第一章 第四幕
ボクのママは元勇者
正直言って、昔のあたしは弱かった、そりゃもう泣き虫で、近所の悪ガキどもに毛虫だののっけた棒片手に追い掛け回されてたわけ。
あたしが学校の幼年部の頃にね、ほんとむかつく嫌なガキ大将が、毒魔虫なんてアブナイものもって追いかけてきたわけ、あいつ、ほんと最低……下手すりゃ毒で、ショック死するひとだって、稀にいるのよ? 脅しかもしれなかったけどさ。
追い詰められて、ほんと、泣き叫んで。
誰も来てくれないって、不安で押しつぶされそうで。
そのとき、来たの、あのバカ。
向こうは五人よ? 普通挑む? でも挑んだの。
小さな拳が飛んで、相手をぶっ飛ばしたわ。
カラテ。
小さな手と足が相手を払って、投げ飛ばしたわ。
ヤワラ。
聞いたこともない武術で、たしか、タイチおじいさんが故郷で身につけたって言ってたわね、あのひと、結局亡くなるまでどこの産まれかよく分からなかったから、もしかするとあのひとが作った武術なのかも。
あたしを助けてくれた小さな英雄はね、鼻血垂らしながら、よゆー、とかいって親指立てたの。
ほんとバカ。
あのバカ。
ばっかじゃないの、あんたが怪我するほうが嫌だから、いじめっ子に追いかけられるの、黙ってたのにさ。
その日からあたしは本気で魔法も武芸も身につけたし、強くなろうとした、学校での魔導学も剣術も全部最高の成績を収めようって。
剣客になって、冒険をしたいっていってるあのバカを、助けられるんじゃなく、あたしが助けてあげようって。
で、今、あたしは学校の、自分の席にいるわけ。
「……」
考える。
考える。
あのバカのこと、今朝会ったときのこと。
バックパックのサイズからして、食料は余裕を持って三日分、けど実際の行動範囲は一日か二日ってとこかしら。
しかも、あの銃、おじさん(あいつのおとうさんね)の使ってた単発先込め式じゃない、連発式の最新型じゃない。
そんなもの持ってどこ行くかって、考えたら……
あいつバカだもん、すごいバカ、だから。
並列多重思考で授業内容を記憶し筆記し、ついでに指先で羽ペンを回しながら、あたしはあいつのことをず~っと考え続けてる。
もしあいつが、危険な場所に、例えば、禁足地になんて行こうなんて考えてたら……
ううん、もし、なんてもんじゃない、きっと、もうすでにそうなってる。
あいつバカだもん。
すっと目を閉ざす。
考える。
皆勤賞、学校最上位の成績、将来の進級だの進学だの就職斡旋だのに大事よね。
それとあいつを天秤にかけるの。
ぼごっ、て音が頭の中で鳴った気がするわ。
一発で片方が振り切れてしまったのね。
そうとなったら、あたしはもう立ち上がってた。
「教授」
「はい、なんですかウズィールさん、いきなり立って」
「気分がすぐれないので今日は早退します! では!」
「え、では、って、え? 私の返事とか待たずにもう一瞬で帰り支度してですか!? ウズィールさん? 凄く気分すぐれてそうですけど」
「優等生のあたしが嘘をいうわけありません! いいから帰りますので! 邪魔しないでくださいね!」
「ひ! 引退したとはいえ元公国正規兵の私を居竦ませるほどの気迫! さすがですウズィールさん……でも、それは、魔導剣に魔導杖とか、用意して、重いですよね? 気分すぐれないのに持って帰るんですか?」
「持って帰るんです! では! 明日はたぶん、ちゃんと来ます、たぶん、これなかったらこれません。では! 今度こそ!」
「はい……さ、さようなら、また明日」
兵は迅速を尊ぶべし。
あたしは迷わなかった、迷う時間がもったいない、その分あいつが危ない目に合うかもしれない。
校門を飛び出し、すぐさま向かったのは、近くの小川。
「呼び奉る我が神、精霊、海と水と生命の故郷、数多の水族に連なりし魂よ、どうか、我が祈りを聞き給え」
すかさず呪文詠唱を行い、腰に抱いていた魔導杖を振り、手で印を結ぶ。
あいつの気配、あいつの魔力、あいつの姿。
目に焼き付け、記憶から消えない全てを投影し、水鏡に映す。
水面はすぐに魔導映像に変わった。
有効範囲は限られてるし、対象の情報や位置をある程度把握してないと、あたしの術式力じゃ限界があるけど、なんとか範囲内にいたみたい。
森の中を行く小さい影から、遠景に縮小していく……
「あいつ、ほんとに禁足の森にいるじゃない!」
思わず声が出た、もう、バカ! バカアホボケオタンコナス! なんでこういうときくらい、予想を裏切ってくれないのよ!
杖を巡らせ、円陣を描き、空中に浮かぶ魔力光を水面に投げる。
これだけの水の量があれば、呼べる、あたしの使い魔。
「来てちょうだい、クラーケン!」
それはあたしに海と水の加護を与えてくれた、精霊の眷属、水面に投影された魔法陣から、うねる触手の束が、甲殻類の脚と一緒に、はじけ飛ぶように出現する。
クラーケン、大蛸、大烏賊とも呼ばれ、様々な種類が存在する海の魔物――という認識は、少し狭いわね。
聖も邪もどちらも存在するの。
この『あたしの』クラーケンは、胴は烏賊みたいだけど、無数の触手と共に、地上行動も可能にする甲殻腕とを併せ持った生物よ。
そう、生き物なの、実体化された部分はね、精神? 魂魄はまた別に存在するみたいなんだけど、ま、そのへんはどうでもいいわね。
「おねがいクラーケン、力を貸して」
告げると共に、あたしはクラーケンの胴に乗る。
あ、ちなみにうちのクラちゃん(愛称よ)は、胴は二メートル、触手は一〇メートル以上ある立派な子よ。
あたしが乗ると、ぬるっとした表面で滑りそうになるけど、すかさず足首に触手を絡ませて支えてくれる。
ひゃん! ちょ、もう、くすぐったいわよ……
あたしの意思と精神リンクしてるクラちゃんは、すぐ応えてくれた。
小川は上流に遡上すれば禁足地の付近に支流が巡ってるはず、そこから地上行動で後を追おう。
あのバカ……ダイチは、あたしが助けてあげないといけないんだから。
そうしてあたしは、小さな冒険に出発した。
魔族砦から脱出して、一時間、経った……へとへと、だ。
森をな、全力で走るんだぞ。
森ってなぁ、平坦じゃねえ、舗装されてないんだから当たり前だわな。
ぼっこぼっこ地面が起伏を作ってるし、木の根っこやら藪やらが茂り放題なわけだ。
しかも、その中を、背後で鬼気を滾らせてるバケモンに気づかれないよう、逃げるんだ。
うぅ~~! 背筋がゾクゾクする! 魔法力の少ねえ俺でも分かる、あの砦の主が眷属かなんかを呼びやがったんだ! 気配は確実に六か、七? 下手すりゃもっと多い、増えてる。
一対一だって願い下げの相手が複数だ、見つかったらぜってえ死ぬ! 死ぬ! 死にたくない!
