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第一章 第十二幕

ボクのママは元勇者


 薄明かりの中、一個の、極めて完成し尽くされた、優美の個が、ベッドにいた。

 室内を満たす薄闇も、絞った照明の光さえ、彼女の周囲では霞んで、長い髪と白い肌の織りなす円熟の姿は、そこだけ輝いているようだった。

 眼鏡に理知の光を映し、上半身だけを起こして、ベッドで本を読んでいる。

 マリエルだった。

 勇者マリエル、マリエル・シモノフである。

 かつて名乗った、ウル・ドラグノフの姓を捨て、今は、人妻として、母親として、故郷の里で小さな店を切り盛りし、夫と子に尽くす、ひとりの女。

 時刻は夜半であった。

 いつもなら、夫と共に過ごすベッドの上で、人妻はひとり、夜の時間を持て余しているのだろうか。

 彼女の知は、かつて魔王打倒のために、聖都の聖十字騎士団訓練校、それも、特別に才能に溢れるものを対象にしたクラスで、懸絶を極め、剣の腕や魔法の冴えはもちろんのこと、数多の術や万古の知恵に関するまで多岐に渡る。

 そんな彼女が、いまさら書物でなにを知るかといえば、読んでいるのは、料理のレシピ本であった。

 世界を暴虐に染めんとした魔王亡き今、マリエルはどこまでもひとりの女であり、剣よりも包丁を振るうのが日常。

 考えるのは、明日の夕飯のメニューである。

 そんなときだった。

 おもむろに、ドアがノックされる。

「イーライ?」

 呼びかけるのと、入室は同時。

 可愛い息子は、おずおずと、彼女の前に現れた。

「……」

 自分の枕を持って、小さな影が立っていた。

 マリエルよりは、夫のクロードに似た子だった。

 髪は彼と同じブラウンヘアで、優しげな顔立ちも、小さい頃の彼そっくりだ。

 表情は、どこか申し訳なさそうだった。

「どうしたの?」

 それとなく、理由を察しつつ、問う。

 息子、イーライは、恥ずかしそうに答えた。

「今夜、一緒に寝てもいい?」

 と。

 マリエルはくすりと笑った。

「うん、いいわよ。いらっしゃい」

 はち切れそうなほど大きな胸に、引っかかっていたシーツをめくり、自分の隣の空間を、開けてやる。

 今夜は、夫のクロードはいなかった。

 マリエルが雑貨屋を営む傍らで、彼は両親や祖父から譲り受けた、村の田畑で汗を流している。

 収穫したものを取引するので、たまに離れた街や村の業者に会いに行くことがあった。

 その間、家や子供の世話をするのは、妻のマリエルの仕事だった。

 まだ幼い我が子は、父がいない寂しさゆえか、こうして同衾を願い出ることがある。

 マリエルは、堪らなく、優しげに笑った。

 イーライが、可愛くて仕方ないのだ。

 男の子としての意識が芽生えだしたのか、一丁前に自分の部屋や、ベッドを所望したくせに、寂しいときにはこうしてベッドを共にしたがるのが、余計に可愛い。

 マリエルとしては、毎晩でも胸に抱きしめて一緒に寝てあげたいのだが……母としての務めもあるが、同時に『妻』としての務めもあった。

 夫、クロードとは、魔王討伐のため、何年も離れてからようやく結ばれた念願の仲であり、結婚して何年も経った今でも、夫婦仲は、熱く甘い。

 流石にそういうとき、子が一緒では成り立つまい。倫理的にも心情的にもだ。

 イーライはベッドに来ると、自分の枕を置き、その上に頭を乗せる。

 位置は、ぴったりマリエルのそばだ。

 上から自分と息子、ふたつの体にシーツをかけ、マリエルはその中で、ぬくもりを分け与えるように、抱きしめた。

「ん」

 思わずイーライが声を出す。

 少年の顔と同じか、下手をすると、それより大きいくらいある果実が、谷間に彼を包み込む。

 だが拒絶はしなかった、むしろ擦り寄るように身を預けてくる。

(こうしてると、昔を思い出すわね……)

