第一章 第六幕
ボクのママは元勇者
風のある日だった。
遥か頭上、天空にて踊る風は、雲を蹴散らし、蒼空にとどまらず、眼下の森を、木々を唸らせる。
少年の視線の上でも、木々の梢は千切れそうにうねり、陽光の刻む影を幾重にも複雑に変転させていた。
陽と、風と、森。
里からそう、離れてはいないが、牧畜と農園の世話が主の里人は、あまり森には入らない。
そうでない、数少ない里人のひとりが、少年だった。
慣れた調子で、少年は森を行く。
小さな、濃い茶髪の、細い子であった。
背嚢と一緒に、小さな背には、不釣り合いな長い、棒状のものが革紐で釣られている。
鉄の銃身と木の銃床を組み合わせた構造体。
銃、というものだ。
火縄式で点火し、弾丸を射出する、最新型の武器であり、狩猟道具。
まだ聖都でもあまり出回っていない珍品で、父が買ってくれた、父はこの道具に、少し思い入れがあるようだった。
大砲を小型化したようなものと考えればよい。
少年はこれで、よく狩りをしていた。
普通、狩猟というと、弓か弩で狩るか、罠を使う。
短躯の少年には、張力の強い弦はとても引ききれないし、罠では稀にひとがかかることもあるので、少年は銃を使った。
銃を使うのにそこまで力はいらない、弾道を心得る慣れと腕があれば足りる、彼はなかなかの名手だった。
いつでも使えるよう、火種も持ち合わせているが、今日は、使うつもりはなかった。
あくまで、獣に不意に出会ったときの用心だ。
少年の探すものは、鳥でも兎でも、鹿でもなかった。
ほどなく、彼はそれを見つける。
彼女を、見つける。
鼻先をくすぐる、爽やかな水と冷たい空気、その中に交じる、甘やかな香り。
慣れた足取りで、向かう。
彼女はやはりそこにいた。
森の中の泉のほとりに、小さな影が佇んでいた。
下生えを踏み、近づく。
気づいて、彼女は振り返った。
「……っ」
ほぅ、と、息を呑んだ。
何度も見つめた顔だ、けれど、それでも見惚れてしまう。
こんなにも、綺麗で愛らしい少女が、ほかにいるだろうか。
里の子供、少年たちの誰もが、彼女に恋をしていた。
さらりと揺れる長い髪は、色も、香りも桃花のようだった。
白い肌は白蝋の如く。
美しく愛らしい、あどけない顔立ちは天工の成したものとしか言えず、やがて類稀なる貴人になることは、誰もが想像し、また、事実、そうなるであろう。
長い睫毛の下の、黄金の瞳はしかし、涙に濡れていた。
少年をここまで導いた音色も、か細い泣き声だった。
「マリエル、やっぱりここにいたんだ」
「……」
少年に名を呼ばれ、少女――マリエルはうつむく。
なにかやましいことを咎められたように。
視線を泳がせ、向こうを向いてしまう。
けれど、立ち上がって、どこかへ行こうという素振りはない、少なくとも、語りかけることくらいはできるだろう。
少年はぐるり巡って、少女の前に膝をおろした。
「みんな探してたよ」
「……」
「もうじき、だよね。迎えがくるの」
「……」
うつむいたまま、マリエルはじっと黙っていた。
彼女が悩み、苦しく感じているのは、わかった。
なにか嫌なことがあると、彼女はいつもここに来る。
ここはふたりの秘密の場所だ。
以前、狩りに同行した彼女に、少年が教えた。
綺麗な泉の水を飲み、ほとりに生える草花を愛で、ふたりでサンドイッチを食べた。
それからときおり、少女はここに訪れる。
「……」
少年も、しばし彼女と静寂を分かち合った。
マリエルの気持ちも、わかる。
彼女は特別だった。
特殊に過ぎるとさえ、言える。
少年の想像もつかないような祝福、神と精霊が、あらゆるものを彼女に与えた。