走りながら、足跡を隠し、臭い消しの草を撒き、魔法は使わず(全然使えねえけど)、なんとか、化物どもの気配から、遠ざかった。
少なくとも今は、だ。
「イーライ、大丈夫? 息切れてるわよ?」
「あ、はい、大丈夫っす……なんとか……てか、タフっすねマリエルさん」
「ママをそんな風に呼ぶのいけないわよ」
「あ、はい……ま、ママ」
かなり抵抗ある。
考えてもみろ、初対面の長身超絶美女にママなんて呼ばにゃいけないんだぞ、恥ずかしすぎて死にたくなるぜ。
彼女は、先ほど破壊した巨大霊石の中に眠っていた、信じられねえくらいの美人、マリエルさんだ。
なぜか、俺をイーライ、と呼ぶ。
彼女の息子さん、らしい。
「休憩しましょうか」
「ええ、いいわ」
どっこいしょー、腰を木の幹に下ろす。
彼女を、見上げた。
ぽ~、っとなっちまう……ものすげえ……本当にすげえ、美人だ。
陽の光を浴びて、さらさらの長い髪が薄く透き通る、桃色。
肌は白い、きめ細かい、これが本当に一児の(推定)親だってのか?
どんな男も蕩かし尽しそうな美人が、俺を見て微笑む。
ああ! 俺をそんな見るな! 屈まないでくれ! た、た、谷間……み、見えてる。
彼女の服は胸元とスカート部分のスリットは悩ましすぎる、少しでも見える肌の白さに吸い込まれそうだ。
「イーライ!」
「は、はひ!?」
いきなり、ち、近づいてきた! 顔が! うあ……いい匂いがする……果実か花みたいだ……呼吸するたびに、甘い匂いが。
しかも身を屈めて俺を覗き込んでくるから、胸の谷間まで! くぅ~! やめてくれぇー! は、恥ずかしい! 刺激が強すぎる!
そんな俺のドギマギをよそに、マリエルさんは俺の肩をがっしと掴み、俺の体を見回した。
「怪我してるじゃない! 見せなさい」
「いやーん! ちょ、お待ちになって~!」
俺が恥じらうのもよそに、マリエルさんは俺をむきむきする、服をむきむきする。
ってか、力つええな!? そういえば俺が歩き疲れてるってのに、まったく息切れてねえし、どういうひとなんだ、これでもちったあ爺ちゃんに鍛えられてんだぞ。
なんて思ってるうちに、俺の上着が、いや~ん! 脱がされちゃったわけで。
俺自身、気づかないうちについた傷が出てきた。
肩口と上腕のあたりだ、爆破の破片かなにかで切ったのか、あの霊石けっこう硬かったからな。
くそ、けっこう高い服なのに……
回復魔法呪符、使うほどでもねえかな。
「なんで早く言わないの。こんな怪我して……瘴気の強い場所なんだから、ちゃんとすぐ処置しないと病気になるかもしれないわ」
「ああ、そう、っすね」
意外だ、記憶や意識が錯乱して俺を自分の息子と勘違いしてるわりに、状況とかはちゃんと把握して、冷静に見ているようだ。
でもなあ、このくらいに傷で呪符を使うのもったいないっすよ、包帯巻くくらいしか、やることないですぜ。
「動かないでね」
彼女が、そう言う。
さらりと長い髪が、揺れて、顔が近づいて……う、うわ、まじで、なんつういい匂いなんだよもう……桃の花や果実みたいな匂いだ。
なにをされるのか、するのか。
薔薇色の唇が、濡れた唇が、ふ、触れ……うひょ~! い、いたいのに、きもちいい……
「あ、あ、あ、あの、マリエルさん」
「ママ、でしょ。もう……自分の母親になんて言い方するの。はい、終わったわ」
「え、はあ(いや、だからあんたみたいな美女母にした記憶は)って、うわ! え、うそ、治ってる!?」
ありえねえ、断じて言えるが魔導術の類を使った気配はなかった、魔法なんてちゃちなレベルじゃねえ……ただ、舐めて、キスしただけ? それで傷が治るのか? そんな加護や体質の人間がいるのか?