 嬉しそうに微笑みながら、マリエルはふっと意識を追想に流した。

 昔、というが、ほんのつい先日のように感じる。

 愛してやまぬ夫との間にできた、我が子、大きくなった腹を撫で、愛おしさに満ちた妊娠期間。

 やがて、産みの苦しみを経て出産し、抱き上げたとき、あまりの小ささに驚き、そして、溢れる愛情で胸が苦しくなった。

 喜びのあまり泣いたのは、夫との結婚式以来か。

 幼い子を抱きしめ、乳をやりながら、早く大きくなって欲しいと切に願ったものだ。

 元気に成長した我が子を、こうして再び胸に抱いていると、また、そのときのことを思い出す。

「早く、パパが帰ってくるといいわね」

「うん」

 この世のどこよりも落ち着く、母の胸に抱かれ、頭を撫でられながら、息子は小さく頷いた。

 マリエルも、微睡まどろむように目を細め、少年の細い体と体温を、愛おしく抱く。

「そうしたら、皆でどこか出かけましょうか。どこがいいかしら」

 堪らない幸福、満たされた日々。

 嗚呼、そうだ、こうして過ごすために、自分は苦難の旅と戦いを乗り切ったのだ。

「イーライ?」

 返ってくるべき返事が来ず、マリエルは首を傾げる。

 もう、眠ってしまったのだろうか。

 やけにぬるぬるする。

 手が濡れている。

 腐臭が鼻を突く。

 シーツの中の、胸に抱いた我が子を見た。

 そこには、真っ赤に血に濡れた、蛆のたかる腐った生首があった。

「いやぁああああああっ!」

 耳をつんざく悲鳴が溢れ出た。

 死んだ息子の生首を抱きかかえ、マリエルは半狂乱になる。

 死相の中、よどんだ虚ろな視線が母を見上げた。

 どうして助けてくれなかったのか。

 声なき少年の声がそう問いただす。

 ――ママ。

 最期に、首を刎ねられる寸前に上げた呟きが、脳裏にこびりつき、永劫逃れえぬ呪縛としてマリエルを責め立てる。

「ああ、ああ……あああっ、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ごめんなさい、イーライ……イーライ……」

 この世のなにより大切だったはずの家族を救えなかった後悔。

 自分のせいで与えた地獄の苦しみ。

 終わりなき絶望を、マリエルは血みどろになって噛み締めた。

 抱きしめた息子の首は、果てしなく冷たかった。


「はっ」

 シーツを跳ね上げ、マリエルは目を覚ました。

 泣きじゃくりながらの、目覚めだった。

「いまの……夢?」

 頭を掻き毟り、未だに瞳から流れ落ちる雫を認識する。

 寝間着のネグリジェは、汗でびっしょりと湿っていた。

 想像を絶する悪夢に苛まれ、今宵もまた、彼女は泣きながら起きた。

 息を荒くし、心を乱しながら、視線を横へ流し、壁掛けのゼンマイ式時計を見やる。

 まだ午前四時、起きるには早すぎるだろう。

「また……また、あんな夢」

 おぼろげであるが、脳裏に刻み込まれた悪夢の残滓は、濃く、恐怖と絶望をマリエルに刻んでいた。

 いつも、こうだ。

 途轍とてつもない悪夢が、夜毎に現出し、心に刺さっていく。

 それがいつから始まったのか知れないが、ほぼ毎晩、マリエルはああいう夢に責められていた。

 あるときは、夫。

 あるときは、息子。

 あるいは、その両方が、凄惨な屍と化してマリエルの前に出てくるのだ。

 その度に、マリエルは壮絶な罪悪感と絶望とに襲われる。

 なぜ、あんな夢を見るのだろう。

 だってそうだ、夫も子供も『生きている』のに。

 そうだ、死んでいるはずがない。

 生きている。

 それが現実という逃れがたい地獄から逃避するための、心が砕けぬための逃げ道だなどと、狂った人間に理解できるはずもなく。

 とうに心の砕けたマリエルは、安寧の揺り籠に自分を留めようとする。

 ――もう何年も悪夢を見ている。

 ――いつから?