だが与えられるものが大きすぎて、それを持て余しているのは目に見えていた。
家庭、家族との問題。
孤独。
羨望と同時に浴びる、嫉妬と、恐怖。
この当時、まだ国や地域の設立する学校というシステムは存在しなかったが、領主や地主が学のある講師を集め、私塾のようなものを作っており、少年もマリエルもそこでひととおりの読み書きや、様々なことを学んだ。
マリエルは、その全てをたちどころに覚え、完璧にこなした。
魔導の才など、余人の大人が及ぶものでない。
以前、少年が、自慢の銃を触らせたことがあるが、いつの間にか少年より上手く扱えるようになっていた。
一日で、である。
「行きたくない」
ころりと、言葉が転げ出た。
少女の、甘やかな澄んだ声であり、涙に濡れていた。
また、綺麗な愛らしい頬に、涙の粒で筋道を作り、少女は顔をあげる。
少年を見た。
一番仲がよく、誰より信頼している、本音を出せる相手に。
「行きたくないよ。やだよ……怖いよ」
産まれる前から決まっていた運命。
彼女を宿すとき、彼女の母はそれを受け入れた。
世界を染める闇、魔界の王との戦いを、その軍勢との対峙を。
神と天使が告げた始まりのときが、今日だ。
マリエルは今日から、行かねばならない。
聖十字教会騎士団本部にて、剣と魔法、破邪の術を学び、今日も少しずつ蹂躙を続ける魔王軍との戦いに、備えるのだ。
わかっていたことだ。
けれど、受け入れるのとは別だ。
だからマリエルは逃げ出した。
誰も知らないここへ。
「……」
少年は、悩んだ。
なにをどう言えばいいのか。
行くべきだ、そう告げるのが、正しいだろう。
けれど、少年は彼女に無理強いしたくなかった。
たとえそれが、聖なる神々の定めたことであろうとも。
だから、頼むことにした。
自分の気持ちを伝えて。
「マリエル、お願いがあるんだ、聞いて」
「……」
一瞬、少女は、表情を硬くした。
迎えの馬車の元へ、行けと、頼まれると想ったのだろう。
もし少年にそう言われたら、どうすればいいのか。
不安そうにする。
だが、少年が告げた願いとは、別だった。
少年は、すっと息を吸う。
それは彼にとっても決心のいることだった。
一拍の間を起き、彼は言った。
「将来。僕と結婚してほしい。僕のお嫁さんになってください」
世界が沈黙に満ちた。
強い風の揺さぶる木々の音色さえ、消えた。
ふたりの間で、互いの視線と意識以外の、全てが意味を失う、森羅万象が消失する。
「え……え、うそ……そんな……」
あまりに想像を超えたことに、少女は慌てふためいた。
その白い頬が赤くなり、視線はあちこちに泳ぎ、おそるおそる、彼を見上げる。
「それ、本気なの……」
「うん。その……ずっと前から、好きだった」
恥ずかしそうに、少年は言う。
どう、返ってくるか。
怖いのは彼も同じだ。
少女は答えた。
「わたしも……わたしも好き」
雨降りだった表情が、たちどころに、天の陽も霞むほどに輝く。
笑顔だった。
この世に、これほど無垢で甘やかな好意の言葉はないだろう。
穢れなき乙女の、初恋を告げる言の葉だった。
ふたりの胸の中に、尊く温かいものが満ちる。
しかし少年は、想いと夢を守るため、彼女に残酷な現実を、突きつけなければいけない。
改めて、彼は言った。
「ありがとう。マリエル。だから、マリエルの力を、使ってほしいんだ」
「……」
「僕達を、守って」
少年も苦しいのは、マリエルにもわかった。
視線をもう一度、足元に下げ。
少女はまた押し黙る。
そうして、ひとときの黙考の末、彼を見た。
もう泣いてはいなかった。
愛しいひとへの心が、このとき初めて、彼女に強い決意を生んだ。
「わかった」
手が、伸びる。