「忘れちゃったの? ママは、これくらいなら治せるって知ってるでしょ」
「はあ、ああ、そっすね(だから知らねえっての!」
「ふふ、困った子ね。あ、そういえば、あなたこれ、銃? なの?」
「え? ええ、そりゃまあ」
俺が背負ってた小銃を、マリエルさんは物珍しそうに見つめ、きょとんと首を傾げた。
うわ、こんだけ美人だと小首を傾げる仕草だけでも絶望的に美しいのか。
と感慨に耽りつつ、俺は背負紐を肩から外し、前に出す、ひょいと取られた。
「ちょ! あ、あぶねっすよ!」
「なにいってるの、あなたが持ってるほうが危ないでしょ。玩具じゃないのよ」
徹頭徹尾俺は子供扱いらしい。
いや実際一四のガキではあるんだが、マリエルさんは年上なわけなんだが。
そういや、このひと幾つだろう、四十路ってこたないが、三十路にしても、肌が綺麗だ、二十代……十代、ってことはない、この、物凄い肉付き、色っぽさ、そんなもんじゃありえない。
俺から銃を取り上げたマリエルさんは、しげしげと銃を見つめた。
「でも、変な銃ね、どういう構造なのこれ」
たしかにリボルバー式はまだ珍しい新型だが、そうまで珍しいか? 何年も前から、第一線級の装備としてあちこちで売られてる。
量産こそ難しいが、どうしても連発式の火力が欲しい狩人や魔猟師、精鋭騎士や傭兵なんかは、けっこう自費で装備してるのを見かける。
「リボルバー、っすね、これなんすけど、弾倉、こいつに硝薬と弾丸を詰めて、回転して連発できんですよ。知らないんですか?」
「初めて見るわ。あれ、ねえ、火縄がないじゃない。点火はどうするの」
うわ、まじか、火縄式銃!? いったい何年前の話してんだ、俺が産まれる前から廃れてる超旧式だ。
よっぽど田舎の出身か、もしかすると、けっこう長い間閉じ込められてたのかな、下手すると身内探すのも苦労しそうだ。
「あー、これっす。雷管っつんすけど」
「乳首!? やだこの子、そんな言葉どこで覚えちゃったのよ……」
「……(うわ、恥ずかしがるとこくそ可愛いな、ちきしょー)ちゃいます、雷管っす。これで着火すんですよ。叩くと火花が散って」
「あら、そうなの。便利ねえ」
これもまた、意外だった。
初めて見る道具、武器を、彼女は簡素で雑な俺の説明をひとくさり聞くだけで、自然に扱い始めた。
とても昨日今日武器を触ったものじゃない。
銃口は絶対に俺にも自分にも向けないし、銃爪にはなにがあっても触れない。
気付いたらもう弾倉の取り外しを流れるようにやってる始末。
肩付けし、照準に目を眇める姿なんて、まるで熟練の銃手さながらだ。
「で、そっちのは、剣ね。それならママも分かるわ。極東の日本刀ね」
「これ日本刀ってんですか」
「ふふん、物知りでしょ。そうよ。見たところ定寸の打刀だけど、目貫が逆目貫になっているわね、実用的な拵えだわ」
「はあ(いや、メヌキもギャクメヌキもなにがなんだかなんすけど」
銃より、剣のほうが詳しいのか、おかしなママがいたもんだ。
しかし胸張ってどやるとさらにデカパイが強調されて……くっ、奥さん、やばいっす。
とかなんとか、俺はマリエルさんとなにげない会話を重ねながら、小休止し、食料と水を摂取する。
思えば、森に入ってからあまり取ってない、今のうちに腹に入れておかないと、いつできるか分からねえ。
マリエルさんにも差し出すが「私は大丈夫、知ってるでしょ」だそうだ、だから知らんがな!
まさかダイエットってこたあるめえが、疲れた様子もないし、体力ありあり? お、おっぱいに、栄養蓄えてんすかね!
そういえば、超高位魔力保持者は、大気中の魔素からも変換するうえに、保有魔力で物凄い長時間の活動ができるなんて聞いたことあるが、まさか、そんな地上でも極限られたものにしかできない芸当、できるわけないし。
ともあれともあれ、しばらく休んで、それなりに疲れも取れた、いい加減動かねば。
あのやべえ魔物と仲間がどんだけいるか分からんが、どう考えてもやりあうのは分が悪い、せめてやるにしても一対一が限界だ。
マリエルさんの安全も考えないといけねえ。
俺はとりあえず索敵術呪符を出した、高えんだぜこれ……軽く呪印を切って地に投げると、地霊に触媒が作用して周囲の強大な魔力反応を映す。
びっくりした、札が生んだ魔法陣が炸裂するみたいに輝いたんだ。
ありえない……それだけのレベルの魔力量を持った『なにか』が周囲にいる? いやいや、きっと霊石の爆破でおかしくなってんだ、そうじゃないと説明できねえ。
早く逃げないとやべえ、もし遭遇したらマリエルさんを守るどころじゃないぞ。
残りのデコイ系呪符をバッグから引っ張り出し、俺は作戦を開始する。
「マリエルさん」
「ママ」
「……イエスマム。あの、ですね、俺がこの辺りで(地面に木の棒で描き描きする)囮仕込んでおくんで、こっち方面に向かってください。人里なんで。オーケー?」
「ノー」
「なんでノー!?」
「あなた一人残していけないわ。危ないじゃない」
「(いや、丸腰のあんたのほうが危ないっすよ)えーと、いや、大丈夫、問題ないっす。おっけー。よゆー」
「本当に?」
「はい(たぶん」
「……」
マリエルさんはしばらく考えて、それからおもむろに俺に手を伸ばして、ぇええええ、ぉおおおあああああ! だ、だだ、抱きしめられ、ひいい! 俺は身長一五七、マリエルさんは(推定)一八〇前後、二〇センチ以上の差によって必然的に俺の顔は、顔は……
お、おぱぱ、おっぱ……うわぁ、いい匂い、する……やぁらけえ……あったけえ……
「あ、あの……ちょ」
「あなたの言うとおりにするわ。でも、気をつけて、なにかあったらすぐ逃げるのよ」
「はひ……」
むぎゅぎゅんと超弩級爆乳で抱きしめられて頭を撫でられながら甘い声でそんなこと言われたら、肯定しかできねえじゃないっすか。
俺があまりの心地よさにぽわわんとしていると、マリエルさんは俺に、銃を返した。
え? いらないんすか? てか、むしろ丸腰のあなたに持っておいて欲しいんすけど。
と言いかけたが、その時にはもう彼女は、俺の指示通り歩きだしていた。
まだ顔におっぱいの感触の名残がある、おっぱい。
は! いかんいかん、俺は顔を振り振り、意識をしゃっきりと戻す。
あんな美人をこんな場所で死なせては男の名折れよ。
では作戦開始!