 ――なぜ?

 ――そもそも、今は聖暦何年だ?

 ――ここはどこだ?

 どこかから聞こえてくる疑問符を、必死で引き千切り、マリエルは立ち上がる。

 ふらふらと、彼女はある場所を目指して歩いた。

 ひとつの部屋のドアを、ノックもせずに開ける。

「ああ……」

 嬉しさのあまり涙が溢れた。

 ひとりの少年が、ベッドで、寝息を立てて寝ている。

 行儀悪く、体にかけたシーツを半分ひっぺがしていた。

 記憶にあるより、体が逞しくはあるが、優しげな顔立ちも、濃いブラウンの髪も、夫にそっくりだ。

「イーライ……」

 しゃがみ込み、子の頬に触れ、手を握る。

 どんな悪夢を見ようとも覆せない、確かな感触が、ぬくもりがあった。

「よかった……生きてるわ、あなたはちゃんとここに『いる』のよね……イーライ……」

 我が子。

 この腹から産み落とし、抱きしめ、乳をやって育てた掛け替えのない宝物。

 壊れた心に癒やしを、砕けた心に安らぎをもたらす、まがい物の楽園に、マリエルは溺れた。

 やがて彼女は身を起こすと、悪夢を拭い去るように、我が子を強く抱きしめた。


 ん~~、むぎゅ、むう……なんだ、息苦しい。

 眠りの世界から半分目覚めかかってる俺は、まずそう思った。

 顔がなにか、ものすごく大きくて柔らかいものに押し付けられているのだ。

 そして……とても、いい匂いがした。

 甘い。

 満開の花、熟れきった果実みたいな、素晴らしくいい匂い。

 いったいぜんたいなにがおこっている。

 俺はむにゃりと眠気心地のまま、目を開いた。

 そしてその目を丸くした。

 どっっだぷ~~ん!

 そういう擬音オノマトペが盛大に脳内で鳴り響く。

 まさに、どだぷん、であった。

 真っ白だ。

 真っ白な、限りなくきめ細かく美しい肌が、途方もなく美しい塊を形成していた。

 ふたつのお肉の塊が、むんにゅりと谷間を作り出し、ぎゅっと押し付けられている。

 胸。

 乳房。

 おっぱい。

 それは男の夢見る理想郷、見果てぬ先にある楽園の地。

 豊かで大きいほどに男はそこに夢を見て、愛してしまうのだ。

 大きい胸が嫌いな男がどこにいる。

 凄まじかった。

 俺が見た中でこんなでかい胸は他に存在しないほどでかかった。

 纏っている衣服の胸元がきついので、少し開いている。

 そのせいで、深い深い谷間がまろび出ているのだ。

 というかネグリジェ姿がエロすぎる。

 信じがたいほど美しく豊かな爆乳の持ち主は、ひとりしかいない。

 俺は顔を上げた。

 そこには、この白い大きな胸を持つにふさわしい、天上の美人が、眠っていた。

「あ、あの、ま、マリエル、さん?」

 顔をむぎゅっと超絶でかおっぱい(いったい何センチあるんだろうか)に押し付けられながら目を覚ますという、おおよそ人類男子全ての希望を成し遂げた幸福か、はたまた、寝起きの体のアレのアレを知られそうなドッキリハプニングか、俺は上ずった声を上げた。

