第一章 第十四幕
ボクのママは元勇者
人間と魔物、両陣営の戦いがこうして地上で繰り広げられるのは、いったい何度目なのだろうか。
聖暦として数えられるよりも前、遥か太古、まだ先史文明の様々な文化華やかなりし頃より、さらに前、神も魔もひとより遠かった時代の、さらに、さらに前。
もはや数え切れぬであろう古から繰り返されてきた、終わりなき戦い。
しかし今日のそれは、戦いと呼べたのは、最初の遭遇だけだった。
治安官事務所、及び、教会騎士、合わせて総勢三〇名以上の戦力、全員が辺境に生きる強い男であった。
聖都の騎士とて馬鹿に出来ぬ戦闘集団であった。
それも今は、ほんの数名を残すのみ。
ふらりと体を傾がせながら、でっぷり肥えた男が、何度目かわからぬ転倒から、身を起こした。
彼は愛用の、大口径ショットガンを捨てた。
先込め式銃がまだ主流の中で、珍しい金属薬莢式の銃であり、再装填は迅速に行える代物だった。
だがどんなにリロードが楽でも、最低でも二本、まともに腕がないとままならない。
治安官の右腕は消失していた。
根本からざっくり千切れ、傷口は、煙を立てて熱されていた。
彼の腕をもいだ敵――豚頭の獣人魔族は、得物の大鉈を担ぎ、呆れ半分に嘆息する。
「まったく、よくやるな。人間にしとくにはもったいない意気よ」
「へへ、これくらいでへばっちゃ、部下に示しがつかねえからな。こいつらの弔いだ、てめえの命くらい、も……もらう、ぜっ」
息を切らし、言葉の合間合間から、血と喘鳴を上げながら、治安官は背に下げた斧を抜いた。
斧頭に青白く魔力の光が明滅し、彼に残された短い命の力が、破壊の力に変換される。
残された部下数名が、なんとか立ち上がり、命を預ける上司の、背後につく。
治安官の隣には、まだ五体満足であるものの、胴当てを破られ、腹からどろりと粘った血を垂らしながら、司祭が、両手でしっかりと剣を握っていた。
「お一人では行かせませんよ」
「これは頼もしいこって。死ぬ時のお祈りは頼みますぜ」
「口にする余裕があれば、ですが」
ふたりとも、顔は蒼白。
疲弊と流血で、立っているだけでも奇跡だった。
ふたりは、共に、前に踏み出す。
ふん、と、化物は鼻で笑った。
「阿呆が」
そう言ったのは、戦いの舞台になっていた、広場の近く、高い背丈の時計塔に爪を立てていた、火竜の一匹だ。
大いなる翼、魔竜ヴォルカニックの氏族である。
竜はつまらなそうに、口から息吹を吐いた。
丸々とした火炎の爆裂が、治安官と司祭に襲いかかる。
ふたりは死力を振り絞り、魔力を込めた斧と剣でこれに応じた。
凄まじい衝撃に、踏みしめた石畳が軋む。
濛々とたちこめる白煙。
晴れたとき、眼前にいた、魔獣の一騎が、迫り来る。
馬の首を持つ魔族、炎獄大公ゾブロの家臣が、愛用の宝具の長斧を、巨躯総身で振るい、ぶち当てた。
「がぁああ!」
すんでのところで斧を掲げた治安官が、血飛沫を上げて吹っ飛んだ。
残された片腕も、前腕からあらぬ方向に折れ曲がり、斧の柄もへし折れて、刃がどこかへ飛んでいく。
続く馬首魔族の、回転運動を活かした迅速の蹴りで、司祭の体が折れた。
声にならぬ絶叫と血を吐きながら、老いた司祭が転げ回る。
地べたに這いつくばる上司を前に、まだ、部下たちは武器を構え、せめて一矢報いんと、震えていた。
人間からすれば、炎獄の獣人魔族に加え、天空を支配する竜たちまで加勢する敵方は、絶望の権化であろう。
魔族からすれば、あまりに弱すぎて味気ない、余暇の狩り程度の気楽さだ。
その均衡を崩したのは、銀鈴の如き涼やかに甘い声音であった。
「ごめんなさい、来るのが、少し遅かったみたいね」
申し訳なさそうに告げる声のほうを、ひとも、魔も、見た。
そのどちらもが、一瞬見惚れてしまった。
声に違わぬ、絶世の美が、一個の実体として立っていた。
いつもかけている眼鏡を外し、陽の光を浴びて、黄金にも似た煌めきを帯びる、薄桃色の、長い髪。
長い睫毛の下の瞳は、琥珀の金色を持ちて、深く、深く、澄んでいる。
白蝋の美貌は天上神にも勝った。
ブラウスとスカートを押し上げる肉の豊かさに、どれだけの男が叶わぬ夢を見ただろう。
