「君を愛することはない」と言った旦那様を、私は世界で一番愛しています
「君を愛することはない」
結婚式を終えた、その日の夜。
夫となった人は、開口一番そう告げた。
「これは家同士が決めた政略結婚だ。君を妻として愛するつもりはない。寝室も別にする」
「承知しております」
私がそう答えると、旦那様は少し意外そうな顔をした。
「驚かないのか?」
「はい。もともと、そういう条件でのお話でしたから」
三年間だけ夫婦として過ごし、その後は双方合意のうえで離縁する。
それが、この結婚の約束だった。
「話が早くて助かる」
旦那様は満足そうにうなずいた。
「俺には、真実の愛を誓った女性がいる」
「まあ」
「彼女とは身分が違いすぎて、今すぐ結婚することができない。だが三年後には必ず迎えるつもりだ」
なるほど。
だから三年間なのか。
「彼女以外を愛するつもりはない。君には悪いが、俺の真実の愛は彼女だけのものだ」
「承知いたしました」
「その代わり、三年間、君を不自由させるつもりもない」
旦那様はそう言ってから、話題を変えた。
「それと、領地の経営はすべて君に任せる」
「……領地の経営を?」
「ああ」
旦那様は面倒そうに椅子へ腰を下ろした。
「父が亡くなってから、家令や商人が毎日のように金の話を持ってくる。税収がどうだ、街道がどうだ、倉庫を直せ、鉱山の設備を替えろ。俺はそういう話が嫌いなんだ」
「ですが、それは領主のお仕事では?」
「だから嫌なんだ」
あまりにも迷いのない返事だった。
「お前は実家で、父親の仕事を手伝っていたそうだな」
「はい。帳簿を見たり、商人との交渉に同席したりする程度ですが」
「なら俺より向いている」
旦那様はあっさりと言った。
「三年間、全部やってくれ」
「すべて、ですか?」
「そうだ。細かいことまで俺に確認を取る必要もない。金が必要なら工面しろ。人を替える必要があるなら替えろ。好きにやっていい」
思わず、旦那様の顔を見つめた。
領地の帳簿を見てもいい。
商人との交渉も、自分で決めていい。
父の隣で仕事を手伝っていた私にとって、それは思いがけない言葉だった。
「本当によろしいのですか?」
「ああ。俺に面倒を持ち込まないなら、それでいい」
「旦那様」
「何だ?」
「先ほど、私を愛することはないとおっしゃいましたね」
「言ったな。それが?」
私は少しだけ考えてから、微笑んだ。
「私、世界で一番、旦那様を愛せそうですわ」
「……は?」
旦那様が眉を寄せる。
「何を言っている?」
「いいえ。お気になさらず」
「変な女だな」
「よく言われます」
旦那様は呆れたように息を吐いた。
「とにかく、領地のことは任せる。俺に面倒を持ち込むな」
「かしこまりました」
こうして。
真実の愛に生きる旦那様と。
そんな旦那様を世界で一番愛せそうな私の。
三年間の結婚生活が始まった。
◇
翌朝。
さっそく領地の帳簿を確認した私は、頭を抱えた。
収入は悪くない。
けれど、放置された街道や設備の修繕にお金がかかるうえ、旦那様は馬や服や宴会がお好きらしい。
とてもではないが、手元のお金だけでは足りなかった。
「旦那様。領地を立て直すための資金が足りません」
「なら、どうする?」
「私の実家から借りられます。ただし、返せなければ領地の資産を一部失います」
「構わん。借りろ」
「本当によろしいのですか?」
「領地のことはお前に任せたと言っただろう」
私は必要な書類を差し出した。
旦那様は署名した。
「ありがとうございます」
「なぜ礼を言う?」
「任せてくださって、ありがとうございます」
旦那様は不思議そうな顔をした。
「俺は面倒だから押しつけているだけだぞ」
「それでも、任せていただけるのは嬉しいものですわ」
「……変な女だな」
借りたお金で街道や設備を整え、無駄な支出を整理する。
半年ほどすると、領地は黒字になった。