白く細い手が、少年の手を握る。
強く。
強く。
「私。行く。行って、強くなる。頑張って、鍛える。それで、あなたを守る……あなたのために戦う」
「マリエル……」
少年も、少女の想いに応えるように、手を握り返した。
こうしてあげることくらいしか、できなかった。
今日から彼女には、幾多の苦難が、数多の痛苦が訪れるだろう。
それを強いた自分を恨むだろうか。
恨まないだろう。
ゆえにこそ、少年もまた、苦しいのだ。
せめて、この地で、この村で、彼女を想うことだけが、彼にできるねぎらいだった。
「だから……ほかのひとを好きになったりしちゃだめだからね」
「うん」
「絶対私と結婚してね? お嫁さんにしてね?」
「うん」
「約束だからね」
「うん」
綺麗な空の下、美しい森の泉のそばで、交わした誓い。
あのときの愛おしい気持ちは、月日を隔てた今でさえ、胸にある。
尊く色褪せない、輝きの時間だった。
魔王軍の猛攻の凄まじさは、戦いが進み、彼らの領域深くに進むにつれて、激しさを増す。
今日、一戦を交えた死骸騎団もまた然り。
死せども死なぬ不死の身は、とうに滅びた死人の白骨であり、死魂霊幻の二つ名を轟かす、魔界軍きっての妖術使い、霹・冥濤の作り上げたる言語に絶する殺戮の軍勢。
一騎一騎が教会騎士団上位騎士に匹敵する戦闘力を持ちながら、身が砕かれてもすぐにその欠片がより集まり、からからと渇いた不気味な音を立て、文字通り、黄泉帰る死兵。
それが三千騎も連なり、手に手に武器を持ち、白骨の馬を駆り、跋扈するのだ。
悪夢と言わず、なんと呼ぶ。
斃すには完全に形を失うまで崩壊させるか、死魂霊幻霹・冥濤が術で宿らせた魂を浄化させるしかない。
これまでこの悪夢の死兵軍を前に、滅ぼされた人の街も軍も数え切れず、優に万は超すだろう。
その、死兵が、ここに潰えた。
たった五人の戦士を前に。
いや、その先頭に立つ、ひとりの勇者の前に。
邪仙、霹・冥濤も、その身が滅びるまで、想像もできなかったであろう。
戦場となった街の街路に、累々と白骨が転がり、もはや二度と起き上がることのない、永久の眠りについている。
また立ち上がるのではないかと、おっかなびっくり怯えながら、勇者一行に随伴した聖十字騎士団の騎士団、いわゆる、一般兵の皆は、死骸の骨の後片付けをしていた。
非難させた市民のためもあるが、敵軍の魔導痕跡を、教会の魔道士や学士班が解析するためでもある。
それにしても、凄まじい。
魔軍の邪仙に支配され、永久の戦鬼であった死霊が、ただの一斬で払い清められているのだ。
勇者一行の他の戦士たち、聖騎士様や、天使様などもも、もちろん戦闘で活躍はしたのだが、やはり……
「勇者様は、すげえなあ」
ひとりが、ぽつりと漏らした。
今まで、万軍をしてさえ果たせなかった戦功を、たったひとりの女姓が成しているのだ。
神々の加護を受けていると、理解はしているが。
やはり、間近で見るほどに、余人の認識を超えた、壮絶な力の片鱗を思い知る。
そんな彼らの傍を、こつこつと靴底を鳴らしながら、一個の美影が過ぎた。
はっと息を呑んだ。
あまりに美しきがゆえに。
輝くような白い肌、薄桃色の髪、黄金の瞳。
動きやすいよう、薄い生地で作られた戦装束から溢れる肌の、なんという悩ましさ。
胸元と尻のあたりが、引き裂けそうに盛り上がっているのも、あらゆる男を狂わす色香を内包している。
一瞬、見惚れ、やがてすぐ、意識を平常に戻し、彼らは敬礼した。
「ゆ、勇者様!」
「お疲れ様であります!」
彼女は、ふっと微笑んだ。
「いえ、皆さんも、お疲れ様です」
涼やかな声を零し、彼女は一礼してその場を去った。
