第一章 第十幕
ボクのママは元勇者
そうして、勇者様は、もう勇者でなくなっていた。
ああ、そうだ……彼女のそれは、もう英雄の行為ではなかった。
後先なにも考えず、ただただ魔族を殺すことしか、彼女にはなかった。
せめてもの慰めは、彼女が決して人間が死なないよう配慮していたことだが。
戦いの後の壮絶さは、言語に絶するものだった。
幾つもの山や谷が消滅し、港が潰れ、川が消滅し、地表がひっくり返る。
教会騎士団や各国の王族、政治家……様々な要人が使者を出し、活動を控えるよう言ったが、彼女は聞く耳などなかった。
最初のうちは補佐するために騎士隊が派遣されたが、それも変わった。
彼女を助けるのでなく、彼女の被害を抑えるため、近隣住民を避難させたり、警告を出したりね。
勇者マリエルの名が、穢れていった、おぞましい破壊者として。
憂慮した当時の枢機卿と国王陛下は、そこであるひとつの考えを実行した。
勇者の名を残しつつ、マリエル様の名と切り離した。
ああ、そうだよジェリ。
それが理由だ、彼女の名が教科書や、様々な歴史書から葬られているね。
勇者の名は、彼女の旧姓のウル・ドラグノフとして残し。
復讐鬼マリエル・シモノフの名は、徹底して消し去った。
だから、彼女が結婚したことや、フルネームはどこの本にも載っていない、全て発禁し、処分したんだ。
国を救い、世界を守った英雄に、我らがした仕打ちだ……罪深いな。
彼女は、それさえどうでもよかった、一日とて休まず、きっと、あの生命力のまま、最低限の活動以外全てを殺戮に傾けた。
かつていた世界中の魔物の数が激減したのは、そのせいだ、昔はもっと多かったんだよ。
勇者様の力で、何年も駆除が行われ、彼女は、たったひとりで、億にも達する数を屠り、数千ともいわれる数の種を根絶やしにした。
もう、人間のそれではない……
天変地異だ、歩き、憎む、血を流す災厄だった。
そして、彼女を目撃した、最後の人間は……私なんだ。
今から四〇年ほど前だろうか、私が、この区域の教会で務めだしたときの、ことだよ。
マリエルが来た。
勇者が。
狂った殺戮魔が。
悪魔を殺す悪魔が。
魔人が。
教会騎士団の中で密やかに交わされる情報。
牧場の人間は、家畜に被害が出ないか怯えきり。
農家のものは田畑を案じ。
商人は逃げる準備をしていた。
ふらりと、その影は訪れた。
誰もが目を奪われた。
ほぉ、と、ため息が漏れる。
すでに三十路を過ぎていたが、彼女の持つ圧倒的な美は、いささかも衰えていなかった。
ただ微笑んでいる姿からは、巷に広がる破壊神、魔人の噂が想像できないほど、慈母の気配を湛えていた。
「勇者様、お久しぶりです……」
進み出たひとりの男が、声をかけた。
誰あろう、かつて共に世界を救うため、魔王の軍勢と戦い抜いた、教会騎士、今では、司祭としての地位にも慣れた、タロン・ブラックであった。
マリエルは一瞬、きょとんとし、やがてすぐはたと気づいた。
鈴が鳴るような綺麗な声で笑い、目を細める。
「ええ、久しぶりですね、元気でしたか」
「あの……は、はい……お陰様で」
あの日。
今から、数年前の、陰惨で消し難い過去。
クロード・シモノフ。
イーライ・シモノフ。
彼女の夫と子が奪われたときのことを、忘れた日はない。
どう、言うべきか、なにを言うべきか。
司祭は言葉に迷った。
「どこへ行かれるのですか?」
「この近くの森でね、探査に引っかかったの。かなり上位の、もしかしたら、取り逃がした十二神将かもしれない魔族よ。禁足地だけれど、見逃せないわ」
かつて魔王の直下にて、猛威を奮った十二神将、魔界最高位の魔族たち。
その中の何騎かは、生死不明、あるいは、逃亡したものもいる。
教会騎士団も捜索しているが、未だに発見には至っていない。
禁足地と聞き、司祭は眉根を歪めた。
マリエルの強さは知っているし、信頼もしている。
だが、たったひとりで、しかも、延々と戦い続けたうえで赴くのは、あまりに心配だ。
もはや、教会騎士団も、国も、誰も彼女を援護などしないのだ。
「勇者様。少し、お休みになられたほうがいいのではありませんか」
「どうして?」
「無理をなされると、危険です……なにかあれば……」
言葉に、詰まる。
それでも、彼は告げた。
「おふたりが……亡くなられたクロード様も、ご子息も悲しまれます」
と。
すると、マリエルは、きょとんと首を傾げた。
まるで、なにを言われたか理解してないようだった。
彼女は童女のように、くすりと笑った。
「あはは、何言ってるの、おかしいわ」
「え? なにが」
瞬間、そのときこそ、本当に、司祭は背筋が凍った。
「ふたりはおうちで待ってるわよ、元気で、わたしの帰りをまってるの。だから、はやくみんな敵を殺してかえらないと、ね? ふふ、冗談言っちゃいやよ」
澱み、濁りきった目の奥底に、黒々と揺蕩う混沌。
悲しく辛い想いに、司祭はそのまま泣き出したいほどだった。
彼女はもう正気でなかった。
狂気だけが彼女を支えていた。
魔族への腸を引き千切るような憎しみと怒りの炎をそのままに、しかし、それだけで生きるには、あまりにマリエルの心は弱く。
そうして、逃げ道を、作っていた。
夫も子供も、死んでいない、生きている、そういう幻想を、妄想を。
