第一章 第七幕
ボクのママは元勇者
火炎/電撃/投石/飛矢/突風/氷柱/呪波。
それは魔導形成できる様々な、あらゆる攻撃の乱舞であった。
普通、魔導、魔法という、生体が体内練氣した魔力を、術に編んで構築する技において、属性というものが、存在する。
火が得意な魔道士なら、冷気や水は逆にそこまで強くはない。
金属錬成が得意ならば、雷撃形成には疎い。
得手の対に不得手があり、なにかのメリットは必ず別のなにかのデメリットとなっている。
だが、今これらの攻撃を怒涛と放つものに、そのような常人に通用する枷はない。
完全なる自在である。
当然だ、『それ』は人間などではなかった。
甲羅に守護された堅牢な胴。
首は二つ、それも、頭部は龍。
呪殺魔殺の名で知られし、魔界軍十二神将が一騎、シャルプス。
一騎一騎が想像を絶する超技を極めし十二神将の中でも、魔王ショーシャの片腕とまで謳われた、黄金剣トーラスに次ぐ実力を持つとさえ言われる、三強の一角なのだ。
シャルプスはこの世に存在するあらゆる種類の魔導術、全てを扱える。
超高速、超高出力にて、だ。
つまり、相手のあらゆる弱点全てに対応が可能。
火を使う人間を水撃で粉砕し。
樹精の加護に守られる人間を稲妻で焼き殺す。
今もまた、二本の首、四つの目で見やる眼前の、憐れな人間の騎士隊どもに、魔界の洗礼を浴びせてやる。
二つの脳髄はフル回転で視界に捉えた全ての敵に、高位魔力波長識別で瞬時に把握した、相手の不得手の魔導術を、叩き込む。
まるで悪夢の具現である。
どんな魔導を収めようと、シャルプスの術の嵐を前には供物に過ぎぬ。
だが、やはり二騎だけは、残った。
「野郎……さすが魔界軍きっての猛者だな」
ひゅぅん、と杖――いや、棍を振るい、ひとりが言う。
彼は、剃り上げた坊主頭であった。
纏っているのは、東洋風の修行衣であった。
首には、じゃらりと、数珠が鳴る。
彼こそ、後の世に大僧正として立つ、退魔の名門、白煉寺の退魔僧リュウ・チャーファイ。
リュウの隣には、もうひとりの男が立つ。
「合わせろリュウ。もう一度やるぞ」
なんと凛々しく、気品と力を持つ声であったか。
姿もまた然り。
毅然として、そしてなにより、美しかった。
黄金の髪に白い肌、蒼き瞳。
がっしりとした五体の上には、類まれなる美貌が乗っている。
纏っているのは、翡翠であった。
敵の魔導術を掻き消し、鉄壁の巨城よりもなお堅牢なる硬質を誇る、魔導霊石の翡翠甲冑。
手には瀟洒なる意匠に飾られたる霊剣。
彼こそ騎士、騎士の中の騎士。
誰もが忠誠を誓い、跪く、王の騎士。
後に聖十字騎士団大騎士団長として君臨する、聖騎士レイモンド・ウィンチェスターであった。
「おうよ! まっかせときぃ!」
気高く高貴なる血筋と、聖騎士の肩書に彩られたレイモンドに、リュウは実に気さくに応じた。
今日まで死線を共にした仲間であるし、リュウという男の人柄、屈託の無さもある。
レイモンドも、この気持ちのいい明るい男の態度に、腹を立てることなどない。
むしろ、死地にあってなお平素の如き笑顔に、どこか自分も落ち着きを取り戻す。
「はぁ!」
気迫一声、レイモンドは手にした霊剣に魔力を込め、清浄破邪の術を乗せ、黄金の斬光を、放った。
余人ならば、彼がいつ剣を振り上げたかも認識できず、逆袈裟に跳ね上がった剣先だけしか見えなかったろう。
刃の描いた軌跡に合わせ、黄金の魔力斬光が、三日月状に宙を駆け抜ける。
霊剣とそれを繰る聖騎士の力があれば、間合いという概念も意味を成さない。