彼女と言葉を交わしたことを、彼らは一生誇るだろう。
勇者マリエルと、直に接したのだから。
マリエルが向かったのは、宿だった。
宿といっても、普通の旅人が使う宿でなく、今日の戦場となった街にあった、教会騎士団の宿舎だ。
各地で魔界軍と戦うこの旅では、珍しいことではない、いきなり奇襲を受けることもあるので、できれば庶人の使う施設は避けるのが得策だ。
無論、ただの一般兵とて、一行からすれば、無力な市民にも等しいのだが。
聖騎士。
武闘家。
大天使。
魔道士。
勇者マリエルを含む五人の一行、ひとりの例外とてなく、全員が超常の戦技をその身に極めた一騎当千の超人である。
宿に戻ったマリエルは、自室に宛てがわれた部屋のドアの前に行くが。
そこに、旅の仲間がひとり、待っていた。
「街の見回りですか、もう十分に調べたでしょうに」
そう告げたのは、マリエルと並んでも、見劣りせぬほどの美貌であった。
凄まじい、美女であった。
白磁の肌。
髪は、長く、月光を紡いだかのような白銀である。
纏う白い法衣の胸元が、窮屈そうだ。
悩ましく、法衣の背中部分は生地を失い、真っ白な背中の肌が、肩甲骨と共に見えている。
機能的な意匠であった。
でないと、戦うときに『翼』が出せない。
彼女こそ、勇者マリエルの頼もしい旅の仲間。
大天使ウェブリー。
聖なる天神ドライゼより、勇者を導き支えるために地に降りた、優しく慈愛に満ちた、御使いである。
「いえ。なにかあると困りますし」
「真面目ですね」
死兵の群は、一騎残らず死魂を浄化させて滅した、それはとうに検めている。
それでもなお案じて、自分で確認せずにおけぬというマリエルの姿に、ウェブリーは苦笑する。
彼女を魔王と戦うべく導いた身であるが、生真面目に過ぎる姿を見ていると、主神の命などを超え、彼女を守り、支えたいと願う。
「そんな真面目でいい子のマリエルに、今日はいいお知らせがあります」
「いったいなんです?」
「さあ、なんでしょう」
いつもの優しく慈母的な様相から一転し、戦場を共にする仲間でなく、一個の友人として、ウェブリーはどこか子供っぽい風ににやりと笑って、豊かな胸を主張するように背筋を反らす。
マリエルが首を傾げると、聖なる大天使は、ゆるりと手を上げる。
そこに、ぱっと法術で一枚の紙片が出た。
封筒だった。
すぐにマリエルは気づき、目を輝かせる。
「まさか!」
「じゃじゃーん。マリエルの待ち望んでた手紙、届いてますよ」
「は、はやくください!」
貴人の風情をかなぐり捨て、マリエルは手を伸ばして、ウェブリーから手紙をもぎ取る。
年相応、いや、むしろ幼くさえあるマリエルの反応に、ウェブリーは苦笑した。
「よかったわ。あなたが嬉しそうで」
「あ、いえ……」
慌てて封筒の封を切ろうとしたところで、はたと気づき、自分の仕草を振り返り、マリエルは赤面する。
一層、ウェブリーは彼女を愛おしく思った。
こういう一面があるからこそ、自分は彼女が好きなのだ。
「では、私も私室に戻ります。今日はゆっくり故郷からの報せに目を通してね。明日から、また旅が始まるのだから」
「ええ」
去っていくウェブリーの後ろ姿を見送り、マリエルはいそいそと部屋に入り、ベッドの上に寝転んだ。
まず、手紙を持ち上げ、そっと顔の前に寄せる。
かすかな、あるかなきかの、香りがした。
土と草の匂いだ。
開ける。
幾枚かの、折りたたまれた葉書であった。
愛しのマリエルへ、そう始まっていた。
それだけでマリエルは胸がときめき、堪らない幸福に包まれた。
噛みしめるように読む。
生まれ故郷の里の様子、ひとびとの暮らし、そして、彼の近況が綴られていた。
