第一章 第十六幕
ボクのママは元勇者
冷たく凍てついた王宮に、濛々と湯気がくゆる。
氷雪に包まれた世界に建てられた、異形に等しい壮麗の居城。
魔界の諸々が住まう城の中、火照りきった体が幾つか、転がっていた。
「ふう……良かったわ、大満足よ、ゾブロ様♥」
鈴振る如き甘やかな声音が、得も言われぬ艶然を湛えて囁いた。
羊のような角、縦に割れた紅い瞳孔、翼、尾、白い肌、黒髪。
淫魔鬼、ウェザビーである。
この極寒の高地に建てられた城の主でもある、妖艶の魔性は、ほんのりと上気した肌から、むっと甘い淫臭をかもし、身をくねらせる。
既に、城の広間には、彼女と、彼女と閨房の悦に燃え上がったものたちしかいなかった。
魔竜ヴォルカニックも、遠隔映像で会談に参じた『あの男』もいない。
乱痴気の狂態を視姦し続けるつもりもなかったらしい。
ヴォルカニックは、マリエル襲撃の為に、氏族の諸々に声をかけに向かっている。
襲撃はきっかり明日と決まっている。
それまで、多少時間もあろう。
「……」
淫魔の中の淫魔、淫魔鬼ウェザビーとの、濃厚な閨を共にし、ゾブロは言葉もなく熱くなった体で、どっかりと腰を下ろしていた。
肉体を交えた他の三騎の炎獄魔獣たちは、すでに戦支度をするため消えている。
「どうかなさったのかしら」
戯れるように、ウェザビーが問う。
さしものゾブロも、いささか緊張と、そして、隠しようのない恐怖とを、持て余していた。
他のものならともかく、これから彼らが戦おうとしているのは、あの『勇者』なのだ。
ひとの姿をした天の裁きなのだ。
「やはり不安かしら、あなたでも」
隠しても仕方のないことだった。
嘲りさえ交えたウェザビーの言葉に、ゾブロは頷く。
「そうだな。そうかもしれぬ」
「あら、殊勝ね」
「隠したところで意味がないわ」
「そう」
実際に戦う場に行かぬからか、それとも、ゾブロの怯えなど知ったことでないからか、はたまた、それが彼女の地金であるか。
ウェザビーはいつもと変わらぬ、超然と艶然とした様相で、優雅に長い黒髪を掻き上げ、けだるげに振る舞う。
だがやがて、おもむろに腰を上げると、着崩れていた革ボンデージを纏い、ゾブロの前に立った。
「渡すかどうか迷っていたんだけれど、やっぱり渡しておくことにしましょう」
「?」
言うや否や、ウェザビーは手を虚空に伸ばし、魔法陣を展開した。
そして彼女の腕の中に、一抱えある物体が、二つ、ごろりと現れた。
出現したその物体に、ゾブロは眉根をしかめた。
「なんだ、それは」
「秘密兵器、に、なるかもしれないもの」
妖艶に微笑みながら、ウェザビーは甘やかな言葉を重ねた。
「もしかしたら、逆効果になるかもしれない。あの勇者はこれでさらに危険になるかもしれない。でも、あながち使えるかもしれないわ。持っていったら良いんじゃありません?」
「……」
差し出されたそれらを見つめ、ゾブロはしばし、沈黙した。
「キャハハハハ! アーッハハハ! アハハハハ! あー! 楽しい! 楽しい! 楽しい!」
歓喜。
歓喜。
歓喜。
鮮血。
風刃。
閃光。
雷鳴。
熱波。
極寒。
殺戮。
殺戮。
暴虐。
虐殺。
――それはひとの形をした神威であり。
――それはひとの形をした悲しみであり。
――それは練り歩く復讐の化身だった。
報仇雪恨。
許せぬ仇に報いを、恨みを雪ぐ、一心不乱の報いを。
女は奔った。
