妖4 風呂(はちあわせ)
寮の一階が男子、二階が女子で区分けされているようだ。この手の共同寮は、階段のところに厳重なセキュリティがあるのが常なのだが、ここにはなにもなかった。護衛しやすくなっていいのか、それとも襲われやすくて悪いのか。おそらく後者だな。
二階へ登ってすぐの部屋を二海がノックする。
すぐに返事があって、ノブがまわ――らず、扉を突きぬけて人影がぬっと飛び出した。
「うわぁっ!」
驚いて飛び退る。反射的に鞄で攻撃するところだったぞ。
顔に見覚えがある。クラスにいた、向こう側が透けていた子だ。
「あはははは。ま、驚くよねぇ」
へっぴり腰のおれを見て、二海も調子を取り戻したようだ。からかう口調を取り戻して、半透明の子をスカスカと叩く。
「寮長の貞原椿子よ。珍しい妖怪だから、無理もないけど」
「幽霊の妖怪……ってわけじゃないよね?」
おとなしそうな顔がこくりとうなずく。妖怪も幽霊もいっしょくたにされがちだが、前者は生きていて後者は死んでいる。それに幽霊なんてものは存在しない。
「蛤の妖怪をご存知ですか……? 私、蛤の見る夢なんです。眠りが浅いと存在が希薄になって、物に触れなくなっちゃって……」
「知ってる。蜃だね。おとぎ話かと思っていたけど」
蛤の夢が漏れ出して、幻を見せる。あまり一般的な妖怪じゃないけど、蜃気楼と言う言葉はだれでも知っているはずだ。この妖怪が語源とされている。
「でも、二年生なのになんで寮長を?」
「それは……私が永遠の二年生だから……」
「この子、自分の本体がどこにあるのかわからなくなっちゃったのよ。学園の地下のどこからしいんだけどね。それが見つかるまで進級できないってわけ。当然、寮についても一番詳しいの」
「それで……私になんの御用ですか……?」
ぼんやりと貞原が訊き、二海が事情を説明した。
寮則についての説明がまだだったことを聞くと、貞原はすみませんすみませんと何度も謝った。扉から上半身だけ出した状態でぺこぺこされると、おかしなものを見ている気分になってくる。
「言い訳になりますけど、眠りが浅いときは……頭がぼーっとしちゃって……そのせいで……」
「……貞原さん?」
うつろな目でおれでも二海でもない廊下の壁を見つめ出す貞原。なんと言う説得力だ。
「今日はダメみたいね。細かいことは明日にして、とりあえずお風呂にしたら? もう十時だから、男子の時間よ」
「ああ。そうさせてもらおう。案内ありがとう」
「くれぐれも女子の時間に入らないようにね。あの世へ転校することになるから」
「……肝に銘じる」
せめて、無用のトラブルだけは避けるよう注意しないと。
おれは階段を下りると、そのまま脱衣所へ入った。木製の古めかしいロッカーが並んでいて、すこしはみ出した衣類が見えることから、もう先客がいるらしい。
上着を脱ぐと、我ながらよく鍛えられた身体が現れる。おれは骨格が細いから、筋肉をつけてもマッチョにならない。服を着ていると女に間違えられる屈辱を味わったりするが、ちゃんと腹筋だって割れているのだ。
ただ、おれの裸体を見れば、だれもが筋肉よりも先に、これに目が行くだろう。
左胸から右わき腹にかけて刻まれた、三本の溝。
忘れることの出来ない、おれの人生を変えた傷だ。
この傷の一本がおれを殺し、一本が絶望させ、一本が復讐へ駆り立てる。
そんなおれに、だれかを護る仕事が勤まるものか。それが妖怪なら、なおさらのこと。
「ふぅ……」
……気分を切り替えよう。
暗い気持ちじゃ、友人も出来ないに違いない。
タオルを腰に巻き、おれは浴場の扉を開け放った。新人らしく挨拶を入れるのがいいだろう。
「おじゃましまーす」
「なぁっ!?」
男にしては甲高い声が聞こえ、ざばっと湯船から音がした。湯気が濃くて先客の姿が見えない。
「今日からこの寮でお世話になることになった、水島灘と言います。ここで会ったのも縁だ、裸の付き合いってことで、ひとつ……よろし、く……?」
徐々に晴れていく湯煙の向こう側。
湯船から立ち上がって硬直しているのは、おれの護衛対象である、珠依姫……?
停止した思考の中、おれははじめて、じっくりと珠依姫の姿を観察した。
肩口で切りそろえられた、栗色の髪。いまはしっとりと濡れて輝いている。それが包むのは、やや丸顔の輪郭と、意志の強そうな眼。驚きで丸くなってしまっているけど、ちょっとツリ目気味で、それが甘い印象の顔立ちに絶妙なスパイスを加えている。ピンと立ち上がってる尻尾もなんだかチャーミングだ。
そしてタオル一枚で押さえられた肢体は、すべてを隠し切っていない。危ないところはぜんぜん見えないけれど、胸元なんかは片手じゃ覆いきれないらしく、脇のほうがはみ出してしまっていた。小柄なくせにすばらしいスタイルだ。腰から太ももにかけても、濡れたタオルが貼り付いて、輪郭をくっきりと見せている。もう一度言おう。すばらしいスタイルだ。
「きぃ~さぁ~まぁ~……!」
「はっ!?」
おれは見た。長年続けたハンター稼業ではじめて、妖怪の背後に立ち上る、黒紫のオーラを。可視化するほどの妖気を!
「ま、待て。まだ準備が出来ていない!」
あの世に転校する準備はまだ!
「死ねえっ!」
渾身の力で投げつけられた手桶は、おれの頭蓋に痛打を浴びせた。