最近では、あまり狩りにはいかず、亡くなった父の後を継ぐように、農業のほうに精を出しているらしい。
それでも時折、あの泉には行く、そう、書かれていた。
一片の花びらが同封されていた。
泉のほとりに咲いていた、花のものだ。
「……」
マリエルは、目尻に涙さえ浮かべた。
豊かな胸に、ぎゅっと手紙と花びらを、押し付けるように抱きしめる。
これだ。
自分は、このために、このためだけに戦っている。
正義感や義務、自己犠牲の清き想いがないわけではないが。
それだけで支えられるほど、マリエルの心は強くなかった。
彼のために。
愛するあのひとのために、戦う。
教会騎士団で鍛え、技を磨き、術を覚え、こうして旅を始め、続け、魔軍を打ち破る日々。
全ては故郷と、そこに生きる彼を守るため、いつか彼の元に戻り、結ばれるために。
「待ってて……すぐ、戻るから……絶対に戻るから」
マリエルは、ひとり呟く。
誓いを。
愛を。
こうして彼の想いと記憶を噛みしめるたび、マリエルは明日の死闘を超え、勝利する活力を得る。
絶対に負けない、必ずや勝利する。
勇者の心に、熱く滾る愛が、炎と揺れた。
それは古き記憶の物語。
かつてあった、魔を滅する聖なる勇者の思い出。
第一章 第六幕 【夢】
とんでもない事故に見えたが、被害者、というか、死者が出なかったことが不幸中の幸いだった。
あのでかぶつに跳ね飛ばされた牧場のひとたちも、重症を負いはしていたが、病院でなんとか一命を取り留めたらしい。
だが面倒だったのはその後だ、俺たちは当然、遅れておっとり刀で駆けつけた治安官のおっちゃんらに色々取り調べを受けることになった。
まさか事務所で別れてすぐにまた、顔つき合わせるはめになるなんざ、とんだ冗句だぜ、とほほ……
っつっても、別にやましいことがあるわけじゃねえ。
むしろ俺たちは、いや……あのひとは、ある意味で、街の『勇者』みたいなもんだ。
もしあのバケモンを野放しにしてたら、何人喰われたか知れたもんじゃない。
それをたったひとりで、ぶっ殺したんだ。
牧場主のひとも、治安官のおっさんも、皆感謝してた。
だけど、感謝だけじゃ、ない。
胸の内で、皆、芯に凍るような恐怖を感じてた。
俺も、そうだ。
当たり前だろう?
考えられるか?
あれだけのサイズの魔獣を殺すのに、普通、どれだけの装備がいる?
大砲だって足りるかどうか。
一級の魔道士、重武装の騎士隊、そういうものが何人かで編成してようやくってもんだ。
それを、あのひとは……ひとりで始末した。
素手で、たった三撃でだ。
人間じゃない。
あれはひとのできる領域を超えた力だ。
いったいなんなんだ、あのひとは。
いったいなんなんだ、あれは。
治安官事務所での聴取を終え、俺とあのひと……マリエルさんは、家に帰った。
相変わらず、俺を、イーライ、自分の息子と扱って。
それさえ、俺はどこか不気味に、恐怖感を覚えてしまう。
最初はただの可哀想な、記憶や意識の乱れたひとだと思ってた。
こういってはなんだが……初めて目にしたときから、彼女のとんでもない美しさに心を惹かれているのは否定しない。
一目惚れ? いや、俺くらいの年のガキなら、よくある心の放浪か。
まあなんだっていい。
俺は美人にぽわわんとしていた。
が、今はそれだけじゃねえ。
怖い。
このひとの錯乱した心がいつ、想像を超えた方向に、あの力を使うんじゃないかと、考えてしまう。
マリエルさんはそんな俺の気も知らず、鼻歌混じりに夕食を作った。
くう……心と裏腹に健全な男子の視線はタイトなスカート(当然だが返り血を浴びた服は着替えた)のむちぷり尻を目で追いかけてしまう、俺のバカ!