 すると、マリエルさんは目を開く。

 ちなみに眼鏡を掛けていた。

 フレームが歪んだり、顔に当たって痛かったりしないか、場違いに心配になった。

 眼鏡のレンズ越しに、安心しきった、幸せそうな顔が、俺を見て、薄く涙を浮かべていた。

「おはよう、イーライ」

「あ、はい」

「またマリエルさん、なんて呼んで。ママでしょ」

「~~っ!」

 マリエルさんは、聞き分けのない子供に言い聞かせるように囁きながら、また、俺の頭をぐっと引き寄せる。

 む、ふ、ぐぐぐぐ! うわ、うわぁ……な、なんだ、この天国……

 やぁらけぇ……あったけぇ……このまま溶けてしまいそうだ。

 しかも、なんつういい匂いすんだよ……

 そういや、司祭様が、彼女は仙桃の花の精だかの力を受けてると言ってたな。

 たしかに、これは、桃だ。

 超でっかく実った、桃、特大の桃の果実だ。

 ふわっっっふわ、もっっっちもち、しっとりの桃に顔を埋め、このまま窒息死したい誘惑さえ感じつつ、俺は理性で顔を引き剥がす。

 このまま抱っこされてたら! ほんとにバレちゃうよ! 今寝起きなの! 俺一四で色々持て余してるの! オトコノコなの! 股間のアレがアレでアレなの! わかって!

「あの、ですね、その……『ママ』。なんで俺のベッドに!?」

 と、当面の謎を問いただす。

 するとマリエルさんは、柔らかく、優しく浮かべていた微笑を、少し曇らせて、言った。

「ごめんね。凄い怖い夢、見ちゃって……ひとりで寝るのが寂しかったから、来ちゃった」

「怖い、夢?」

 マリエルさんは、こくんと頷く。

「あなたが、死んじゃう夢。凄くリアルで……苦しくて、ひとりで寝るのが、辛かったから」

「……」

「ごめんね、ママがこんなこと言ってたら、頼りないよね。パパには、内緒よ?」

 そう言って、マリエルさんは、小首を傾げて囁く。

 それが夢じゃないと言ったら、どんな顔をするだろうか。

 そのときの顔なんて、俺はできれば一生見たくはない。

 俺はまた、昨日と同じ、偽善の虚構を口にするしかなかった。

「そうだね。ママ」

 と。

 まったく、どうしてこんな運命になっちまったんだか……

 そうは想いつつも、マリエルさんの胸と、さらさらした、ピンクの長い髪から香る甘い匂いに包まれ、寝起きは格別の気分だった。

 起きるのがもったいないほどに。


 またもマリエルさんの、セーター&ジーンズ&エプロン、という極上のダイナマイトボディ、美貌を引き立てる姿を見ながら、彼女が手ずから作ってくれた朝食を頬張るという、幸福すぎる朝を迎える。