行動指針:とにかくあっちこっちに呪符を配置して撹乱。
に尽きる。
土を掘り返して埋め、石の裏に張り、藪の茂みに仕込む。
けっこう高級な対魔物用撹乱札である。
魔物が一定距離接近すると発動し、熱と魔力を生み出す、連中はその種の探査器官が発達しているものが多いし、感じ取った気配からして相応に高位の個体がいるから、探査魔法も使ってくるだろう。
ついでに服の切れ端も仕込んで臭いも紛らせておく。
ふう、まあこんなもんだろ。
本来の帰投ルートと逆方向に囮呪符の痕跡を残して、俺はそそくさとその場を後にする。
こういうのは素早くやらんとな、いざこれから帰還します、という段で敵に遭遇するなんて笑い話にもならねえぜ。
「ほう、小賢しいまねをするではないか。猿風情が」
背後から、低い、太い声がした。
冷や汗と共に振り返る。
いったいいつからそこにいたのか、そいつは立っていた。
そびえ立つ巨躯、おおよそ三~四メートルくらい、めちゃくちゃに発達した筋肉、ごわごわした黒い体毛。
二足歩行で直立し、人語を話すくせに、首から上は山羊のそれだ。
魔族、妖魔、悪魔、モンスター、呼び名は様々だ。
人間の世界と位相を隔てた世界、魔界に生息し、かつて人魔大戦で侵略を目論んだ連中。
容姿も能力も数え切れないほどあるが、魔界産まれの超生物は皆総じて魔族と呼ばれる。
その全てが人間に対して敵対的というわけでもないんだが、大抵の高位魔族は、人間に決して友好的とはいえねえ。
「あのぉ、つかぬこと伺いますが」
「言ってみよ」
「このまま見逃してお互いなにも痛いことせずに終わる、とか、なしっすか」
「ない」
「勝手に敷地に入ったこととか霊石爆破したのやっぱ怒ってます?」
絶対に、絶対に絶対に絶対に、悪魔や魔族が人間になんの対価もなしに無礼を見逃すわけないと思いつつ、聞いてみる。
手は既に腰の刀を意識してる。
「なにを呆けたことを抜かしておる。おぬし、あやつを取り戻すために来た人間どもの使い走りであろう。生かして帰さぬし、殺す前に知っていることは洗いざらい吐いてもらおう」
えー、んー? ん~? あやつ? 誰? マリエルさん? どういうことだ、取り戻す? 彼女はなにか重要な人物なのか?
あと、吐かせるってそれ、殺す前に拷問するってことですか。
交渉の余地、相互理解の可能性、なし。
しゃあねえ、やるっきゃねえぜ。
決めたときにはもう動いた。
俺は瞬時に銃を肩付けし、撃鉄を起こし、照星で狙いを定め、銃爪を絞って、撃った。
自分で言うのもなんだがいい腕だ。
四五口径の弾丸は山羊頭の眉間にぶち当たる。
だが、弾丸は野郎の頭を貫通せず、そのままぼとりとやつの足元に落ちた。
わかってはいた。
ハイレベルの魔族になると、攻撃に対して反射的な魔導力場を展開してる。
下手な攻撃なんぞ防ぐという行為自体必要としない。
そいつを打ち破るにはこちらも魔力――氣の力を込めた攻撃が必要になる。
俺は一発の弾でそれを確認すると、銃を捨てた。
「ほう、そのくだらぬ玩具は使わぬのか、小僧」
「まあね、これでも剣士目指してるんで」
銃を捨て、荷を捨て、俺は腰の一刀を抜いた。
小せえ頃から、爺ちゃんにきつくしこまれてっからな。
爺ちゃんと婆ちゃんには、母ちゃんしか子供がいなかったから、待望の男子で孫の俺はなにかと爺ちゃんに連れられて、狩りや剣術を教えられたもんだ。
爺ちゃん曰く、昔のニポンじゃ一五で元服、ならそれくらいまでにひととおり出来るようになっとけ、ってな。
ニポン、ってどこだろ、結局あの半ボケ爺の言ってることぁよくわからんかったな。
まあ、いいさ、それでも、教えてもらった術理に、間違いはねえ。
「面白い、遊んでやろう」
山羊頭はそういうと、太い腕を振る。
ごうごう音を立てて炎が生じ、同時にやつは巨大な諸刃剣を握っていた。
「炎獄大公ゾブロ様の配下。我が名は魔界炎獄地のヴィッカーズ、これなる炎剣は我が半身。さあ、とくと受けてみよ」
とまあ、ご大層に言いやがる、ゾブロ様とやらが、あの砦の主、とすると、こいつもけっこうな上位魔族か。
片手に炎を纏った大剣を担ぎ、ヴィッカーズと名乗る山羊頭は、じり、と足を半歩踏み出し、構える。
身の丈三メートルの巨躯、炎に変換され、轟々燃える魔力。
対するはその半分くらいしかねえチビの人間。
勝負は圧倒的に不利……いや、そう捨てたもんでもない。
相手は完全にこっちを舐めてる、これはかなりでかいポイントだ。
俺は静かに、剣先をゆっくり、下へ向ける。
息を吸う。
吐く。
血流に意識を向ける。
体の芯に巡る力を駆動する。
氷の礫を作れない、炎を生み出すことも、雷を放つこともできない、けれど、俺には、こいつがある。
こぉ――ほぉ――呼吸導引によって練り上げられる体内の『氣』は充溢し、炸裂の瞬間はあっという間に来やがった。
「どうした、来ぬか、ならばこちらから!」
焦れた野郎が、向こうからつっかかる。
大上段に振り下ろそうとする大剣の刃。
おそらく俺の腕を肩から飛ばそうというつもりだろう。
そう簡単に受けるかよ! 俺は、そのとき、既に先んじて動いていた。
真正面から相対した敵手の動き、攻撃の先を読む眼法も爺ちゃん仕込みだ。
力を抜いた膝、そこから下、地面を踏みしめる足先へ、一瞬にして強烈な力が生まれ、爆発する。
氣力を込めた俺の足が、踏み込んだのだ。
山羊野郎、ヴィッカーズが、目を丸くするのを俺は見上げた。
へ! ざまあみろ! 人間様を舐めてっから、痛い目に……合うんだぜ!
「せいりゃぁ!」
掛け声を吐き、俺は前に突進する勢いのまま、前転しざまに、下段から滑らせた剣先を横へ一閃。
不用意に踏み込んできたヴィッカーズの足に斬り込んだ。
狙いはきっちり、膝関節。
これが爺ちゃんなら完全に両断できたんだろうが、小兵の俺には半分までが限度だった。
硬え、形見の名剣でも切断しきれねえ厚みと強度、さすが魔族だ。
それでも、いくら魔族だって、膝関節を半分斬られてまともに立っていられなかった、巨躯がわざわいしやがったな。
ざまあみな、俺よりでかいからそうなるんだ。
と、自分よりでかいやつへのコンプレックスを感じながら、俺は転がる動作から一気に立ち上がり、剣を構える。
決して大きく構えすぎぬよう、油断なく剣先は前に向ける青眼。
――過剰な大きな構えは油断を作る、力みは不要。
これも爺ちゃんの教えだ。
腕を過剰に振る隙の多い斬法は悪し。
足、腰、肩、全身を用いる、刃筋を立てた利刀こそ善し。
だそうだ。
そいつに錬氣を乗せた一撃こそあれば、断てぬものなし、とも。
いやはや、まだまだだねえ。
「小僧、おのれぇ!」
やっこさんはまだヤル気まんまん、怒りに、そう、物理的に燃えて、剣を凄まじい速さでぶん回す。
もう俺を生け捕りにするとか忘れてんな?