すると旦那様がやって来た。
「儲かっているそうだな。欲しい馬がある」
見せられた金額に、私は目を瞬いた。
「今、そのお金を使うと設備の更新ができません」
「また実家から借りればいい」
「さらに資産を担保にすることになりますが」
「構わん」
「本当によろしいのですか?」
「好きにしろ」
旦那様はまた署名した。
「ありがとうございます」
「……馬を買うのは俺だぞ?」
「ええ」
「なぜお前が嬉しそうなんだ?」
「旦那様がまた任せてくださいましたから」
「やっぱり変な女だな」
◇
二年目。
領地は順調に豊かになった。
そして領地が豊かになるほど、旦那様の暮らしも華やかになった。
「王都の屋敷を改装したい」
「今は余裕がございません」
「借りればいい」
「また資産を担保にすることになります」
「構わん」
署名。
「友人を招いて宴会を開く」
「かなりの金額になりますが」
「領地は儲かっているんだろう?」
「はい。ですが――」
「なら問題ない」
署名。
「新しい馬車が欲しい」
「旦那様。このまま借入れを増やすのは、お勧めいたしません」
「またその話か」
「返せなくなれば、担保にした資産を失います」
「お前が領地を儲けさせればいいだろう?」
「それは……」
「領地のことは全部お前に任せている。俺に細かい話を持ってくるな」
私はしばらく旦那様を見つめた。
「……承知いたしました」
書類を差し出す。
旦那様は署名した。
「ありがとうございます、旦那様」
「本当にお前は、俺が署名するたびに機嫌が良くなるな」
「だって、これだけ使っておきながら、まだ私に任せてくださるのでしょう?」
「俺には分からんからな」
「でしたら、頑張りますわ」
「好きにしろ」
旦那様は呆れたように部屋を出ていった。
私は署名された書類を、大切にしまった。
◇
三年目。
約束の離縁まで、あと半年となった。
「旦那様。このままでは、よろしくありません」
私は借入金の額を見せた。
「こんなに!?」
「領地は順調ですが、それ以上に旦那様がお使いになりましたので」
「返せるのか?」
「何年か支出を抑えていただければ」
旦那様は露骨に嫌そうな顔をした。
「ほかに方法は?」
「資産を整理して、一度に返済します。収入は減りますが、管理するものも減ります」
旦那様は少し考えた。
「半年後には、お前もいなくなるんだったな」
「はい」
「なら、それでいい。面倒なものは全部整理しておけ」
「売却先は、私の実家になる可能性が高いですが」
「適正な値段なんだろう?」
「もちろんです」
「なら構わん」
私は書類を差し出した。
「本当によろしいのですね?」
「くどい。半年後には真実の愛を誓った彼女を迎えるんだ。それまでに借金も面倒事もなくしておきたい」
真実の愛。
三年前と同じ言葉に、私は微笑んだ。
「かしこまりました」
旦那様が署名する。
「ありがとうございます、旦那様」
「またそれか」
「ええ」
私は最後の一枚を受け取り、これまでの書類と一緒に大切にしまった。
◇
半年後。
約束の日が来た。
三年前と同じ応接室で、旦那様は一枚の書類を差し出した。
その隣には、美しい女性が座っている。
「約束通り、君とは離縁する」
「承知いたしました」
私は書類に署名した。
旦那様も署名する。
これで、三年間の結婚生活は終わった。
「今まで領地を管理してくれたことには感謝している」
「こちらこそ、三年間、本当にありがとうございました」
心からお礼を申し上げた。
「荷物はもうまとめてございます。本日中に実家へ戻りますわ」
「ああ」
「では最後に、領地の引き継ぎをいたしましょう」
私は帳簿を開いた。
「こちらが、今後の年間収入です」
旦那様が数字を見る。
「……少なくないか?」
「資産を整理いたしましたので」
「ああ、そうだったな」
旦那様は帳簿を眺めた。
「鉱山は?」