投じられた魔力斬光はしかし、シャルプスの手前、数メートルの距離で、突如爆砕して消滅した。
濛々と、衝撃に合わせて立ち上る白煙。
その煙に隠れ、風が舞う。
風は人型であった。
剃り上げた坊主頭であり、坊主であった。
「發っ!」
独楽の如く空中で回転し、リュウが腕を鞭の如く振るう、手の先には、棍棒。
いや、今は、棍棒などでなかった。
九つの節を持ち、鎖で繋がった、九節棍。
言わずもがな、棍には退魔の霊気が漲り、青白いオーラを放っている。
一瞬にして土煙を目眩ましに接近する体術もさることながら、この棍もまた、リュウの恐るべき武器である。
白煉寺に数百年の昔より伝わる宝具、如意棍槍。
霊気を流せば如何様にも様々な形態に変形し、これまで数え切れぬ魔物を葬り、人々を守ってきた聖なる武具。
狙うは、ひとつ。
先ほどレイモンドの投じた斬撃が当たったのと、寸毫と違わぬ、同じ場所。
当たった。
そして、閃光が弾けた。
攻撃を当てたリュウが、逆に吹き飛ばされる。
若き退魔僧はくるくると宙空で身を捻り、まさしく猿が如く器用に着地し、頭を掻く。
「どうだ」
レイモンドが問うた。
「とんでもねえ。ありったけの霊気を込めたんだが……ありゃ何層重ねてんだか」
リュウが困ったように、呟いた。
魔力障壁、であった。
別に、珍しくもない。
魔力、魔導を心得るのであれば、それで自身を守護する力場を形成するなど、常識だ。
しかし、あれほどの厚み、そして、重ねられた数を持つものを、ふたりも知らなかった。
戦いが始まって、既に一時間以上。
それだけ戦い続けて、未だにこの二騎の超常戦士ふたりをして勝機を得られぬ理由である。
どれだけ強い攻撃を当てても、対物理保護障壁が、堅固に守りを硬め、崩れない。
相性が悪かった。
破るには、シャルプスの魔力を圧倒するほどの魔力量で粉砕するか、波長を合わせた魔力波動で障壁を相殺するしかない。
どちらも、かなり無理がある。
リュウもレイモンドも、攻撃の手段はそれぞれ武器に純粋魔力を付加し、物理保護で粉砕する、いわゆる近接戦闘系の純然たるスタイルであった。
法術も使えぬわけでないが、シャルプスほどその技能に特化した相手では児戯以下である。
「三〇階層。それが私の鉄壁の防護障壁の重ねた厚みよ。どうだ、なかなかのものだろう」
ふたつの首のうちひとつで、シャルプスの龍頭で告げた。
続けて、反対側の首も語る。
「お前たちふたりの今の攻撃で五層ほど破壊された。これは人間との戦いでは新記録だ、誇りにしてよいぞ」
「うむ、今まで自信たっぷりに挑んだ人間でも一層抜けるかどうかであったからな」
「ちなみに、この会話の最中に、その五層も修復しているがね」
矛盾、という言葉が、古き東洋の地にある。
無敵の矛と盾があれば、両者の存在は互いに互いを否定してしまい、筋道が成り立たないという。
シャルプスにその言葉は意味を持たなかった。
「今まで私の障壁を完全に粉砕できたのは、魔王ショーシャ様おひとりよ」
「まあ、実際やりあったことはないが、黄金剣トーラスのやつならば、できるかもしれぬが」
さしもの聖騎士、武闘家のふたりも、圧倒的不利を前に、冷や汗を額に浮かべる。
人間の到達しえる最高の域にまで戦技を極めた両者でも、あまりに強敵に過ぎた。
「だってよ、どうするレイ」
縮めた愛称で、リュウが呼ぶ。
肩をすくめる仕草には、愛嬌があり、ここが死地であるのを忘れそうだ。
「その名で呼ぶな」