 髪型はポニテである。

 うなじが堪らんほど色っぽい……

 これで人妻、これで三十路、女の好みとしてやや年上好きの俺としては実にけしからんわけだが、しかし、今の俺は素直に彼女の魅力に耽るわけにもいかなかった。

 昨日教会で聞いた彼女の過去を考えると、どうしようもなく、やりきれない心地になるし、彼女が可哀想になる。

 前は、いっそ一刀両断に、ばっさりと、俺はあんたと他人だ、とはっきりさせたい気も大きかったんだが。

 あんな話を聞いて突っぱねられるほど俺も非情にはなりきれなかった。

 やがて、教会本部だの政府だの王様だのの、よーするに偉いひとたちが、彼女を治療のために精神病院とかそういう場所に、入れるように決めるのだろう。

 なら、それまでの間、息子として振る舞ってもいいんじゃないか、俺はそう考えるようになったわけで。

 自分の心が完全に均衡を崩さないように、という形なのか、マリエルさんは表面的にそうつくろうだけで、それはそういうものだと受け入れる様子だった。

 俺は飯を食い終えると、食器洗いをしているマリエルさんをよそに、庭に出た。

 日課の鍛錬である。

「うっし、やるか」

 呟きながら、先日、禁足の森でヴィッカーズと名乗る悪魔を倒した、爺ちゃんの形見の刀を取り出す。

 改めて見てやはり綺麗な、美しい刀だ、曰く霊刀だそうだが、その霊験あらたかな力とやらは、果たして俺に引き出せるかどうか、その兆候はいまのところまったくない。

 まあ、いいさ、ともかく――

「っ!」

 俺は氣息一声きそくいっせい、腹の底から呼気を吹きながら、無造作に一閃、刀を振った。

 自分で言うのもなんだが……速えぜ。

 伊達に名剣士の呼び名も高い、爺ちゃん、フドウ・タイチの孫じゃねえ。

 爺ちゃんに連れられて、狩りや魔物退治に行った経験もあるし、ここ最近はひとりで山野を巡って、小物の雑魚くらいならいなせる程度には仕上がってる。

 並大抵の大人以上には使えるという自信がある。

 それもこれも、日毎の鍛錬の積み重ねと……あとは、まあ……才能っすかね(キリッ。

 俺はまず一通ひととおりの型をこなす。

 重い鉄刀てつがたなを手に、たっぱ一五七というハンデはあるが、同い年の普通のガキよりはしっかり練り上げた体は、苦もなく剣筋を走らせた。

 型を終えると、次は、相手がそこにいることを仮定して動く。

 脳裏に浮かぶのは、燃え盛る炎氣を纏う、あのヴィッカーズだ。

 あのときぁ運良く勝ったけど、相手が遠距離攻撃を使うことを失念して、危うく死にかけた、次同じ状況になれば、間違いなく死ぬだろう。

 間合いを測り、振り払われる豪剣を見切って躱す、躱す、躱す――隙を見定め、踏み込み、篭手斬り、脛斬り、小刻みな攻めで崩しながら、一歩下がる。

 記憶に焼き付けた、炎弾攻撃。

 俺は前に飛び込んで掻い潜る。

 起き上がりながらの踏み込み、逆袈裟さかげさの一刀。

 脇腹を盛大に、斜め下から斜め上へ、深く斬り込んだ。

 魔力――霊気――心氣、呼び方は様々だが、生命が生まれながらに宿すエネルギーを込めた剣は、青白い軌跡を空中に刻みながら、綺麗に三日月状に弧を描いた。

「よし!」

 ガッツポーズ! 想像の中とはいえ、一度失態をかました相手にリベンジするのは気持ちいい。

 ただ単に自分の都合のいい想像じゃねえ、ちゃんと脳内に、一度見た相手の速度や重さをきちんとトレースしてのシャドー剣術だ。

 この辺も、死んだ爺ちゃんが、まだまともに剣を振れてたときに受けた薫陶だ。

 経絡と丹田で氣を練る、力を五体と一刀に流すには、精神集中とイメージ力が不可欠っつう話。

 なまじ下手な肉体の修行より、その手の精神修行のほうが、氣を高めるには大事だそうだ。

 場合によっちゃ実際に剣をるより、座禅を組んで氣の練りに重点を置く修行者もいるらしい。

 曰く、人間の筋力じゃ所詮、どれだけ鍛えても限界がある、しかし、氣と内功の力は無辺、だそうな。

 そんなことを抜かしてた爺ちゃんが、実際高めた氣を込めた拳骨げんこつの一撃で熊を殴り倒したところを目撃したことがあるので、俺はそのへんの修行にも時間を割いていた。

 おかげでけっこう氣の練りはかなりいい線いってるんだが、如何いかんせん、どういうわけか、俺は他の魔導術の術式を組むのが大の苦手だ。

 氣が燃料なら、術の式は内燃機関エンジンと、それと駆動させたタイヤやギアみたいなもんで、普通の魔道士や騎士なら、魔法術として、例えば炎を生んだり、剣や甲冑の上に障壁などを形成する。