女は振るった。
右手の天の剣を。
左手の地獄の剣を。
天剣は飃を生み、獄剣は灼熱の業火を吐き出し、それぞれの銀刃と赤刃は唸りを上げて骨肉をぶち斬る。
最初は敵意を剥き出しにしていた悪魔たちが悲鳴を上げて泣き叫び、苦痛と恐怖にのたうち回る。
街はもはや街でなく、修羅の処刑場であった。
雄叫びを上げ、一騎の魔獣、炎獄の悪魔が得物を突き出す。
遅い、あまりに遅い、マリエルの目からすればスローモーションに等しい。
首を軽く傾げて躱しながら、軽く右手を振る。
天剣宮毘羅の白銀刃が、微塵の手応えさえ感ずることもなく、魔獣の太い骨肉諸共、その得物を両断した。
戦意に染まる雄叫びが苦痛と恐怖に染まり、両腕を失った魔獣が転げ回って泣き叫ぶ。
戦うこともできなくなり、身を引きずって逃げようとした。
マリエルは蝶の翅を毟る童の笑みを浮かべて、次に無様に転がる魔獣の両足を斬り飛ばした。
どうせ殺すから意味はないのだが。
でも、そのほうが楽しい。
魔界の魔獣が泣き叫びながら命乞いをする。
死にたくない? 知ったことではなかった。
刃が数度躍り、臓物をぶち撒け喉笛を掻き切り、血飛沫のシャワーを作り、首を刎ねる。
刎ね飛ばした首を蹴鞠遊びよろしく足蹴にする。
ごろごろと不格好な蛇行をして敵の元に転がった。
悪魔以上の悪魔ぶりに、魔界の魔獣どもが血の気を失う。
そうだ、それでいい。
怯えろ。
もっと怯えろ。
泣け、叫べ、苦痛し絶望し、その果てに、死ね。
死ね。
死ね。
ただ死ね。
我が手による報仇に死に果てろ。
数匹の竜が飛翔して襲いかかる。
鋼鉄以上の硬度と強度を誇る爪と牙、超高温の火炎息吹。
右の天剣が風雷天神の神通力で応えた。
天の神の力である。
鋼を断ち斬る豪風と真空の見えざる刃が炎を両断し、その合間を、裁きの天雷が駆け抜けて竜を吹き飛ばす。
古ルーンを刻んだ積層鱗の装甲、なにするものぞ。
内臓も筋肉も脳みそもめちゃくちゃに爆ぜ飛ばした、汚穢な炸裂弾として滅する古竜たち。
「化物が」
吐き捨てるように、そのものがのそりと立ち上がって吠えた。
巨大な鉄塊を構えた、巨大な筋骨の五体を持つもの。
全身に燃え盛る魔力を纏った、牛頭の魔人――炎獄大公ゾブロ。
「あら、まだ生きてるなんて。ほんとタフねあなた。さすがは末席といえど、魔界十二神将の一騎だわ」
何度も刃を、雷撃を、炎撃を、様々な攻撃を浴びせてふっ飛ばした相手に、マリエルはうんざりといった様相で首を傾げ、眉根を歪める。
地面が揺れ動いた。
既にほとんど倒壊し尽した、無数の家屋の合間から、ゾブロをも上回る巨躯が出現する。
大空を自在に駆ける大翼も、今は再生しきっておらず、無残に千切れかかっている。
全身の鱗の装甲も然り、あちこちが裂けていた。
魔竜ヴォルカニック、超高位の古竜、そしてゾブロと同じく、魔界十二神将が一騎である。
「ふん。そっちもそっちで、まだやれるのね。落ちて潰れてくれてたら、手間が省けるんだけど」
「舐めるな人間。おぬしが死ぬのを見ずに果てるわしではない」
「なら残念。その願いは叶わないわ。だって、あなたたち、ここでみんな死ぬんだもの」
クスクスと笑いながら、マリエルは両手の剣を構える。
神に選ばれ、与えられた加護、最強の肉体と魔導の才能。
神が作り出した無敵の剣、一対二本の刃。
それらを持ち、なお、復讐の狂った憎しみ、怒りを燃やす精神が合わさったマリエルは、思考して自立する殺戮装置。