人間は小賢しい術理に頼らなきゃいけねえが、魔族はその圧倒的な魔力や膂力に任せて戦えばいい、それだけで十分だ。
「ひ! っと! っぶねえ!」
俺は眼前を掠めすぎる燃える巨剣を前に、横へ跳び、転がり、必死に回避。
形見の剣を信じてないわけじゃねえが、操るのはまだ未熟な俺だ、受け止めたら剣は無事でも腕がへし折れかねねえ。
筋力では負けても、すばしっこさならこっちが上よ。
上段、横薙ぎ、次々に繰り出される山羊悪魔の斬撃を、俺はなんとか見切って躱す。
逃げてばっかりでもいけない、相手が大きく振りかぶった剣戟で隙ができたと見れば、すかさず踏み込んで小さくぱっと剣先を送る。
手首に、内腿に、幾らか斬り込んだ。
雄叫びを上げて顔をしかめるヴィッカーズ。
普通の人間相手なら、手首や腿に数センチ刃を通しただけでも、かなり戦力を削げるんだろうが……如何せん、相手は魔族だ。
くそっ、こっちも焦れて、飛び込んで、一気に勝負を決めにいきたくなる。
焦るな、くそ、内心ビビってる自分が嫌になるぜ。
なりの小せえゴブリンや、おつむの足りない魔血蝙蝠なら、俺も大胆に斬り込んで勝てる。
けど、こいつは違う、変に力んで攻めすぎれば一発でお陀仏だ。
「ちょこまかと……こざかしい猿めがっ」
忌々しそうに、手足につけられた傷から血を流しながら、歯ぎしりするヴィッカーズ。
一対一だ、一対二ならまだしも、焦ることはない、いや、マリエルさんのこともある、こいつの仲間が、来るかもしれない、できれば早く勝負を決したほうがいい。
けれど、だからといって焦って勝ちを求めれば、勝てない、それがこういう立ち合いだ。
また、爺ちゃんの教えである、かぁ~……ありがてえ、ゲンコツ食らって叩き込まれた諸々だが、こういう場ではほんとためになるぜ。
呼吸を整え、魔力――東洋魔導でいうところの、体内心氣を丹田で練り、剣先へと満たしていく。
今なら、薄い錬鉄くらいは断てるだけの氣が、ぐっと込められている。
俺は待つ、ヴィッカーズが焦れ、また大きな隙のある攻撃を出してくるのを。
今度こそ、こちらから一歩深く踏み込み、突きで心臓や、眉間を狙うつもりだ。
だが、俺はまだ、甘かった。
大あまちゃんだ。
相手は魔族だ、悪魔だ、魔界の住人だ、剣戟だけに拘泥して勝負を考えた時点であほたれもいいところだった。
「しゃらくさい。こうなったら、焼き尽くしてやるぞ、坊主!」
野郎、剣の柄から左手を離したかと思えば、そこに魔力で巨大な炎の玉を作りやがった。
ひとつ、ふたつ、みっつ……最終的に六つの巨大な魔力炎球が形成される。
昔見た魔道士の火炎弾の数倍はあるような、高密度の魔力が、肌にぴりぴりと伝わってきた。
「な! てめ、それ反則だろ! うわぁああ!」
反則もくそもねえ、こいつは殺し合いなんだぜ。
俺は走った、跳んだ。
飛来する魔力火炎玉から、必死に逃れようと。
脚部に練気を注ぎ、土をふっ飛ばして転がる。
寸前に回避したことはしたのだが、野郎の火炎は着弾した瞬間に、爆発した。
閃光――轟音――衝撃――
俺の 意識 掠れ 白 痛 痺れ……
くそ、やべ……痛え、痛え……
手、足、まだあるか、動く、ある、剣は握ってる。
顔を上げる。
濛々と立ち込める煙の中で、俺は、めくれた地面の上にいた。
震える足でなんとか立つ。
まだ頭の芯にぐらぐらとくる、ふっ飛ばされたときの余韻。
ようやく意識と視線を定めたときには、あまりに遅く。
俺は、あいつが、山羊頭の魔族、ヴィッカーズが、すぐ目の前に迫ってきているのに、ようやく気づいた。
「ぅあああ!」
叫ぶ。
意味もなく、恥も外聞もなく、びびって叫ぶ。
視界の端で煌めいたのが、やつの剣だと気付いたのは、偶然、直感だった。
慌てて体を沈め、躱す。
ひゅっと頭上を、燃える白銀の刃が一閃した、ブラウンの地毛が焦げて幾本か散る。
そして体を沈めた矢先、今度は目の前いっぱいに、俺の胴より太い脚が突っ込んできた。
剣戟に交えて、ヴィッカーズが蹴りを放ったんだ。
体格差一メートル以上ある、魔族と人間との間での打撃だ。
当たれば、俺は内臓を全部口と尻から溢れさせて死ぬだろう。
それは幸運だった、ただの運だった。
ふらついた俺は、剣を横に構えたまま、蹴りを避けようと踏み込む。
流れるような動きになった。
倒れ込む体勢が、そのまま鋭く刃筋を立てた。
最初に、手の平に、硬いものを断つ感触――下腿の骨を斬る心地。
そして太い筋肉繊維を、ぶっつりと斬る重い手応え。
最後に、粘りつくような血の尾を引きながら、俺は剣を振り抜いた、爺ちゃんの形見の刀を走らせた。
「ぎゃあああああ!」
蹴り出した脚を逆に斬られ、右の膝の下からをごっそり失った山羊悪魔が、おぞましい声を上げた。
やつは膝を突き、剣を突き立て、不具になった『四』体でバランスを取ろうと四苦八苦していた。
いくら魔族の生命力が常軌を逸していても、いきなり喪失した手足を瞬時に再生とはいくまい。
予想外の反撃と痛みにやつがふらついているのが、こちらの最大の勝機だった。
剣を地面に突き立て、杖代わりにしてたのも、幸運だった。
「どりゃぁあ!」
俺は腹の底から振り絞るように声を上げ、跳んでいた。
爺ちゃんの教えも半分頭の中から吹っ飛んで、無様に大上段に構えた一刀を、渾身の力で滾り落とす。
霊氣を込めた剣は、刃紋の色と混ざって、青白い軌跡を刻んで奔った。
それが物凄え量の血飛沫と混ざり合う、興奮した頭では、そのとき意識しえなかったが、とんでもねえ光景だ。
「がっ、ば……かな」
人間の、それもまだ十代半ばのガキ、チビのガキ相手に負けたなんて、考えもしなかったろう。
ま、こっちも命からがらの、運に助けられての勝ちだが、勝ちは勝ちだ。
爺ちゃんの形見の名剣に、頭から腹までぶった切られ、筋骨隆々の山羊頭は崩れ落ちる。
「ひい……は、はひぃ……」
俺といえば、その一撃に精根尽き果て、柄から震える手を離して尻もちだ。
情けねえ話だが、しかししょうがねえ、こんなレベルの魔族をタイマンするなんざ初めてだぜ?
