零 「雨」
零 ~ 雨 ~
雨。
それは、すべてを……正しいことも悪いことも、何もかもを流しつくしてくれるかもしれない空の贈り物。
激しく飛礫のように身体を打ち付けるでもなく、ましてや優しく櫛で髪を梳いてくれるようなものではなく、ただただワタシの身体に降り注ぎ、伝い、流れ、落ちる。
どんなに望んでも、どんなに嘆いてもその空は一方的に贈り物を与え続けてくれるだけ。
「…………」
何度目かになるかわからないけど、その場を軸にしてぐるりと身体を回り、慣れしたんだ庭を見渡す。
ここは山の中腹に位置する純和風の家の中庭、ご近所さんが今日の晩ごはんを持ってきてくれるのを待っているわけでも、ましてや幼馴染が朝起こしにやって来て、この中庭を通るのを待っているわけでもない。
ただただ独りで立ち尽くし、見慣れたはずの庭を見つめるボク。
自分でもどこに焦点が合っているのかがわからなくなるほど、何度も、何度も、自分の記憶が覚えている当時のままここにある……ここにいる風景を見渡す。
目の前にあるあの笑顔を――。
「…………」
でも、それは単なる思い込みであって、空からの贈り物であったと思っていた雨は、体を冷たく濡らしただただ降り続けるだけ――。
ここには何もかもがあって、何もかもがなくなった……。
もう、あの人はいない……。
でも――
でも、こんな時、あの人がいたら何て言うんだろう……。
うん、きっと……
『雨ってたまに甘い気がするんだよなぁ、何でだろうな……カカッ』
と、雨にうたれながらも大口を開け、空を仰ぎ見ているに違いない……。
「……あぁ」
空を見上げ、自分の目にしか映らないあの人の背中を隣に思い描き、同じように口を開ける。
「…………」
「………………」
「……………………」
「なんにも味がしないや……ふふっ」
こんな感じかな。
自分が思い描いたあの人が、相変わらずなのがおかしくて、苦笑を漏らしてしまう。
心の中で一泊を置く。
自分の心の中にあった雨に対して無理やり傘を差す。
差した傘はあまり大きくないけれど、一度差してしまえば少しは身体が濡れなくなるはず。
僕は、これで最後にしようと思いつつもう一度だけ庭をゆっくりと見渡す。
「ん?」
いままで気が付かなかったのか、それとも目に入っていながらも移さないようにしていたのか、庭の隅に咲く一輪の華が目に入る。
ワタシと同じように雨に濡れる華々にゆっくり近づき、腰を落として一輪の華をいたわるように撫でる。
「ヒヤシンス……」
その美しい紫色のヒヤシンスは、普通のヒヤシンスと違い、少し上を向くように花を咲かせていた。
「あ……」
ヒヤシンスの様子につられて顔を上に見上げてみれば、空はいつしか小雨となっており、雲の隙間から何かを引き裂くように力強く光が差し込んできていた。
光は、幻想的に美しく、だが温かみがあるように感じた。
あの人の笑顔のように……。
一瞬なのか、一分なのか、それとも一時間なのか、どれくらいその差し込んでいる光を見ていたのかわからなかった。
自分の中の雨に対して、もう一度傘を構えなおす。
傘は、なるべく大きく、大きくありたいと願い……。
目の前で咲く美しくも儚く、だけど力強いヒヤシンスを見つめ目を瞑る。
「きっと大丈夫……」
そう口に出してから立ち上がり、頬に張り付いていた髪と水滴を指で払いながら顔を上げる。
「さて、これからどうしようかな……」
立ち上がり見つめる先は、どこに求めるのか……今のボクにはわからない。
だからこそ――
「……行ってきます」
ヒヤシンスに頭を下げて礼を述べ、背を向ける。
こうしてボクが旅に出たのは、冬の終わりが見え始めた二月の半ば……師匠が死んで初めて迎える冬の一日であった。