かつて魔界に名を馳せた魔神を殺す、人界の魔人である。
「如何にする、焔の牛神」
「手がない、こともない」
並んだゾブロとヴォルカニックが、言葉を交わす。
魔界十二神将の二騎が、配下と共に挑んだ決戦でさえ苦戦を強いられる、これが勇者の超力である。
果たして如何なる手が勝利となりえるというのか。
「あるならば早くせい。配下どもも死に果てた、わしの傷の治癒まで数分は持たせてほしいのだがな」
「……」
「どうした畜牛」
「しかし……」
苛立ちと共に問うヴォルカニックの言葉も遠く聞きながら、ゾブロは思案した。
本当に『これ』が役に立つのか。
ゾブロも、何故勇者マリエルがこれほどの狂態を示すようになったかは知っている。
知っているからこそ惑うのだ。
逆効果になるのではないか。
さらなり怒りと狂気に染まり、敗北するのでは。
だがこれだけやり合って、敗色が濃いとなれば、もう四の五の言う暇もない。
仕方なく、ゾブロはそれを取り出した。
魔法陣が刻まれ、そこから、布包みになった、二つの塊が出現する。
「あら、なにかしら。新しい玩具?」
マリエルは殺戮の喜悦に微笑を浮かべたまま、にじり寄る。
新しい魔界の宝具でも取り出したのかと、判じながら、しかし当然、怯えや不安は微塵もない。
どんな破壊力を有する宝具、超常の能力を持つ魔具、なんだろうと関係ない。
マリエルの魔力と神剣を前には、どんな武器も魔法も、さしたる脅威とはならぬであろう、その自負があった。
「いいわ、来なさい。いくらでも抵抗して、好きなだけ抗って、そうしてから全部ねじ伏せて殺してあげる」
ゆるり、ゆるりと、散らばる瓦礫と屍を踏み越えて歩み寄る、世にも美しき復讐の魔人。
音なき気迫の熱が大気を捻じ曲げ、沸騰させていく。
ゾブロとヴォルカニック、魔界十二神将の魔神も緊張に張りつめた。
そして、ゾブロは意を決し、その包みを解き、中にあったものを、二つ、マリエルの方へ、放り投げた。
鈍く重い音を立て、崩壊した街の道端に、ごろごろと、転がる。
「……」
マリエルはそれを、呆然と眺めていた。
構えていた剣先が下がる。
目を見開いて。
笑顔も失って。
女はそれを見る。
見つめる。
「……」
あれほどに、美貌に満ちていた狂気と怒り、戦意と憎しみが、なくなっていた。
マリエルはただ白痴めいた無表情でそれを見た。
剣が落ちた。
「……」
ふらふらと、マリエルは歩み寄った。
膝を突き、塊を二つ、拾い上げた。
「あ」
ようやく、声が出た。
意味のないつぶやきだった。
「あ、ああ……ああ」
桃色の髪を揺らしながら、黄金の目を涙に潤ませながら、狂気の復讐鬼が嗚咽を上げだした。
「うそ、うそよ、なにを、こんな……こんなの」
先ほどまで、炎獄の戦鬼を、暴虐の古竜を屠り続けた魔人の有様が、これか。
マリエルはその場にあるべき緊張や敵意、戦うために必要な全てを投げ出していた。
彼女の腕の中で、蛆虫が蠢き、腐った血が溢れた。
白濁した眼球が、二対四個、意味も意思もない視線を、虚ろに空へ投げ出していた。
夫を亡くした妻の腕で。
子を亡くした母の腕で。
腐肉と流血、蛆をたからせた物体は二つ。
それは、生首だった。
あの悪夢の記憶のままにある、あの時とまったく同じ様相の、父と子の首。
クロード・シモノフ。
イーライ・シモノフ。