 こうして外部に出力するのが多いのが西洋魔導、俺のように体内完結させるのが東洋魔導、だそうだ。

 当たり前だが遠距離攻撃も出来たほうが、めっっっっちゃ使いやすいし、実戦的なので、西洋式のほうが多い。

 体内練功に特化した東洋魔導使いでも、呪符を自分で作ったりするし、退魔の聖殿せいでん白煉寺びゃくれんじ白煉僧びゃくれんそうなんかは、術を仕込んだ数珠なんかで魔物を退治すると聞く。

 それができないので、俺は遠距離用に銃を使ったり、専門の術士の作った呪符を購入したりしている。

 爺ちゃんもそうだった。

 遺伝なのかな……他の人間はみんなできるのに、おかしなもんだよなあ。

 学校の魔導科の先生も首をひねってた「この世界でこんな人間がいるなんて」と。

 皆が皆、得手というわけでないが、まったくできない人間なんて前代未聞なのだろう。

 やれやれ、剣の腕の方はかなりいいんだけどなあ。

 と、俺は、考えを巡らせながら、また型を取り、動きと共に、体格の小さい体を補うべく、鍛えていく。

 ちょうどそんなとき、背後に気配を感じる。

 振り返ると、マリエルさんがいた。


「凄いわね。イーライ、そんなのどこで習ったの? 学校?」

 先ほどと同じ、セーターにジーンズ、エプロン姿のまま、サンダルを履いて、マリエルさんは庭に歩み出た。

 俺の練習を観察してたらしい。

 音にも聞こえた伝説の勇者様に褒められるというのは、なるほど、悪くない。

 しかしどう答えるべきか。

 俺は剣を爺ちゃんに習ったわけだが、俺の爺ちゃん、と言うと、それはつまりマリエルさんのお父さん……お義父さん? になるわけだ、これは、彼女の中で矛盾を生じさせてしまうのではないか。

