ、故郷の村は焼かれ、親類縁者もほとんどいなくなったのである。
マリエルも、すでに母は他界しているし、父はどことも知れない。
夫、クロードの両親もいない。
かつて旅を共にした少ない騎士隊のものたちと、朋友、白煉寺の和尚リュウ、聖騎士であり大騎士団長となったレイモンドくらいが、参加した。
誰も、マリエルに気休めを言うことさえできなかった。
彼女は全てを奪われたのだ。
全てを――
葬儀を執り行ったのは、皮肉にも、マリエルの結婚式も行った、若き司祭、タロン・ブラックであった。
自分が門出を祝った夫婦のうち、ひとりを見送るなど、あまりに悲しく、辛いことだった。
葬儀のマリエルは、ただただ静寂のひとだった。
視線を下げ、誰とも言葉を交わさず、ふたりの首の入った棺桶を見つめ続ける。
やがてひととおり、式が済み、ひとり、またひとりと、参加者は去っていった。
レイモンド・ウィンチェスターは、終始無言だった。
冷たくも美しい顔は、能面の如く。
彼はわかっていたのだろうか、ひたすらに、辛く悲しみに暮れる相手に、下手な慰めなど意味がないと。
リュウ・チャーファイは、以前のあの明るさを振る舞うことはなかったが、代わりに、式で唯一、マリエルに真っ向から話しかけた。
「なにか、できることがあれば、言ってくれ。俺のできることなら、なんでもする」
マリエルは返事せず、黙ってうつむいたままだったが、彼はそれを不愉快に想うことも、責めることもなく、静かに祈りを捧げ、去っていった。
全てが終わった後、ふたりの墓の前に、マリエルだけが残された。
いや、彼女を見守る、司祭もまた、ひとり、ぽつねんと立ちすくんで。
「……」
腰をおろしたマリエルは、ずっと、視線をふたりの墓石に注いでいる。
まるで、凍りついた彫像のように。
悲しく、だが、美しかった。
喪服の黒き寡婦の持つ、その静寂と物悲しい風情よ。
時の終わりまで、並んで眠る夫と子の墓を、見守り続けるのでは、冗談とも正気ともつかぬ想いが、司祭の脳裏をよぎる。
されど――
されど、彼女は、立ち上がった。
虚無の瞳に、炎が揺らめく。
濁った双眸の奥底にあるのは、憎しみ。
決して消えない、消せない、魂の芯から湧き上がる怨憎の熱。
マリエルを、魔力の閃光が包んだ。
魔導の力で編み上げられた、魔戦服。
未亡人は、そっと手を上げ、眼鏡を、外した。
日常で魔法など使わず、視力も矯正する必要はなかった。
その日常はもうない。
これから赴くのは、戦いである、殺戮である、絶滅である。
根を絶やさねばならない。
神より与えられた二剣が、腰の鞘の内で、使い手の力に呼応して、小刻みに甲高い鍔鳴りを打ち、震える。
「ゆ、勇者様……どこへ、いかれるのです」
戦支度を成すマリエルに、どこか怯え、戸惑う様子で、司祭が訪ねた。
肩越しに、薄桃色の髪をなびかせながら、振り返った。
泥沼のような輝きの失せた、黄金の瞳が、黒い炎と共に、甘い声で答えた。
「ふふ……わからない? 決まってるじゃない……殺さなきゃ……あんなやつら。みんな殺さないと……ふふ……みんな……みぃんな、殺すの」
その日から、再びマリエルの戦いが始まった。
人間界には、魔王と共に、最大の門を閉ざした後も、まだ世界各地に、大小様々の、魔界との接点、地獄門が残されている。
そこから、無限に湧くように魔族は人間界に訪れる。
根絶は端から諦められていた。
なにせ、ひとの問題は、魔王が消えてもまだ無数にあるのだ。
魔王亡き後、まず立ち上がったのが、同じ人間同士の緊張だ。
天然地下資源、海洋資源、あるいは領土問題や、人種や宗教、交易など、ひとびとは魔王がいなくなっても、同じ人間と、笑顔で握手しながら、隠した手でナイフを握り合う。
そんな中で、魔物討伐に全力を傾けることは、できない。
もちろん、各国で教会騎士団は剣技魔導を磨き、人里の守護に励んでいるが。
ただの一騎、復讐の魔人のみは……それだけで済まさなかった。
彼女は天なる剣と獄の剣の二剣と、納めた魔導、神に賜った超絶の身体を駆使し、世界中で跋扈した。
あるとき、広き海原で、山のような海魔が、無数の子を引き連れ回遊していた。
天空より飛来した魔人が笑いながら、海をひっくり返した。
天海の全てを焼き尽くすような稲光、雷撃が幾度と降り注ぎ、神の剣が刃を振るう。
その戦い……いや、殺戮は、海原のみならず、近隣の島々と、港まで及んだ。
港町が三つ、崩れ、ひとの犠牲者こそ出なかったが、数百人の漁師が職を失い、街を去り、廃墟だけとなった。
あるとき、山に獣人やオークが根城を張った。
復讐の鬼神が見逃すはずなどなかった。
地獄の裁きをもたらす、燃え盛る剣が振るわれた。
丁寧に丁寧に皆殺しにした。
山を引剥がし、巣穴をほじくり、鉄をも瞬きする間に溶かし尽くす獄炎を流し、魂も凍てつく冷気を注いで崩し。
逃げ出したオークも獣人も、一匹残らず追いかけて斬る。
うっとりと、恐怖の悲鳴に聞き惚れ。
血の匂いに酔う。
刎ねた首をひとつずつ杭に刺して街道に飾ってやった、楽しくて楽しくて笑い転げた。
もっと殺したくて探す旅を続けた。
昨日も殺した。
今日も殺した。
明日も殺そう。
明後日も殺そう。
殺した。
殺した、殺した、殺した殺した殺した殺した。
殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す。
あの蛆虫どもは一匹も逃さない。
世界のなにより大事なものを奪った。
なら、あいつらも世界から消さないといけない、それが対価だ、応報だ。
報仇雪恨。
仇に報いを。
恨みを雪ごう。
第一章 第九幕 【復讐するは我に在り】