むっと立ち込める血臭を、不愉快にも吸い込みながら、ぜえぜえ息を切らし、よたよた立ち上がる。
「ざ、ざまあみろ、チビだってやりゃできんだぜちきしょーめ」
強がりを言いながら、俺はようやく立ち上がり、分厚い筋肉と骨格の体躯に埋まった剣を抜こうとする。
む、この、こんにゃろ、筋肉が締まってんのか抜けねえ。
デカブツの巨体に馬乗りになり、俺は伝説のブリテン王よろしく、名剣を抜こうと踏ん張る。
その時だった、俺の前に、どっしーん、と、重量級の質量が出現した。
俺は顔を上げた。
目が合った。
ぎょろりと血走った、怒りと憎悪と敵意に満ちた目だった。
「ヴィッカーズ! おのれ、小僧、よくも同胞をっ」
腹の底まで響く野太い声を上げ、猛る。
そいつも悪魔だった。
ヴィッカーズに負けず劣らずの筋肉の塊みたいな巨躯をして、手には同じく巨剣を携え、全身から怒気よろしく炎のオーラを滾らせている。
山羊頭のヴィッカーズに対し、こいつは羊みたいな頭と角をしていた。
「ひぃい! ちょ、たんま! まだ、抜け……抜けねえ! ちきしょー! まて! ストップ!」
俺はもはやパニクる以外にない、なにせやっこさんの胴体にずぶりはまった剣が抜けないのだ、俺には王の資格がないとでもいうのか? まあねえわな。
ただでさえヴィッカーズとの戦いで疲弊しきっているのに、新たな敵を相手にまともに剣もないんじゃ話にならん、一瞬で丸焦げか細切れだ。
しかも野郎、待ったなしで剣を振り上げた。
生き死にを賭けた勝負だ、殺し合いだ、待ったなしは当たり前だ。
でもよぉ! こっちはこんなチビの人間だぞ? せめてもうちょいまともに正々堂々やりあっていいんじゃねえか?
俺の心のうちでの抗議も無視し、ついに迫りくる炎の巨剣。
しょぇええ! お助けー!
俺が泣き叫ぼうという、そのときだった。
突如、森の木々を蹴散らし、毒々しい色とぬめぬめした粘液にまみれたものが、出現し、無数の触手を繰り出した。
羊頭の怪物が攻撃を受け、よろめき、叫ぶ。
同じように、いや、さらに禍々しい声を上げて、それも叫んだ。
ぶっとい胴体に無数の触手、異形と言う他ない甲殻類の脚部で地上を闊歩するのは、海精の眷属にして、海神に連なる精霊。
俺も見たことがある、こいつは……クラちゃん(クラーケン)!
「ダイチ! 下がってて!」
烏賊に似たクラちゃんの胴の上に跨った、俺よりもさらにちっちぇえ人影が、叫ぶ。
藍色の髪をツインテールに結い、学校指定の水兵制服を纏い、凛々しく魔導剣と魔導杖を両手に握り、くりくりした子猫みたいな目で敵を睨む。
制服の上着を生意気に押し上げるぷりんとした胸よりも、俺はその下を見ていた。
こんな場で、こんな状況だが、男だ、仕方あるめえ、見てしまう。
(白か)
思わずそう考えてしまった。
スカートの丈はもうちょっと長いほうが、良かったのではないか、いや、いやいや、別にいい、これでいい、うむ。
ともあれ、俺の幼馴染のダチは実に頼もしかった。
奇襲というアドバンテージを逃すことがない。
クラちゃんが触手で羊魔族の首と手足を締め上げ、ぎりぎりと巻き付く。
相手もかなりの豪力で、しかも炎属性の魔導術を扱う、炎が吹き上がり、ぬめる触手を焦がし、剣戟が何本かの触手を引き裂いた。
硬質な甲殻腕が鋭い先端で突きを繰り出し、剣とぶつかり合って火花を散らす。
だが、やつは忘れていた。
クラちゃんの胴体の上に乗っていた小さな体が、消えている。
ジェリは宙を舞った。
髪と同じ藍色の魔力光が瞬き、魔導杖から迸る。
高出力の水圧カッター、水青精刃が、燃え上がる魔族の魔力障壁を貫通。
「ぐがあ!」
体のあちこちに小さい孔を開けられ、血を撒き散らして叫ぶ羊魔族。
そこへすかさず、クラちゃんの甲殻腕が、必殺の一撃とばかりに、ぶち穿つ。
ぶすり、だ。
腹のど真ん中に、鋭い一撃がぶっ刺さる。
さらに太い絶叫が木霊するが、それも長く続かなかった。
「はぁああ!」
可愛くも勇ましい声を上げ、宙を舞ったジェリの、小柄な体が、羊魔族に到達。
あいつは崩れかかった魔族の胸板の上に乗ると同時に、脳天に魔導剣の切っ先を突き立てた。
うはぁ、きっちり目と目の間に刃を埋めて、脳髄の真芯を捉えてる、いいセンスしてるぜ。
羊魔族のでかい体が、音を立てて崩れ落ちる。
すかさず細身の剣を抜き、残心に構えるジェリ、相手を倒してもすぐ油断しないあたり、出来てやがる。
俺より実戦の場数は少ない筈なんだが……堂に入ってるな。
完全に相手が沈黙したのを見て取ってから、ジェリは剣を血振りし、くるりと振り返る。
周囲の警戒は、クラちゃんがぎょろりと目玉を動かして行っていた。
使い魔持ちのいいところは、細々したことを使い魔に任せられることだな。
と、俺が想っていると、ジェリのやつは、きっ、とこっちを睨み、柳眉を逆立てて迫ってきた。
「このアホボケ間抜け! こんなところでなにしてんのよ!」
「お、おい、いきなりなんだよ……」
「なんだじゃないわよ! どうして禁足地なんかに来てるの! バカじゃないの! バカ! バカバカ! あんたもうちょっとで死ぬところだったのよ!」
ぷんすこむきむきと怒りに怒り、ジェリは物凄い剣幕で詰め寄る。
俺はあわあわと押され、しどろもどろに言い返すことしかできなかった。
「いや、その、このへんでお宝見っけてさ。上手いこと手に入るかな、って」
「ひとりで!? 死にたいの!?」
「うう……」
返す言葉もねえ。
現にジェリがいなきゃ絶対死んでたぜ。
「すまん」
さすがに俺も俯いて、そう言うしかなかった。
すると、きょとんとして、ジェリはむう、と言葉に迷った様子だった。
「べつに、いいわよ、分かれば。でも、あんまり危ない真似しないでよ」
「ああ。ありがとな」
俺がいつになく素直に言うと、ジェリはなぜか赤くなって顔を逸した。
「わ、わかればいいのよ。さあ、じゃあいくわよ」
「ちょいまち! あの魔族の武器持って帰る! たぶん高く売れるぞ!」
「ったく……バカじゃないの」
と言いつつ、ヴィッカーズと羊魔族の得物をクラちゃんの上に乗せてくれる、持つべきものは友達だな!