身長一八〇を超える長身が、静かに、ゆっくりと、血と死と火炎の臭いに満ちた、破壊の景観に踏み込んできた。
「……っ」
馬首、猪、豚、それぞれに異形の獣人姿を持つ魔族が、冷や汗を流して、武器を握る手に力を込めた。
以前味わった敗北と恐怖が、まざまざと蘇ったのだ。
竜たちも同じだ。
建造物の頂の上に立ち、今すぐにでも飛びかかり、あるいは、火炎を吐く準備をしながら、動けない。
音もなく、温度を上げて煮え滾る緊張と、敵意、殺意。
その中を、天工の作り給うた女神――マリエルは、どこまでも泰然と進んだ。
彼女はまず、傷ついた戦士たちに近づいた。
「大丈夫、まだ助かるわ。諦めないで」
その言葉を受ければ、たとえ死にゆく運命のものとて、笑顔で希望を胸に果てるだろう。
それほどに優しくいたわりに満ちた声と、笑顔だった。
マリエルがすっと手をかざすと、信じがたいほどの速度と緻密さ、魔力密度を込めた再生魔法が、生き残った戦士たちの血を止め、傷口を塞ぐ。
「マリエルさん……あなたはっ」
彼女がこれからなにをしようとしているか悟った司祭は、喉を詰まらせる。
止めたかった。
もう、彼女が地獄の戦場に立つのを、止めたかった。
だが、それが無理なことはもうわかっていた。
今、この地獄を終わらせることができるのは、彼女しかいなかった。
自分が教会騎士として務めも果たせぬことに、弱さに、老齢の男は、目に涙さえ浮かべたのだ。
そんな彼の内心など知らず、かつての勇者は、慈母の笑みを湛えた。
「さあ、あなたたち、今すぐふたりを連れて避難して。後は私の仕事だから」
「は、はい……」
まだ立っている、治安官事務所の部下たちにそう告げて、マリエルは、くるりと踵を返した。
瞬間――空気が軋んだ。
絶対の零度を持ちて。
「手間が省けたわね」
「なにがだ」
告げられる言葉に、意気軒昂と憎しみを滾らせる、血気盛んな火竜が一匹、問うた。
マリエルはゆっくり片手を掲げながら、静かに、だが、低く、唸るように、答えた。
「だって、そうでしょ? わざわざそっちから死にに来てくれたんだもの。探す手間がはぶけるじゃない。ね?」
瞬間、マリエルの姿が掻き消える。
それまで立っていた石畳の地面に、踏み込んだ際の衝撃で亀裂を生じさせ、その対価に得た強烈な加速が、彼女を突風に変化させた。
長い髪をなびかせ、世にも美しき女姓が突っ込んだのは、一番手近なところにいた、竜だった。
魔族の反射速度を以てしても、即応できぬ速さ。
振るうは拳打。
跳躍し、たっぷり体重と加速を乗せた拳は、当然、魔力を内に張り詰めさせている。
以前、ダイチに教えたのと同じく、彼女ほどの使い手であれば、あらゆるものに高密度の魔力を流して強度とパワーを高められるのだ。
並大抵の魔族など、素手で十二分に殺戮可能。
過たずマリエルの打撃が竜の頭を捉えた。
「!」
驚嘆したのは、なんとマリエルである。
軋み、撓んだのだが、鱗一枚破れず、硬質さと柔軟さを兼ね備えた竜の頭は、千切れることもなかった。
轟っ、と、反撃に長い腕が、鋭い爪を振るい、牙の合間から紅蓮が迸る。
マリエルは人外の反射速度でこれを見切り、攻撃の時以上の素早さで側方へ跳ね、回避した。
竜種がゾブロたち、炎獄の魔族たちを小馬鹿にしたのは、なにも彼らの由来が太古にあるからだけでない。
竜は魔界最強クラスの生物である。
肉体の頑健さだけではない、魔法術の凄まじさも然り。
勇者たち、そして、人間に敗北してよりの数十年、彼らはただ座して待っていただけなかった。
自分たちをさらに強化させるべく、鱗に、血に、肉に、術をこしらえ、呪を刻み、より強靭なる高みを目指した。
その結果がこれだ。
勇者の打撃を受けても傷つかぬ肉体。
鉄を溶かす火炎。
吐き出す息吹で街を焼き、竜は盛大に、咆哮を上げた。
「我らも遅れを取るな!」
火竜の息吹を躱すマリエルを追い、馬首が斧を打ち下ろす。
朋友に負けじと、猪も、愛用の宝具たる、ハルバートの穂先を突き出した。
両者の振るう武器の素早さは、以前よりも、一段回上のものに昇華していた。
かの魔王軍十二神将、淫魔鬼ウェザビーの閨房の秘術を以て身を重ね、体内の魔力を限界以上に高めた恩恵である。