司祭は押し黙った。
応える言葉などなにもなかった。
「じゃあ、私もう行くわね。元気でね」
残酷な真実と世界に背を向け、空虚な狂気の慰めに堕ちた復讐の魔人は、足取りも軽く、森のほうへと向かっていった。
それが、公式に記録されている、マリエル・シモノフ……勇者ウル・ドラグノフの、最後の消息だった。
当然のように、消えた彼女を捜索することなど、騎士団も、国も、誰もするものはいなかった。
今から、四〇年以上過去の話である。
俺は……俺は、言葉もなかった。
ジェリも、なにも言えなかった。
なにを言えばいいんだよ、くそ……
後味が悪い、胸糞悪い。
司祭様から、マリエルさんの過去を全部聞いて、しばらく、俺もジェリも固まったままで。
マリエルさんが、どうしてああいうふうに、霊石に封じられてたか、その経緯はわからないが。
司祭様は「おそらく、敵の高位悪魔……ダイチの見たというやつが、かけたのかもしれないな。斃せはしないが、封印はしようと試みたのだろう」っつってた。
憶測だが、そう間違ってないかもしれない。
聞く限り、マリエルさんの力は、魔王に近しいレベルだ、人間はもちろん、魔族だって勝てるやつはまずいねえだろう。
俺は、今後、どうしたらいいか聞いた。
マリエルさんの素性が知れた以上、いつまで俺のうちに預かっているべきか。
彼女を、今後、どう扱えばいいか。
「とりあえず、教会本部に報告する。返事は……すぐには来ないだろう。結論を早急に出すことはできない、事態が事態なだけにね。だから……ダイチ、すまないが、もうしばらく彼女を泊めてあげておいてくれないか」
「そりゃ、別にいいっすけど……でも」
でも、どうすればいい。
その『後』、彼女はどうなる。
どうなっちまうんだ。
俺の言いたいことを察した司祭様は、視線を下げ、沈鬱に言った。
「私にも、言い切れないが……彼女は、精神的な治療が必要だ……今は、昔に比べて魔物も、少なくなっている。魔物の出現しないような、都市部の精神病院に隔離して……」
「どうなるんすか」
「静かに、過ごさせるしかない……だろうか。壊れた心が、戻る保証はないが。せめて、彼女は静かに生きるべきだ……静かに」
マリエルさんの過去を、幸せだったときを、実際に知っている司祭様は、今にも、泣きそうな震え声を、出した。
「あの方は、もう戦うべきでない。狂った憎しみに染まる姿を、見たくはないよ」
俺も、同感ですよ。
しばらく、また沈黙を分かち合って、俺とジェリは、教会を後にした。
密度の高い話、濃い過去の物語を聞き終えて、昼前に出たのが、陽が傾きかけた時間になってた。
俺は、家に帰り着き、ドアの前で一瞬固まる。
あの話を聞いてから、マリエルさんをどう見ればいいのか、わからない。
でも、このまま行く場所もない。
ため息をつき、ドアを開けた。
おかえり、と声がかかるかと想ったが、ない。
俺は居間へ行った。
彼女はそこにいた。
……ほぅ、っと、息が、出た。
綺麗だった。
本当に綺麗だった。
美しかった。
マリエルさんは、きっと、俺を待っていてくれたのだろう。
食事をテーブルの上に並べて、その後で、ソファの上で横たわって、寝息を立てていた。
最初見た瞬間のときめきが、また、少しも色褪せない新鮮さで胸の奥で熱くなる。
こんなひとが、世界を救ったんだ。
こんなひとが、聞くだけで胸の悪くなるような目にあって、なにもかも失ったんだ。
悲しくて、たまらねえ。
俺は次の瞬間、目を見開いた。
マリエルさんの、さらさらとした桃色の前髪の下、長い睫毛の下から、雫が流れた。
涙だった。
俺の前で、子供がするようなすすり泣きが響く。
彼女は、はっと起きた。
「あ、ごめんなさい、イーライ。私、うたた寝しちゃって……」
慌てて、目元をこする、マリエルさん。
彼女は、親に捨てられた子猫みたいな顔で、俺を見上げた。
「怖い夢見ちゃった」
「どんなん、ですか……?」
「あなたとパパがね……死んじゃう夢なの……すごく酷い夢で、怖くて、悲しくて……」
それ、夢じゃないんすよ。
全部現実なんですよ。
言ったら信じてくれますか。
理解してくれますか。
「ねえ、イーライ」
彼女は、視線を彷徨わせてから、また俺を見上げる。
縋るような目つきで。
「あなたもパパも、死なないわよね……ずっと一緒よね……ね? そうでしょ?」
違う。
俺はあんたの息子じゃないんだよ。
イーライなんて知らないよ。
あんたの息子は死んでるんだよ。
旦那さんも死んでるんだよ。
そう、言うべきかもしれない。
けれど俺には、言う度胸なんてなかった。
俺はしばらく考え、目をつむり、そして、彼女の目を見つめて、頷いた。
「当たり前だよ。パパもすぐ帰ってくるさ。みんなずっと一緒だよ……ママ」
演技に自信はなかったし、イーライなんてやつに会ったこともない。
けれど、それでも、彼女の狂って壊れた心には、体のいい、逃げ道だったんだろう。
天使みたいな笑顔を、天使より綺麗な顔に浮かべて、マリエルさんは、頷いた。
「うん! うん! そうよね……そうだよね……ごめんねイーライ、変なこといって……あ、ほら、早くご飯にしましょ! 今日はパパも帰ってくるといいなぁ」
第一章 第十幕 【偽りの楽園】