それと、俺ははっと思い出した。
「ああ、そうだ。あと、もうひとり連れがいるんだ。そのひととも合流しないと」
「え? あんたひとりじゃないの?」
「んー、まあ、その、色々あってな。説明すると長くなるんだが。向こう、街に戻るルートに先に行ってるんだ」
「わかったわ、じゃあすぐに向かいましょう」
「助かるぜ。あ、てかさ」
「なによ」
「お前、わざわざ学校休んで来てくれたのか? 俺の為に? そんなに心配させちまったのかな」
「は、はぁあ!? べ、別にあたしは……」
第一章 第四幕 【か、勘違いしないでよね! 別にあんたのこと心配できたわけじゃないんだから! あ、ちょ……あんた怪我してるじゃない! 早く手当しないと……ほら、手出して! 早く!】
妖邪の氣に侵され、瘴気満ちたる禁足の森であっても、昼間は陽光が差す。
まだ夕刻も前だ、深く茂った木々の合間、梢の狭間から、木漏れ日が幾重にも剥き出しの地表を、下生えを照らしていた。
されどその陽光さえ、そこではくすんでいた。
天に輝く恵みの化身、太陽さえも、直立するその輪郭の周囲では霞むのだ。
すらりとした長身は、一八一センチ。
歩くたび、そよ風に揺れる長い髪は、甘やかな香気も、色も、まさに桃花であり、桃実のそれであった。
だがなによりも彼女の美と雅を表出するのは、長い睫毛の下の黄金の瞳であり、白蝋の如きなめらかな肌と、麗貌であり。
衣服を押し上げる、悩ましさを極めた、女の肉の豊かさ。
天上の貴人とて、彼女を見れば、嫉妬に悶え苦しむのでは、あるまいか。
それほどの美女は、しかし、魔縁跋扈する森を歩きながら、少しの怯えも、気負いもない。
頭にあるのは、ただ――『息子』への心配ばかりだった。
「あの子ったら、ひとりで大丈夫かしら……昔はあんな泣き虫だったのに、男らしく振る舞おうとするんだから」
記憶にある諸々を手繰り寄せながら、天上美の女姓、マリエルは、小さく呟きを繰り返す。
なぜ、己はこんな場所にいるのか。
なぜ、あんなところに詰められていたのか。
諸々の疑問は、ある。
あるはずなのだが。
それら全てを、息子への意識、不安、愛が、翳らせていた。
息子、イーライ。
そして、夫、クロード。
愛すべきもの。
この世のなにより大切な、愛おしいもの、絶対に失ってはいけないもの。
ふたりのことが何よりも優先される、それ以外のことは全て瑣末事に等しい。
理性。
彼女の中に存在する正気の思考が、現状を把握し、認識していく。
肌に感じる気配から、ここが魔界の眷属の住処であることは確かだ。
封印から出た瞬間に感じた魔力反応からして、自分たちを索敵する存在も、把握する。
ならばどうする。
簡単だ。
おびき寄せればいい。
女――マリエルは、立ち止まった。
美しい黄金の目を眇める。
まるで、御子を抱く聖母像の如き面差しだった。
瞬間、彼女を中心に、壮絶な鬼気が放出された。
見えざる魔力の放射は、探索魔法を行っているものからすれば、銅鑼を鳴らして行うアピールにも等しい。
待つほどのこともなかった。
数分の間隔を置き、そのものたちは、出現した。
同時刻、ダイチの元に行っていた、山羊頭のヴィッカーズ、羊頭のナストフを除く、炎獄一〇騎の、他八騎。
彼らの筆頭、炎獄覇者のゾブロ大公を加えた、計九騎の魔界戦鬼である。
周囲の木々が一瞬にして燃え、焦げ散り、異形なる巨躯九つが、それぞれに尋常ならざる魔界武器の禍々しい輝きを放つ。
大気に満ち、視界を歪ませるほどの高温の炎氣と殺気に、音なき音が、みしりと発せられた。
「自ら我らを呼んでくれるとは、手間が省けたぞ」
巨大な破砕槌を構え、炎獄の魔公、ゾブロが言う。
太く、低い、殺意と憎悪に滾る声音である。
気の弱い人間なら、吹き付ける威圧感だけで失禁するだろう。
「ゾブロ様。ヴィッカーズとナストフは」
まだこの場に来ぬ二騎のことを、配下のひとりが問うた。
さもあらん、相手は、あの、マリエルなのだ。
魔界に産まれたあらゆる魔縁、あらゆる魔性で、その名を知らぬものなどいない。
言外に、戦うのであれば、総出が望ましい、そう考えているのは、当然だ。
しかし、マリエルの様子を見るゾブロは、息巻いて吐き捨てた。
「構わぬ。見たところ、こやつ、まだ完全覚醒しておらぬ。見よ、まだかの二剣も召喚できておらぬではないか。ならば、我らで十分よ」
そう、マリエルの成したあらゆる戦果、あらゆる破邪の激闘は、天の神仙の手による業物を伴っていた。
事実、ゾブロが以前マリエルと相対し、屈辱を呑んだ敗北を喫した際も、凄絶なる二振りの刃を前に、屈したのだ。
今のマリエルは、無手である。
なにを恐れることがあろう。
ぎりぎりと、魔力と殺意を燃やし、にじり寄る九騎の悪魔。
そのとき、だった。
立ち竦んでいるかと思われた、この世ならざる美貌のひとは、くつくつと、笑いだしたのである。
「ふふ……うふふ、あははっ♪」
なにがおかしい。
その場に居合わせた、全てのものが想ったろう。
いよいよ、この女は、風聞に耳にした通り、完全に『狂った』のだろうか。
だがそれは、彼らの無知の証明に過ぎなかった。
「ごめんなさいね。おかしくって。だって、貴方達、私が素手なら、勝てると思ってたんでしょ」