「へいへい」
軽口を叩き合いながら、ふたりは再び、それぞれの武器を構えた。
戦意はまるで衰えていなかった。
魔力が充溢し、淡い魔力光を灯して輝く。
その姿を前に、憫笑するでもなく、シャルプスは感嘆した。
「敵ながら、天晴なものよ」
「ふたつ、お前たちに提案があるが?」
「なんだい?」
リュウが問うた。
シャルプスの首のひとつが答える。
「ひとつ、我らが軍門に下ってみぬか?」
「なに?」
柳眉を逆立て、聖騎士レイモンド・ウィンチェスターの美貌に怒りが燃える。
「魔王ショーシャ様は寛大なお方だ。種族など瑣末事よ、ただ強くあればよい」
「私も昔は敵対したものだが、敗れてよりあの方に従い、こうして地位を得ている。どうだね、人の世の支配が成ったとき、お前たちにも相応の地位が約束されよう」
「あー、ちょい待って」
リュウである。
「なんだ」
「もうひとつは?」
「うむ」
瞬間、凍れるような鬼気が、放射された。
「もしひとつめの申し出を断るのであれば、せめて慈悲深く、苦痛なく殺してやろう。抵抗を止めるのを勧める」
と。
リュウはレイモンドを見た。
レイモンドもリュウを見た。
ふたりは微笑した。
「だとさ、どうするレイ?」
「笑止千万だ」
「だな。連中に頭下げるくらいなら、死んだほうがましだ。あー、今日が俺の命日かな。阿彌陀佛」
リュウは右手の棍を肩に預けたまま、開いた左手を顔の前に立て、合掌よろしく、瞑目する。
囀るのは東洋派仏門の祈りであった。
まさに窮地、ここに在り。
だがしかし、ふたりの落ち着き様はどうだ、まるで危機感がない、そこまで己の死を覚悟しているのか。
無論、それもある。
だが、それだけでない。
ふたりは、今引き離されているほうの仲間たちを、なによりも信頼しているのだ。
瞬間――閃光/炸裂――虚空にて散華する。
なにもない空間を引き裂き、夜闇に三個の影が躍り出た。
「な……バカな!」
魔物の龍型をしたふたつの首が同時に叫び、驚嘆に染まる。
今回、勇者撃滅の命を受け、もう一騎の十二神将が共に馳せ参じた。
空間を自在に操る魔次元の傀儡師、サベージ。
奴らはサベージの術中に嵌り、永劫抜け出せぬ魔次元迷宮に閉じ込められていたはずだ。
それが……それがなぜ。
よろよろと、杖を突き、老いた影が息を吐いた。
「やれやれ、流石に今回は死ぬかと思うたわい。老体に無理をさせおる」
「すいません、導師様」
白銀の髪を揺らす、大天使ウェブリーが、人間を様付けで呼ぶ。
斯様なものはただの一人。
白髪白髯、ローブに帽子、杖を突く痩せ枯れた老体はしかし、魔次元牢獄を突破可能とする唯一の人間種の魔道士。
大導師の名を持つ魔道士――
「ダネル、おのれ生きておったのか!」
「おお、シャルプス。久しぶりじゃのう。三百年ぶりくらいか」
かつて、魔界にて遭遇したこともある、ひとの到達し得る究極を超えしもの、魔界十二神将にすら匹敵する魔道術の使い手、魔道士ダネル。
一行を分断し、それぞれに撃破するという策は、ここに潰えた。
しかしシャルプスに撤退の一語はない。
むしろ、ここで彼らを己ひとりで全滅させたであれば、王より格別の褒賞を賜わろう。
意気軒昂と、十二神将三強の名を持つ戦鬼は、魔力を滾らせた。
「ふん、相手にとって不足なし。お前らが如き小虫、私ひとりで十分よ」
「我が無敵の矛と盾、凌ぎきれるか」
腰を落とし、見えざる魔力の波動が、ゆらめく炎の如き魔力光に転じ、シャルプスの異形を中心に放射される。
その前に、一個の影が、歩み出た。
