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◇ ◇ ◇
ヘリで再び自宅に戻った燐慟は、キッチンに差し掛かったところで、思わず立ち尽くしてしまった。
なぜなら──
「あっ!! お帰りなさいませ、燐慟様!」
エプロンを身につけた女が、何食わぬ顔で料理していたから──
額に手をあて、深いため息を吐き出す。
それから携帯電話を取り出し、ある人物の電話番号をタップする。
数コールのあと、相手が出る。
「あの、父上?」
『おう、どうした燐慟』
「………何で、ユリがいるんですか……?」
──西賀 ユリ
代々、榊家を補佐してきた西賀家の長女で、燐慟と同い年である。
燐慟が学園に通うことになるまでは、修業の手合わせや、ガルゼレス討伐に同行してもらったりしていた。
幼い頃から、燐慟とともに過ごしてきたユリとの間には、家族と変わらない絆があるといっても過言ではない。
ぱっちりと開かれた藍色の瞳に、肩まで伸びた乳白色の柔らかな髪。
150cmほどの身長なため小柄に見えるが、彼女から繰り出される刀さばきは、燐慟も感嘆するほどである。
『護衛だ。一人じゃ心細いだろうと思ったのだが』
「………事前に言ってくださいよ」
『ん? あぁ、そうだ。学園はどうだ?』
ため息混じりの燐慟の独白は、木煉には聞こえてなかったようで、話題が切り替わる。
──校門で攻撃されたこと
──その相手が神咲 蓮で、クラスメートであること
──時雨が生きていたこと
今日一日で起きたことが、一瞬のうちに脳裏をかすめる。
結局、燐慟はこう言った。
「いえ、大丈夫です。問題ありません」
『そうか、なら良かった』
「はい」
『お前は強いからな、俺よりもはるかに』
「……そんなことありません」
何となく気恥ずかしくなって、なにも持っていない左手で頭をかく
『まあ、頑張れよ、燐慟』
「はい」
またな、という言葉を最後に、無機質な音声が通話終了を知らせる。
携帯電話をしまうと、ユリが笑顔で駆け寄ってきて、
「燐慟様! 食事の用意ができました。入浴もできますが………あっ、それとも……あたしと──」
くだらないことを言うユリの口元を片手で押さえると、もがもがとくぐもった声が聞こえるが気にしない。
「風呂にはいってくる。飯はそのあとだ」
「了解しました。あっ、あたしと一緒に………」
「入るかッ!!」
なおもすりよってくるユリを無理矢理振り払い、浴室へ向かう。
ヘリの中で手渡された新品の制服を脱ぎ、カゴに入れる。
浴室に足を踏み入れれば、ほんのりとラベンダーの香りが鼻孔をくすぐり、燐慟はその湯に身を浸す。
温かい湯が身体の疲れを押し出してくれているようで、少し肩の力を抜くと、ほんの少しだが疲れがとれたような気がする。
浴槽に身を預け、天井を仰ぐ。
眼を閉じれば、今日の出来事が鮮明に思い出された。
そういえば明日から実力測定だ、などと思ったが、本気でやるつもりは毛頭なかった。
早いうちに負けて、蓮と時雨の実力のほどを、この眼に焼きつけておきたいところだ。
「………ノアは使えねェしな」
──ノア
心への直接的深刻なダメージを負った場合に、身体が自己再生能力で補ったものと考えられており、簡単に言えば超能力である。
全ての人間が得られるという訳ではなく、発症するのはごく稀で、ノアの操者になったと同時に、身体の一部が"代償"として失われる。
その存在と能力の特異性から、ノアを有している者は例外なく"ノアの方舟"という、ノアの操者を登録、保護する機関の管理下に置かれる。