満ち足りる魔力が、竜にも負けぬ豪炎を伴い、大気を引き裂く。
マリエルでさえ十全に躱しきれず、彼女の頬に浅く焦げた刃傷を刻んだではないか。
これは凄まじいことだった。
今まで相対した魔族の戦士のほとんどが、傷一つ与えられる屠られているのだ。
マリエルはさらに身軽に、力を脚に込め、ぱっと後ろに下がる。
いける。
勝てる。
三騎の炎獄戦士と竜たちは、勝利を夢見て沸き立った。
「ふふ……ふふふ」
そこに、甘く、妖しく、女の笑い声が、嘲りを含んで奏でられた。
マリエルだった。
まるで自分の危機を弁えぬ様は、まるきり白痴のそれだった。
「どうした、気が触れたかな」
「だって、おかしいじゃない。あなたち、もう勝ったつもりでいるんですもの。笑っちゃう」
「ほざくな。勝てるつもりか」
「それは、こちらの台詞。ねえ、忘れちゃったの? 私、まだ『武器』も出してないのよ」
「なに?」
マリエルは、一度永久封印の霊石に閉じられているはずだ。
その際、彼女の保有魔力と、かの凄絶な神の宝具/魔具も、凍結されたのでないか。
であるからこそ、勝機を覚えて挑んでいる。
だが、マリエルはそれを愚と嘲った。
にっこりと、女神は笑った。
いや、彼女は女神などではない。
勇者ですらない。
魔力が、黄金の光を紡ぎ、マリエルの豊穣の化身のような、肉感の肢体を包んだ。
閃光が煌めく。
纏っていたブラウスもスカートも分子分解され、形を失う。
たっぷり脂を乗せた、最上級の女の胸を、尻を、魔力を編んで再構成された衣服がぴっちりと包み込んだ。
大胆に、スリットの入ったスカート、胸元を涼しく開けた上着。
腕と脚には、手甲と脚甲が、薄くも強靭を極める装甲を堅める。
ふわりと長い髪をなびかせながら、マリエルは自身の魔力で編み上げた魔戦服を纏って毅然と立った。
見れば、もうとっくに、頬の傷さえ再生して跡形もなく、いつもの白く美しい肌を魅せている。
それだけなら、まだ、マシだったろう。
マリエルの右腕が、天を目指して掲げられた。
「天なる神の正義と秩序を、風雷の刃なりて顕現せよ」
その場にいた魔の全てが顔色を失った。
稲光がマリエルの細い手の先に生まれ、黄金と白銀が硬質に形を取る。
白銀色の刃を、黄金の柄と鍔を、壮麗にして優雅な意匠にて結実させた剣が、一振り。
天剣――『宮毘羅』――聖なる美しい天神の剣。
「獄の主なる、裁きの力、焦熱と氷獄よ、今ここに現れ、悪しき全てに断罪を」
左手が地に流れた。
地の底の獄界より出現するように、真紅の刃と漆黒の柄、漆黒の鍔を持つ剣が、左手の中に握られた。
獄剣――『破沙羅』――黄泉の閻魔なる怒りの剣。
なんという、ことだ。
マリエルはもう、この悪夢を、破壊と殺戮の、超神性の宝具と魔具を、召喚できるまでに、魔法能力を回復していた。
蒼白となる化物どもに、その化物をさらに超えた怪物が、にこやかに笑いかける。
「さあ、祈りなさい。自分の死に場所が定まったことに。一匹も逃さないわ。あなたたち蛆虫どもにできることは、ただひとつだけ……泣き叫んで苦しみながら、死ぬだけよ」
悪魔を殺す悪魔、化物を狩る化物。
マリエル・シモノフは女神などでなかった。
勇者ですらなかった。
復讐の魔人。
狂気と正気の相半ばする、虐殺装置。
木の薪材で鉄刀を防ぐ業前が、神の宝具と魔具を手にしたとき、どれほどの能力を示すか。
答えはすぐさま訪れた。
硬い石と煉瓦の家と、その上に乗っていた一匹の竜が、一斬にて四散してぶち殺された。
飛び散る血と臓物と骨と筋肉と脳髄。
散らばる屍の諸々を雨と浴びながら、その中を、大気の厚みを感じるほどの速度で、踏み込む、加速し、さらなる刃を二閃繰り出す、美麗の化身。
絶叫を上げたのは人間などでなく、超常の悪魔たちだった。
一対の神霊兵装を自在に繰る復讐鬼は、大笑いしながら、彼らを嬲り殺しにしていった。
これが笑わずにいられるか。
これまで一方的に殺してきたものたちが、逆に、一方的に狩り殺されるのだ。
滑稽極まる血腥い道化演劇。
しかし、果たして……化物とは、どちらのことを指すのであろう。
異形の魔族か、かつて勇者であった狂える魔人か。
応えられるものなど、誰もいなかった。
第一章 第十四幕 【鮮血舞踏】