一瞬、魔界の魔物のシャルプスでさえ、あまりの美しさに硬直する。
彼女の存在するその空間だけ、夜闇が輝いているようだった。
勇者である。
勇者マリエル。
マリエル・『ウル・ドラグノフ』がそこにいた。
白蝋の美貌に黄金の瞳が、強い戦意に燃え、両手にある神なりし御剣が静かに剣先を向ける。
右手には、白銀の刃。
左手には、真紅の刃。
「導師様、ウェブリー、リュウとレイモンド、他のみんなの手当を」
敵を前にしながら、天上の貴人は、そう呟いた。
眼前の敵よりもなお、仲間を案じる。
リュウとレイモンドの背後には、随伴した騎士隊の生き残りも、まだ地に横たわったまま、呻いていた。
それを鼻持ちならぬ自負と感じたか、一気にシャルプスは激昂した。
「死ねぇ!」
先手必勝、邪の二首龍は魔の攻撃を放つ。
さきほど無数の騎士たちを葬り、また、聖騎士と武闘家を苦しめた、あらゆる属性を含む、魔道術乱舞である。
幾重もの色彩と破壊力を秘めた輝きが、マリエルめがけて奔騰する。
勝った、そう、思っただろう。
幾百年、千年の月日を生きた魔物の、それが、最後の意味ある思考だった。
剛撃が迸る。
銀刃が縦に、紅刃が横に、奔り。
極大の魔力光が斬撃を刻んだ。
無敵の矛と盾が、粉々に粉砕される。
天地が裂けた。
威力の余波で、背後の森にも、頭上の暗雲にも、切れ目が生じていた。
「~っ!」
血飛沫を吹き、自分の首がひとつ千切れたことをかろうじて認識しながら、シャルプスは激痛に呻く。
なんということだ、なんという……
侮りがあったことは認めよう、だが、ここまでとは。
魔王に匹敵する力、神と精霊が授けた破邪の勇者を、彼はあまりに知らなかった。
「ふざけるな、おのれ……おのれええ!」
最後の怒りと憎しみを振り絞り、防御を捨てての特攻玉砕。
血肉も骨も髄も全てを燃やして、十二神将の意地を見せるシャルプス。
マリエルもそれに応じ、刃を振り上げて駆けた。
二騎は空中にて激突し、これまで以上の魔力光を燦然と輝かせ、爆音と衝撃を生み出した。
爆心地には、砕け散った甲羅と龍の首、そして、この世のどんな美女より麗しき、貴人の勇者の、毅然たる立ち姿が、凛々しく聳えていた。
今しがたの、超絶を極めし神域の力のぶつかり合い、それが嘘のように、ほのかに冷たい夜風に、薄桃色の長髪をなびかせて、勇者マリエルは、愛用の二剣を腰の鞘に、静かに収める。
「マリエル! あなたも、傷が」
傷ついた騎士たちに治癒魔法を施し、障壁まで並列展開させて、戦いを見守っていたウェブリーが、勝利を確かめ、駆け寄る。
だがマリエルは首を振った。
流石、魔界三強の一角、一命を賭してのシャルプスの突撃に、マリエルも手傷を負っている。
だが彼女はかすり傷程度に、音を上げなかった。
神仙の作りし霊薬、仙桃の精の命を受けているマリエルには、生れつき、強い癒やしの霊妙力があるのだ。
「いいの、気にしないで。それより、皆は?」
「え、ええ……リュウ和尚と、ウィンチェスター卿は無事」
でも、と、ウェブリーは声を曇らせる。
今回も、かなりの数の、随伴騎士たちが、屍を敵地に晒していた。
彼らも覚悟を決め、人類救世のためにマリエルたちに付き従ってくれているのだろうが、それでも、人間ひとりの命とは、受け止めるにはあまりに重い。
「私も治療に当たります。導師様は、周囲の索敵と探査を」
「もう終わっちょるよ。わしも手伝おう」
名にし負う大導師は、若輩にして一行の先頭に立つ勇者に応え、年の功を見せた。