「実家へ売却いたしました」
「森林は?」
「そちらもです」
「倉庫もか?」
「はい」
旦那様は少し考えてから、うなずいた。
「なるほど。だから借金がなくなったのか」
「はい」
「まあ、面倒なものを減らせと言ったのは俺だからな」
旦那様はあっさり帳簿を閉じた。
けれど、隣の女性は違った。
「ちょっと待って」
「どうした?」
「では、今残っているのは?」
「こちらのお屋敷と周辺の農地です」
「それだけ?」
「普通にお暮らしになるには十分な収入がございますわ」
女性の顔が引きつった。
「豊かな領地だって聞いていたんだけど」
「領地は豊かだぞ」
旦那様は不思議そうに答えた。
「借金もなくなった」
「でも、鉱山も森林もないんでしょう?」
「ああ」
「王都のお屋敷は?」
「そちらも売却いたしました」
私が答えると、女性はしばらく黙った。
そして立ち上がった。
「私、帰るわ」
「どうしてだ?」
「聞いていた話と違うもの」
「待て。何が違うんだ?」
女性は答えず、部屋を出ていった。
旦那様は閉じた扉を見つめた。
「……何だったんだ?」
「さあ」
「まあいい。あとで話せば分かるだろう」
本当に、旦那様らしい。
私は思わず笑ってしまった。
「何だ?」
「いいえ」
私は三年前の夜を思い出した。
「旦那様。覚えていらっしゃいますか? 結婚した日の夜のことを」
「何の話だ?」
「私を愛することはない、とおっしゃいました」
「ああ。言ったな」
「そのあと、領地のすべてを私に任せてくださいました」
最初は驚いた。
けれど、任されたからにはと始めた領地経営は、思いのほか楽しかった。
私が何かを始めるたび、旦那様は任せてくださった。
お金が足りないと相談すれば、実家から借りることを許してくださった。
危険があると説明しても、それでも私に任せると署名してくださった。
そして最後には、私が三年間育ててきたものまで、実家へ売ることを認めてくださった。
「私、あの夜に申し上げましたでしょう?」
「何をだ?」
「世界で一番、旦那様を愛せそうですわ、と」
旦那様が眉を寄せる。
「そんなことを言っていたか?」
「言いましたわ」
「そうだったか」
私は笑った。
「本当に、その通りになりました」
三年間。
旦那様のおかげで、私は好きなだけ領地経営をすることができた。
たくさんの経験を積んだ。
そしてこれからは、その経験も、育ててきたものも、私の新しい人生につながっていく。
「旦那様には、いただいてばかりでしたわね」
「俺は何もしていないぞ?」
「三年間、私を信じて、好きなようにやらせてくださいました」
「俺には分からなかったから任せただけだ」
「それでもです」
私は旦那様へ頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
三年間を振り返れば、感謝することばかりだった。
私は顔を上げ、旦那様に微笑んだ。
「やっぱり私、世界で一番、旦那様を愛しておりますわ」
◇
実家へ戻った私は、父と久しぶりにお茶を飲んでいた。
「それで、三年間の結婚生活はどうだった?」
「とても楽しかったですわ」
「そうか」
父は満足そうにうなずいた。
「すばらしい夫だったな」
「ええ。好きな仕事を好きなだけ任せてくださって、最後には私が育てたものまで残してくださいました」
私は紅茶を一口飲んだ。
「世界で一番、私のために尽くしてくださった旦那様ですわ」
「それなら、良い結婚だった」
「はい」
三年間だけの夫婦。
旦那様は最後まで、私を愛することはないとおっしゃっていた。
けれど。
相手のために、自分の持つものを惜しまず捧げることを、何と呼ぶのだったかしら。
「ああ、そうでしたわ」
「どうした?」
「私、旦那様からちゃんといただいておりました」
「何をだ?」
私は微笑んだ。
「真実の愛を」