 苦肉の策で、俺はでたらめを口にした。

「み、見よう見まねだよ」

「それにしては、堂に入ったものだったわ。もう練気なんてできるの?」

「うん、まあ」

 答えつつ、ふと思う。

 かの勇者、ウル・ドラグノフから、直々の教えを頂く機会なのではないか? と。

「あの、マリエルさん」

「ママ」

「ママ。良かったら、剣教えてもらって、いい、っすか」

 と言うと、マリエルさんは少し、困ったような、悲しいような顔をする。

「あなた、剣士になりたいの?」

「ええ」

 そこはいちおう、迷わず本心で答えておく。

 冒険、戦い、一流の剣客けんかく、ガキ臭い男の野蛮趣味と言われようが、そういうものに憧れてしまうものなのだ。

 この辺も多分に爺ちゃんの影響がある。

 マリエルさんは視線を伏せ、一瞬なにかを考えた。

「剣も戦いも、私はあなたにさせたくないわ。決して安っぽいロマンチシズムだけで語れるものじゃない」

「……」

 うっ、そう言われると、声もない、なにせ彼女は血みどろの戦いを勝ち抜いた正真正銘の勇者である。

 だが、そこで苦笑して、頷いた。

「けれど、まだあなたに人生の選択を迫るにも早いし。覚えておいて損のあることじゃないわね。いいわ、私が訓練を見てあげる」

「ほ、ほんとっすか! ありがとうございます!」

「もう。ママに他人行儀な言い方して。あ、じゃあちょっとまってね。えーっと……これでいいかしら」

 と言いながら、マリエルさんは庭の周辺をきょろきょろと見回し、ひょいとなにかを拾い上げた。

 ん? 俺は目を疑った。

 彼女が手にしたのは、ただの棒きれだった。

 そこそこに太く、長さ六〇センチあまりの、まだ切断して揃えていない、薪材。

 それを片手に握り、マリエルさんは俺を笑顔で見て、言った。

「さ、まずは私に斬りかかってきて」

「……え~~~!?」

 俺はあっけにとられた。

 いや、いやいや、奥さん、俺が手にしてるの見てわかりませんか。

 これ、いや、真剣、マジモンのブレード、ソードなんすけど。

 研ぎ上げた見事な刃面はめんの刀ですよ。

「え、あの、それはちょっと」

「いいからいいから、本気で打ち込んでいいわよ」

 ニコニコ笑顔で言うマリエルさん。

 もしかして担がれてる? からかわれてるのか。

 俺は不承不承に眉根をしかめた。

 いくら美人で優しくても、男の子だぜ、意地やメンツがある。

 それとも、俺の剣戟けんげきくらい薪材で余裕とでもいうのか。

 本気で斬りかかるのは気が引けるが、ちょっと脅かすくらいならいいだろう。

 俺はすっと、剣を真正面に構えた。

「じゃあ、いきますよ。気ぃつけてくださいね」

「いつでもいらっしゃい」

 あくまで笑みを崩さぬマリエルさんに、俺は、一気に行った。

 一息、一呼吸。

 自分でも会心の踏み込みであり、斬り込みだった。

 大きく振りかぶる必要なんてない、青眼の基本構えの中から、腹の中に込めた力を注ぎ、関節を、筋肉を、体移動による重心を流して刃に巡らせる。

 たとえ相手が大人の一流の剣客でも、そう安々と見きれないという自信のある一閃だった。

 軽く篭手に、触れない程度に剣を向かわせる気持ちで。

 だが、いったいどの段階で感知したのか、マリエルさんは、俺が刃圏じんけんを奔らせたときには、既に手首を返していた。

 受け止める気か? 木の棒で? 内勁ないけいを込めた俺の剣を?

 答えはすぐに出た。

 がぎっ――という音色で。

「な……うっそだろ」

 思わず声に出てしまった。

 俺は見た、目を見開いて、阿呆みたいに見た。

 マリエルさんの握った薪材が、俺の剣を受け止めている。

 表面の木皮もくひがめくれることさえなかった。

 まったく形態の変わらぬ薪材が、鋼鉄を鍛え研いだ刀を、硬く防いでいる。

 いや……いや、いや……じゃり、と音を立てて、削れている。

 俺の剣のほうが!

 俺は慌てて一歩退いた。

 見た。

「うそだろ~!」

 また声に出た。

 あの、爺ちゃんが堂々と自慢した霊刀の刃筋が、僅かに、ほんの僅か、何十分の一ミリほど、削れている。

 とほほ……研ぎ直したほうがいいかな。

 などと言ってる場合じゃねえ! 俺は顔を上げる。

 何度見ても、マリエルさんの薪材には傷一つなかった。

「わかったかしら」

「なにがでしょうか……」

 ぽかんと放心した俺は、またも阿呆のように言った。

 マリエルさんは、少し申し訳なさそうに答える。

「練気、練功のみょうは、一日いちじつにして成らざり。と言ってね、見たところ、あなたがしていた体内駆動の内魔導ないまどうは、その年では見事だけれど、まだまだ練りが甘いわ。もっと集中して丹田から手の先まで流すの。いい?」

 マリエルさんは、そう言いながら、足元にあった小石を、こんと蹴り上げる。

 瞬間。

 一閃。

 俺が、名剣士の爺ちゃんに鍛えられ、並の大人よりか使えるという自信のあった俺が、まともに動きを追えないほどの速さで、マリエルさんの腕が消失した。

 消えた、というのは、つまり、動きを認識することもできないほど、速かったわけだ。

 ぱんっと乾いた音を立て、煙が舞う。

 小石は、砕けた。

 それも、破片が散らばることもない、破片というサイズにさえならなかった。

 風に流れ霧散するほどに粉砕されたのだ。

 いや、つうか……今の乾いた、弾けるような音……もしかして音速突破の衝撃か!?