ひとまず、今宵の死闘をくぐり抜け、一行も安堵を覚える。
「マリエル~。まずはおいらの怪我を見ておくれよぉ」
ふぃー、と息を吐きながら、緊張をほぐすようにそう言ったのは、やはりリュウであった。
白煉寺の和尚とはいっても、それは先輩や師であった先代大和尚が、魔王軍侵略における初期戦線で先陣を切って戦い、死亡したためである。
まだ若いリュウは、仏門帰依の気高く崇高な退魔僧というより、明るく屈託のない、チームのムードメーカーという風情であった。
僧のくせに、美人に弱く、よくマリエルとウェブリーに、鼻の下を伸ばしている。
それが憎めないし、愛嬌を感じさせて止まないのが、彼の持つ『徳』なのかもしれなかった。
「なにをいっちょる、お前はわしが手当してやるわい」
「げげ! しわくちゃ爺さんかよ、手当されるなら美女がいいのに~! ああ、御仏よ、どうかこの憐れな愚僧にお慈悲を。阿彌陀佛」
「えい、これでどうじゃ」
「いでで~!」
生意気を言う生臭坊主に、導師はあえて痛み止めをせず傷を処置する。
そんなふたりのいつものやりとりに、場の空気も、和んだ。
「リュウめ、それで少しは僧侶らしくなるがいい」
魔道の翡翠鎧のおかげで、傷の少ない聖騎士、レイモンド・ウィンチェスターは、腕を組み、孤高に溜息を零す。
仲間たちの手当をしながら、大天使ウェブリーもくすりと笑った。
マリエルも、苦笑しながら、騎士たちに治癒魔法を施す。
自分の番が来ても、彼には、状況を飲み込む自信さえなかった。
その瞬間、総身を親愛と忠誠、畏怖が満たした。
「あ、ああ、ありがとう……ございます」
ひとりの騎士が、身に余る栄光に震えた声を上げた。
彼の前で、自らの血を拭い、地に膝を突いた神聖の化身が、手を触れてくれているのだ。
命を捨て、世界を、故郷を守るため、侵略の手を広げる魔界軍と戦うため、こうして一行を手助けするために、随伴騎士隊に進み出た。
死んでいった先達たちのため、自分たちの後世の平穏のために。
だが、まさか、その自分が、逆に彼女に手当されるとは。
「いいの。気にしないで。あなた達のおかげで、私たちもいつも助けられているもの」
天上の美貌が、蕩けるように柔らかく笑い、ねぎらった。
勇者一行を阻むため、上位魔族以外にも、下位の魔物が軍勢を成して迫るのは常であった。
オーク、ゴブリン、コボルト……エトセトラ、エトセトラ……その雑魚の露払いをするのも、騎士隊の務めだ。
魔界軍侵略拠点などに腰を据える、将器たる上位魔族、悪魔の中の悪魔、十二神将の化物たちと、マリエルらが戦うまで、彼女らの体力を少しでも温存するのが役目だ。
自分など、路傍の石、そう思っていた。
ゆえに、彼は驚いた。
「さあ、これで終わり。しっかり休んでちょうだい。ブラック」
と。
震えながら、彼は、呟いた。
「お、覚えて、おいでなのですか。僕の名前を」
「ええ。タロン・ブラックくん、でしょ? あ、ごめんなさい……年はあなたのほうが、上よね。くん、なんて、失礼かしら」
「いえ。そんな」
恐れ多かった、嬉しかった。
彼女は有象無象の兵たる自分の名を、しっかり胸に刻んでいたのだ。
いや、きっと、死んでいった仲間たち、これから死ぬかもしれぬ仲間たちのことも、刻んでいるのだろう。
まだ少年の名残を持つ青年騎士は、涙を堪えた。
嬉し泣きである。
また、次の騎士の手当に進み出る、勇者……聖女を見つめて。
死のう。
彼女のために死のう、いつ死んでも構わない。
捨て石になって支えようと。