当然彼女の作った飯は美味かった。
飯を食い、風呂に入る。
マリエルさんがまた、一緒に入る? 背中流す? などと言ってくるが当然ノー! と断る。
あんたの体見たら股間のアレがどうなるか分かるかい!?
風呂上がりにジェリが騒ぎの噂を聞いてすっ飛んできたが、小うるさいので追い返す。
んで、俺は今、寝間着のシャツとズボン姿で、自室のベッドの上に座ってた。
座禅。
精神鍛錬。
集中。
練氣。
爺ちゃんに教わった、丹田気功の鍛錬法である。
当然、上手くいかない。
集中できるか!
俺もまだまだだぜ。
昼間のことが気になる。
どんなときも平静で身魂を律しろとの教えだが、できたら苦労せんぜ爺ちゃんよ。
むがー! と寝転び、俺は傍らに立てかけていた、形見の剣を漫然と眺めた。
あのボケ老人が剣神より授かったという霊験あらたかな霊刀である。
マリエルさんは、日本刀と呼んでいた、どこか遠い異国の、美しい剣である。
ぼけっとしていると、俺は、音を聞いた。
小さな音だ。
壁を通して、聞こえてくる。
泣き声だった。
少女のするような、すすり泣き。
俺は立ち上がった。
部屋を出て、廊下を歩む。
行き着いたのは、マリエルさんに宛てがった、空き部屋、昔、死んだ婆ちゃんの使ってた部屋だ(マリエルさんに使ってもらってるのも婆ちゃんの服だ)。
俺は、おそるおそる、ドアをノックした。
返事はない。
一瞬躊躇し、考え、そして、開けた。
鍵はかかってない。
きい、と、錆びた蝶番が鳴る。
薄暗い部屋の中は、微かに光が差していた、窓から溢れる月光だ。
月の光も霞んでいた。
ベッドの上に、なめらかな白い肌と、それが形作る美の結晶があるからだ。
あーちきしょう!
得体が知れない、恐ろしいものと想いながら、俺はそれでもこのひとを見るとその綺麗さに心が沸き立つ。
そっと近づいた。
無防備な寝顔は、いつにも増して、魅力的だった。
「……」
同時に、俺はどうしようもなく、胸の内がざわめいた。
マリエルさんは、泣いていた。
眠りながら、啜り泣いていた。
長いまつげの下から、透明な雫が溢れ、目尻から流れて、枕に薄く染みている。
どんな夢を見ているのだろう。
このひとを苦しませると思うと、俺は形のない夢というものさえぶち壊したくなった。
さらさらの、長い髪。
しみひとつない肌。
ため息が出る。
あんな強さを目の当たりにしながら、考えちまう。
守ってやりてえ……
むしろ俺がそうされる側だろうけどな。
なんだか、このひとは、とてつもなく強く凄まじい存在なのに、心は無垢でか弱い、気がするのだ。
まだなにも知らない過去になにがあったのだろう。
どこで産まれ、どんなことをしてきたのか。
気になる。
「なあ、マリエルさん……あんた、いったいなにもんなんだよ」
俺は思わず、そう呟いた。
恐ろしくて。
強くて。
綺麗で。
わけわかんなくて。
記憶も錯乱していて。
謎の女性。
突然現れて俺の人生を掻き乱したひと。
俺はしばらく、マリエルさんの寝顔を、泣き顔を見つめ、ふと視線が、寝間着のネグリジェの、嗚呼……す、凄まじい、谷間の深い、白いふわむちお肉に釘付けになりそうになり、慌てて自分の部屋に引き返した。
翌日、街の教会騎士団施設から、司祭様が会いに来ることも。
そこでマリエルさんの過去を知ることになるのも。
このときには、想像もできなかった。