零の聖域 .ー 後
しかし、
私の指先が彼女に触れようとした瞬間、
ひかるの背後の影から、
蛇のような気配と共にモトが実体化して現れた。
彼の顔は、嫉妬に狂った
かつての私の顔そのものだった。
「おいおい、情けない顔をするなよ。
世界を手に入れた男が、
数値ゼロの女一人に骨抜きか?」
モトの声には、
これまでになかった明確な
「殺意」が混じっている。
彼は私の影から完全に分離し、
私の喉元に鋭い指を添えた。
「忘れるな。
お前をここまで引き上げたのは、
誰でもない、他人の羨望と嫉妬だ。
その女は、お前が築き上げた
この『美しい地獄』を壊すバグなんだよ。
……なら、試してやろう。
人間の本性が、
どれだけ醜い飢えに満ちているかをな」
翌日、モトの暗躍により、
ひかるの住む静かな廃墟は地獄と化した。
何万というドローンとカメラが
彼女を取り囲み、モトが彼女の存在を全世界に
「最大級のコンテンツ」として
強制配信し始めたのだ。
『 見ろ! 世界唯一の、数値ゼロの聖女だ! 』
『 彼女に触れれば、
君たちの数字も上がるぞ!
彼女を崇めろ! 』
街中の人々が、狂ったように
ひかるの元へ押し寄せる。
彼らは彼女を聖母のように祭り上げながら、
その実、自らの承認欲求を
満たすための道具として、
彼女にカメラを向け、
絶え間なく称賛という名の毒を浴びせかけた。
「ひかる、逃げろ!」
私が人混みをかき分けて叫ぶが、
大衆の歓声にかき消される。
ひかるの頭上に、
凍りついていたはずの数値が浮かび上がり、
異常な速度で上昇を始めた。
1万、10万、100万……。
「……やめて」
ひかるが耳を塞ぎ、うずくまる。
彼女の純粋な「無」が、
人々の視線という汚濁によって汚染されていく。
彼女が輝いていたのは、
誰にも見られていなかったからだ。
誰かに「価値」を見出された瞬間、
彼女もまた、この世界の残酷なシステムの
一部として「消費」される対象に
変えられてしまう。
影の中で、モトが勝ち誇ったように囁く。
「さあ、見ろ。
お前の愛する『輝き』が消えていくぞ。
彼女もすぐに、
他人の視線なしでは生きられない、
お前と同じ『理想の化け物』になるんだ」
ひかるの瞳から、
あの澄み切った光が失われようとしていた。
私は、手元にある
「世界を制御する端末」を握りしめた。
これを使えば、全世界のネットワークを遮断し、
彼女を救い出すことができる。
だがそれは、
私が手に入れたこの「至高の椅子」を捨て、
再びあの泥の中の、年収300万の透明な
自分に戻ることを意味していた___。