魔王ショーシャ撃滅まで、残すところ半年を切った、人魔大戦最終期の、一夜であった。
やはり、どうにも、この歳になると、思い出ばかりが脳裏を掠め過ぎていく。
困ったものだ。
私は壁にかけた剣を見上げ、そう思った。
低級な魔物しか相手にしなかったが、それでも幾年かの従軍に、剣には風格とも呼べる傷が、無数にある。
よくぞ、今まで命脈を繋いだものだ。
お前も、私もだ。
もう使うこともなかろう。
静かに手を、首元にやり、カラーを締める。
姿見を前に、整える。
「おい。ジム。見てくれんか」
年若い、部下を呼んだ。
すぐさま青年は私の執務室に訪れ、こう言った。
「いつもどおりです、司祭様」
「そうか。ありがとう」
やはり、他人の目で一度確かめないといかんな。
辺境での教会司祭というのは、下手をすると、市長や治安官よりも重い地位であり、権限はまさに、神にひとしい。
いや、間違えないで欲しいのだが、決して自分らを偉そうに、とか、偉ぶったわけでないのだ。
未だに人界のあちこちに繁殖し、異界外来として蠢いている、魔物の討伐。
産まれた子供の洗礼。
結婚式に葬式。
我々教会は様々な部分で、庶人の生活に関わるのだ。
異教の仏門に帰依していたりすれば、別ではあるが。
やはり地域の皆が、我々を見る目には、気をつけなければいけない、自戒あるのみだ。
うらぶれた姿では、失礼になる。
だが私の心は、別の緊張も宿していた。
「……」
改めて、資料に目を通す。
治安官のハーリントン氏から頂いたものだ。
先日、ダイチが禁足地で出会ったという、身元不明者の女性の一件について。
容姿、遭遇した状況。
そして、巨大な魔物を、瞬殺してのけたという、報告。
まさか。
と思う。
ありえない。
と思う。
だが、私の胸には、ざわめきがあった。
そのざわめきの告げるままに、私は教会を出た。
「どこへ行かれるのです?」と聞いてきたジムに、「少しな」とだけ告げて、私が向かった。
言わずもがな、ダイチの家に、だ。
いつもなら、彼には別の心配をしている。
祖父を亡くし、家族を亡くし、ひとりで少年が生きている、将来や進学について、口を酸っぱくするのは、年長者としての務めだ。
彼が半ドロップアウトしている学校で、何度も教鞭をとり、見知った仲というのもあるし、私自身、亡くなられたタイチ氏にも世話になった。
だが、今日は、説教をするつもりなどなかった。
不安のままに、私はドアをノックした。
「はーい、どなたですかー。って、司祭様! なぜうちに!」
「やあダイチ。久しぶりだね。少しお邪魔したいのだが」
「え、ええ、いいっすけど。なんすか」
「ちょっとね」
私が上がると、やはりいい顔をしなかった。
いつも説教をしすぎているからか。
もうちょっと、若者への接し方を考えたほうがいいかもしれない。
次の瞬間、私は、しかし、一切の思考を吹き飛ばされた。
「あら。お客様なの、イーライ?」
エプロン姿の婦人が、私の前に、来たからだ。
人妻で、あろう。
彼女はそうであった。
どう、言うべきだったか。
言葉に迷った。
私は一瞬考え、やがて、一礼した。
「初めまして。この地域の、教会騎士団、神父長の、司祭をしております。私は――タロン・ブラックともうします」
と。
勇者様。
覚えておいででは、ありませんでしょう。
貴女と共に駆けた死地の思い出を、私は、忘れてはおりません。
変わらぬ貴女のお姿は、やはり、美しかった。
第一章 第七幕 【オールドボーイ・パードレ】