マリエルの最も愛し、最も守りたかったものたちの。
――『ええ、そう、魔界の魔術使い、高名な職人に依頼して作ってもらったの。あの当時、そのままを再現するようにね』
――『たしかに、呪殺魔殺シャルプス卿は敗れて死んだし、失敗したかもしれないわ。でも全部がそうかしら? 勇者マリエルは殺せなかったけれど、でも、あの女の心は砕けたままではない?』
――『私はある意味で、成功していると思うわ。あの女の心はもう半ば死んでいる、砕けているの』
――『なら、もう一度あの時の絶望を味わわせたら、どうかしら? 意外といい線いくんじゃないかしらね。どう? ゾブロ様、試してみない?』
「ああ……ああ、ああああ!」
泣き叫ぶ。
女が泣き叫ぶ。
世にも美しい、天上の美貌が崩れて。
それまで、マリエルを支えていた、均衡が崩壊していた。
夫と子を無残に奪われた悲しみ、怒り、憎しみ、そして、復讐心。
突き動かされるままに報復の殺戮を行いながら、しかし、マリエルは血と臓物、死に満たされる地獄行に耐えられるほどの心さえ持っていなかったのだ。
かつて彼女を戦いで支えたのは、生きて帰れば愛するものとの日々があるという慰めだけ。
彼女の心は、その戦闘力に比べ、悲しいほど脆弱だった。
血みどろの日々、マリエルの心は捻じ曲がり、ついに現実を受け入れることを拒否し、ありえぬ妄想に生きるようになった。
復讐の怒りと憎しみはそのままに、夫と子供は『死んでいない』ということにして、現実逃避に陥ったのだ。
まさに齟齬である。
夫と子を殺された憎悪で戦い続けているのに、その夫と子が死んでいないと頭の中で設定しているのだ。
夢に見るあの日の情景は、夢である、悪い夢であると、自分に言い聞かせて。
それが、もし、実際手に取れるような形で、目の前に再現されたらどうなるか。
「いや……いやぁ! 嘘よ! こんなの……嘘! 嘘!」
長い髪を振り乱し、マリエルは必死に叫びながら、それでも抱きかかえた生首を――偽物であるそれを、離すことができない。
ただただ膝を突いたまま、存在しない救いを求めて天を仰ぐ。
なんという哀れで、無防備な様か。
だが、そんなことで、相対した魔界の兵が、斟酌する所以などありはしない。
すぐ目の前に炎獄大公ゾブロが立ち、豪炎を吹き上げて魔力を高める、巨大な戦槌を構えるのさえ、マリエルは意中になかった。
「呆気ないな、これがあの化物か。勇者か」
どこかつまらなそうに、呟き、ゾブロは遠慮せず――宝具を振り抜いた。
肉が潰れ、骨が砕ける。
血が撒き散らされる。
鈍い音を立てて転がっていく。
瞬間的に反射で発動した魔力障壁も、たちどころに破砕されていた。
たしかに勇者の力は圧倒的であり、凄まじい『差』を敵との間に隔てていた。
だが、如何にそうだとしても、相手は魔界十二神将なのだ。
僅かでも油断したならば、それは十二分に死の対価を狩り立てる。
まがい物の生首を抱きかかえ、狂乱した女など、もはやなんの脅威でもなかった。
さらに槌が唸り、魔竜が咆哮を上げて尾を打ち、魔光の矢を放つ。
血飛沫と激痛に苛まれながら、しかし、マリエルは、弱々しい声で呟き続けた。
「うそ……うそ……クロード、イーライ……死んだなんて……嘘だって、言ってよ……」
蹲る女の様相は、あまりに無惨であった。
彼女は今、勇者でも魔人でもなかった、ただの泣き叫ぶ童女だった。
第一章 第十六幕【クライベイビー】