泥濘の視線 .ー 後
その瞬間、
視界がぐにゃりと油絵のように歪み、
色彩が消失した。
私は意識が混濁したままオフィスを逃げ出し、
定時を過ぎると同時にタイムカードを切った。
背後で係長が何かを
怒鳴っていたような気がしたが、
もはや言葉としては届かなかった。
駐車場へ向かう足取りは、ひどく重い。
夕闇が迫り、
薄暗いオレンジ色に照らされた
アスファルトの上に、
私の「相棒」が待っていた。
中古で買った、色あせた白の軽自動車。
洗車もろくにしていないその車体は、
同僚たちが乗る立派なSUVや外車の陰に隠れ、
ひどく惨めに、矮小に見えた。
まるで私自身の人生そのものだった。
重いドアを開け、
湿り気を帯びた安っぽいシートに身を沈める。
プラスチックの経年劣化と埃が
混じった匂いが鼻を突く。
エンジンをかけると、
軽自動車特有の頼りない振動が、
座面を通じて私の痩せた体に伝わってきた。
「……はぁ」
ハンドルを握る指先が、
自分の意志とは無関係に震えている。
その時だ。
またあの声が、
今度はカーステレオの砂嵐のような
ノイズに混じって響き渡った。
『 ”貯金10万。
……それが、君の命の残量かな?" 』
「黙れ……っ! 黙れ!」
私は叫び、ボリュームノブを力任せに回したが、
声はスピーカーからではなく、
私の頭蓋の内側、深淵から直接響いていた。
『 "30歳。派遣社員。手取りは16万。
彼女もいなければ、誇れるキャリアもない。
親に顔を見せることすらできない。
君が毎日必死に漕いでいる
そのアクセルの先には、一体何がある?" 』
声は、冷徹な刃となって私の急所を正確に抉る。
『 "……何もない。
そこにあるのは、ただの老いと、孤独と、
誰にも知られずに、誰からも惜しまれずに
消える明日があるだけだ。
虚しいだろう?" 』
「うるさい! 分かってる……
そんなこと、自分が一番分かってるんだ!」
私は叫びながら、アクセルを踏み込んだ。
軽自動車が苦しそうな悲鳴を上げ、
エンジンを震わせて加速する。
国道に出ると、
隣の車線を一台の真っ赤なスポーツカーが、
轟音と共に私を置き去りにして走り去った。
低い、地を這うようなエンジン音。
流線型の、彫刻のように美しいボディ。
私がかつて、
学生時代のボロアパートの壁にポスターを
貼ってまで憧れていた、絶対に手の届かない
「成功」の象徴。
『 "追いかけたいんだろう? あの車を。
あの人生を。あの視線を" 』
声は、私の心に潜む、
汚泥のような欲望を丁寧に、
残酷になぞっていく。
『 "画面をスクロールして、
他人の幸福に指をくわえているだけの
毎日はもう終わりだ。
君が望めば、このボロ肉くるまを、
あの『理想』に変えてあげよう。
……皆が君を振り返る。
羨望と、恐怖と、賞賛の眼差し。
君が何者であるかを、
世界に分からせてやるんだ" 』
「どうやって……
そんなことできるわけがない……」
『 "簡単だよ。
君が「自分」であることを、
ほんの少しだけ、私に預ければいい。
君を縛る「良心」や「自制」という重荷を、
ほんの少しだけ……" 』
その瞬間、
視界が爆発するようにチカりと光った。
スピードメーターの針が、物理法則を無視した
異常な速さで跳ね上がる。
60、100、140........
自宅へ向かう代わり映えのない街灯が、
まるで異世界の光の列のように歪み、
一点に収束していく。
ふと、バックミラーに目をやった。
そこに映る私の瞳は、人間のものではなかった。
飢えた獣のような、
あるいは地獄の業火を宿したような、
異様な輝きを放っていた。
私は恐怖に震えながらも、
同時に、体の底から
湧き上がる抗いがたい
「高揚感」に脳を支配されていた。
「……見せてくれ。
私が、本当に手に入れるべき景色を」
私がその言葉を吐き出した瞬間、
ハンドルを握る両手に、奇妙な感覚が走った。
ザラついたウレタンの質感が、
生き物のようにうごめき始める。
それは、しっとりとした本革の、
吸い付くような、
高級な質感へと変化していった——。