そう言うと、マリエルは、手を上げる。
握られた。
拳である。
一対、二個の拳が、ぐっと握りしめられる。
手甲を纏っているとはいえ、女の腕である。
轟っ。
背後から、いきなり仕掛けた。
人間の扱うそれを逸脱したサイズの、長槍であった。
魔力の炎に揺らめく穂先は、当たれば圧重ねの鎧さえ、泥細工の如く粉砕する。
穂先はマリエルを貫いた。
貫かれたマリエルの姿が霞んだ。
彼女が神速の踏み込みと体捌きで刻んだ、残像であった。
おぞましい音を立て、槍を繰り出した魔族、ゾブロ配下、屈強なる魔界戦士の首が、一撃で消えた。
切断されたのではない、あまりに重く速い拳を真ん中に喰らい、跡形もなく四散したのである。
どう、と倒れる屍に目もくれず、マリエルは脳漿と血潮まみれの手を開く。
粘ついた赤い糸を引く指が、むっと死臭を広げた。
「嬉しい、嬉しい……ああ、嬉しいわ。わざわざ私のところに来てくれるなんて。探す手間が省けたもの」
『息子』を守るために、おびき寄せた。
であると同時に、狩る為に、おびき寄せた。
魔族は殺す、悪魔は殺す。
殺す。
殺戮する。
絶滅させる。
例外はない。
許さない。
許さない。
お前らは――
記憶が頭の中でぐつぐつと煮え、正気の残り火を隠す。
認識はできないが、自分を突き動かす憎悪と怒りだけは分かった。
許さない、悪魔は殺す、魔族は殺す、例外はない。
嬉しげに笑い、絶世の美女は、殺意と憎しみに、甘い声を上げた。
「さあ、死んで、殺されて、死んで……殺す、殺す……殺す殺す殺す殺す! さあ! さあっ!」
女神のように美しく、天使のようにあどけなく、妖精のように可憐な女は、その場に地獄を生んだ。
「~~っ」
俺とジェリを乗せたクラちゃんが、ぶるぶると震えた。
まるで、なにかに怯えているようだ。
というか俺も、ジェリも、それは感じていた。
「その、砦の主の魔族なのかしら」
ジェリが、硬い声を上げる。
俺もそうかなと思う。
なんというか、上手くいえないのだが、威圧感……魔力を伴った、圧倒的上位存在、超生物の気配を、細胞が感じている。
気がする。
俺もジェリも、高位魔族種に相対した経験がないので、言い切れない。
気のせいであってくれればいいんだが。
それに、マリエルさんだ。
気になるぜ。
こんなときに、あのひとを森にひとりで行かせてしまうなんて。
しかも、俺たちが向かっている先、街への脱出ルート上に、強い魔力と気配を感じるのだ。
クラちゃんが、そちらへまっすぐ行くのを嫌がる。
契約主のジェリの指示に素直に従わないことが珍しい。
「もう、クラちゃん、ちゃんと向こうへ……って、あれ」
ジェリが、はたと顔を向けた。
茂る枝葉や草をかき分けて、長身の、すらりとした影が、歩み寄る。
見紛うはずもねえ、さらりと長い桃色の髪を揺らすのは、マリエルさんそのひとだった。
無事だったんだ!
「マリエルさん!」
俺はクラちゃんから駆け下り、近づいた。
マリエルさんはにこにこと微笑み、さきほど別れたときと『少しも違わない』姿で、小首をかしげた。
「もう、ママでしょ? この子ったら……そちらは、誰かしら?」
「え、ああ、そうだね『ママ』こっちは、あー、その、友達のジェリだよ。あと使い魔のクラちゃん」
「……っ????」
ジェリが、は? という顔で俺を見る。
言葉にせず視線と表情で「どういうこと? 誰よそのひと? ママ? なにいってんの!?」と言う。
俺も言葉でなく、視線と表情で「わからん、あとで説明するからとにかく話合わせろ」的な意思を伝える。
「ねえ」
「あ、はい、なんすかママ」
「それ……魔族、なのかしら」
どこか、冷たい、刃物みたいな声だった。
ほんわかとして、優しそうなマリエルさんが口にするには、似合わない響きだ。
視線は、ぬめぬめと粘膜に包まれた、クラちゃんに向いている。
たしかに、海に生息する魔法的生命、精霊の眷属にある魂に、現界する肉体を得ている使い魔のクラちゃんは、魔族にも近しい存在といえる。
厳密に言うと、精霊などの霊的存在と、魔族と呼ばれる魔界存在を明確に区分する方法というのは、ない。
どちらかといえば、人間に害になるものを、人間が魔族と呼んでいることが多いのだ。
人間に敵対したり、襲ったりしないから、違う、といえるだろう。
「違いますよ。使い魔っす」
「そう、よかった」
マリエルさんは微笑み、声音は優しげに響いた。
うん、やっぱさっきのは、聞き間違いだよな。
とにかく、帰ろう。
今日は疲れたぜ。
「あら! ちょっとイーライ、あなたまた怪我してるんじゃない? ママに見せなさい!」
「え! いや、だ、大丈夫っすから! ちょ、脱がさないで! きゃ~!」
「ちょ! ななな、なにしてるんですか!? ま、マリエル? さん? ダイチ! あんたなにちょっとうれしそうにしてんのよ!」
また俺の服を脱がして甘やかにキスしてくれようとするマリエルさん、嬉し恥ずかしの俺、それを見て真っ赤になりながらなぜか不機嫌になるジェリ。
そんなこんなで、奇妙な出会いと、発見と、戦いを経た一日は、終わりを告げた。
彼女がしたことも、彼女の正体も、なにも知らないまま。