file:13『マウス』
警察署を出た春人は、思い切り腕を空へと伸ばした。完全に暗くなった外には、人の気配もなく静まり返っている。
「ふう、やれやれ。おじさんの言ったとおり、なんとかなったな」
ピンチを凌いだ春人が、天を仰ぐ。空は曇っているものの、春人の心中は晴れ晴れとしていた。
「まっ、いざとなったら……」
「なにがいざとなったらなの?」
春人の心臓が、ドクンと一際大きな音をたてる。
「み、雅さん!」
振り向くと、そこにはさゆりを引きずっている雅の姿があった。
ニンマリと口元を緩め、春人へと歩み寄ってくる。
「ねえねえ、なにがいざとなったらなのかなぁ? 雅、分かんなぁい」
「聞き違いじゃないですか? いざとなったらなんて言ってませんよ!」
慌てて否定する春人を覗き込みつつも、意外にあっさりと雅は引き下がっていた。
「まっ、そんなことはどうでもいいの。それよりも……」
春人の手を持ち、握手をする。
「このままおめおめと返すわけにはいかないわけよ」
握手をしたまま、ニッコリと微笑む雅に、春人の背中に冷や汗がわき起こる。
「お願いがあるのよ、春人クン」
今までよりも色気を着色して、春人に顔を近づけていく。
「な、なんです?」
裏がえっている春人の声に勝利を確信しつつ、さらに雅はつづける。
「わたしの能力『メモリー』には、もうちょっと変わった使い方があるのよね」
胸元を開きつつ、さらに近寄る。だが、春人は逆に冷静さを取り戻したようだ。
「貧乳ですよねぇ、雅さん」
「わ、悪かったわね!」
あっさりと着色された色気は吹き飛んでいた。ムッとしている雅に、春人は腹を抱えて笑っている。
「もういいわ! とにかく、わたしの能力を駆使するために、あなたの許可が必要なのよ」
「おれの許可? どんな能力なのさ」
「それは秘密よ」
「じゃあ許可なんて出せないね。もし自分をケイだと思いこむなんて能力だったらどうするのさ」
「そうくるわよね、当然」
「もちろん」
納得したようにウンウンと頷くと、雅は背後で倒れたままのさゆりを起こしにかかった。
「ほらほら、さゆり。出番だよ!」
「ふにゃあ、もう食べられないぃ……」
陳腐な寝言を言ってのけたさゆりの頭上に、雅の拳が炸裂していた。
「ピギャー! 痛いよおっ!」
飛び起きたさゆりの目を、頬をたたいて完全に覚まさせる。
「あのぉ、帰ってもいいですか?」
申し訳なさそうに尋ねる春人を手で制して、目を覚ましたさゆりに耳打ちをする。
「はぁーい。わかりましたぁ!」
フラフラと立ち上がったさゆりは、トコトコと春人へと近づいていく。
そして次の瞬間には、春人の唇と口づけを交わしていた。
「!?」
あまりに突然の出来事で、春人の息が一瞬止まる。
当のさゆり本人は唇を離すと、平然と雅にむかって親指をたてていた。
「さて、と……」
雅が改めて、春人と握手をする。そして、
「わたしの能力を駆使するために協力してもいいって、許可をくれるかしら?」
先ほどと同じように尋ねてきていた。
『だから、嫌だって……』
即刻拒否しようとした春人だったが、すぐに自分の違和感に気がついていた。
声が出ない……というよりも、口が開かないのだ。動揺を隠せない春人を前に、雅はほくそ笑みつつ、さゆりに合図を送る。
すると、さゆりは右手を大きく挙げて、まるで選手宣誓のようにハキハキと喋りだした。
「はい! わたくし一場春人は、四季雅の能力『メモリー』に喜んで協力することをここに誓いまぁす!」
『!!!!』
春人が声にならない悲鳴をあげる。
なんと、さゆりの言ったものとまったく同じ言葉が、春人の口からも発されたのだ。
「くっ……なんだ!?」
ようやく普通に喋れるようになった春人は、妙な脱力感に突然襲われていた。
ガクッとその場に膝をつき、上を見上げる。
「許可をありがとね、春人くん」
薄ら笑いを浮かべて、雅が春人を見下ろしていた。
「この子の能力は……」
「『マウス』でぇす! キスした相手に一回だけ好きな言葉を喋らせますぅ! ちなみにネズミじゃなくて口って意味だからねぇ!」
説明しようとした雅の横から、Vサインを繰り出す。
「ねえねえ、雅ちゃん、褒めて褒めてぇ!」
「よしよし、よくやった」
頭をなでられて嬉しいのか、まるで猫のようにのどを鳴らす。
「どんな能力……おれをどうするつもりなんだよ」
あきらかに動揺している春人に、怒りの色が見える。真剣な眼差しで、雅は春人へと言い返した。
「近いうちに分かるわよ。心配しなくても命に別状があったり、あなたを無理矢理操って罪を認めさせるような能力じゃないわ」
「本当だろうね?」
「わたしがそんなことをすると思う? そして、そんなことで満足するような人間に見える?」
春人が首を振ると、雅に今までの笑顔が戻っていた。
「あなたとは敵ではなく、味方して出会いたかったわね」
ポンポンと春人の肩を叩くと、雅とさゆりは署内へと戻っていった。