 なんかの書籍でそういう現象が、あるとは、聞いていたが。

「それができれば、ただの薪材でも、この程度はできるわ」

「ひぇぇ~、す、すげえっす」

「あなたも基本の型や動きは、もう十分にできているようだから。今後はもう少し氣の練りに重きを置いてみて? さあ、受けてあげるから、好きに打ち込んでいいわよ」

 と、マリエルさんは軽く棒を持ち上げ、両手で構える。

 あの様子じゃ、俺がどれだけ打ち込んでも、心配はないだろう。

 いやぁ~……さすが、伝説の勇者だわ、こんなレベルの使い手がいるなんて、想像もしてなかった。

 こりゃ爺ちゃん以上は確実だね。

「わかりました、じゃあ、行きますよ」

「ええ。いくらでも」

 俺は斬り込む。

 マリエルさんは、笑顔のまま、エプロン姿でそれを受け止めた。


 ひい……ひぃぃ~……

 あれから、何分経ったか。

 俺はもう、けっこう、疲れた、汗だくだ。

 マリエルさんは薄く汗をかいてこそいるが、息は乱れてない。

 やべえっしょ元勇者さん、バケモンっすか。

 さすがは神様が選び、様々な加護と妖精の力まで注いだ伝説の救世主、そこらのガキとはものが違うのか。

 息の切れかかった俺が、膝を崩しそうになると、マリエルさんは苦笑する。

「そろそろ終わりにしましょうか。あなたもいい練習になったでしょ。でも、最初の動きを見て、もう少しできると思ったんだけど」

 まるで教え子の不出来を、叱りもせず、今はそんなものか、と満足するように、マリエルさんは言った。

 さすがにかちんときたぜ。

 そりゃまだ修行中のガキですけどね。

 プライドっちゅうもんがあるんですよ!

「もう一撃だけ」

 俺はそう言い、構える。

 上段だ。

「いいわよ」

 マリエルさんは、薄く微笑んでゆるく構える。

 俺の疲弊具合、今までの手合わせから、実力を把握しているのだろう。

 だが、舐めてもらっちゃ困るぜ。

 まだこっちには『秘策』があるんだ。

 俺は、息を整え、精神を深く集中した。

 再び体内で力を巡らし、高め、剣に満たしていく。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 呼吸と共に経絡を流転させた勁力を、そこで、一気に炸裂させた。

 俺の中で爆発する『力』が、刀身を介してぶち撒けられた。

 あのマリエルさんが、目を丸くして、その剣を受けた。

 鈍く、鋭く、重い音と衝撃……

 手応えが、じーん、と肩まで響いてきやがる。

 衝突のあまりの勢いに、薄く煙を散らした、二本の線の結合点を見た。

 今度は結果は逆だった。

 俺の『秘策』を使った剣は、マリエルさんの持った薪材――魔力を流し超鋼と化したそれを、見事に切断していた。

「まあ……まあ、まあ……イーライ、あなた、それどうしたの」

「へへ、秘密っすよ」

 と言い、俺はへたりと腰を落とす。

 つ、疲れた~……むりだ、もうむりっす、魔力からっけつ。

 そんな俺を見下ろしながら、マリエルさんは心からの賛辞として言葉を投げかける。

「あなたにそんな才能があったなんて。驚きだわイーライ! パパが帰ったら、自慢しないとね」

 だから、イーライじゃないっす、ダイチっす。

 フドウ・ダイチ。

 あと旦那さんも、パパも、帰ってこないと想いますけど。

 それは胸の内に飲んで、俺は頷き、汗を拭いた。

 そのときの俺は、まだなにも気付いていなかった。

 里から遠く、何キロも離れた先で、遠隔転移魔法が発動されてることも。

 かつて魔王の手下で、十二神将と呼ばれた超級の魔物が現出していることも。

 なにもかも。


第一章 第十二幕 【ドキッ! 俺とママとの熱い朝!】

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