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『渇望マネタイズ』  作者: 此花 陽
第一章:泥濘(でいねい)の視線
2/8

泥濘の視線 .ー 後


 その瞬間、

 視界がぐにゃりと油絵のように歪み、

 色彩が消失した。


 私は意識が混濁したままオフィスを逃げ出し、

 定時を過ぎると同時にタイムカードを切った。


 背後で係長が何かを

 怒鳴っていたような気がしたが、

 もはや言葉としては届かなかった。


 駐車場へ向かう足取りは、ひどく重い。  


 夕闇が迫り、

 薄暗いオレンジ色に照らされた

 アスファルトの上に、

 私の「相棒」が待っていた。


 中古で買った、色あせた白の軽自動車。

 洗車もろくにしていないその車体は、

 同僚たちが乗る立派なSUVや外車の陰に隠れ、

 ひどく惨めに、矮小わいしょうに見えた。


 まるで私自身の人生そのものだった。


 重いドアを開け、

 湿り気を帯びた安っぽいシートに身を沈める。


 プラスチックの経年劣化と埃が

 混じった匂いが鼻を突く。


 エンジンをかけると、

 軽自動車特有の頼りない振動が、

 座面を通じて私の痩せた体に伝わってきた。



「……はぁ」



 ハンドルを握る指先が、

 自分の意志とは無関係に震えている。


 その時だ。

 

 またあの声が、

 今度はカーステレオの砂嵐のような

 ノイズに混じって響き渡った。



『 ”貯金10万。

 ……それが、君の命の残量かな?" 』




「黙れ……っ! 黙れ!」




 私は叫び、ボリュームノブを力任せに回したが、

 声はスピーカーからではなく、

 私の頭蓋の内側、深淵から直接響いていた。




『 "30歳。派遣社員。手取りは16万。

 彼女もいなければ、誇れるキャリアもない。


 親に顔を見せることすらできない。


 君が毎日必死に漕いでいる

 そのアクセルの先には、一体何がある?" 』




 声は、冷徹な刃となって私の急所を正確に抉る。




『 "……何もない。

 そこにあるのは、ただの老いと、孤独と、

 誰にも知られずに、誰からも惜しまれずに

 消える明日があるだけだ。

 虚しいだろう?" 』




「うるさい! 分かってる……

 そんなこと、自分が一番分かってるんだ!」



 私は叫びながら、アクセルを踏み込んだ。


 軽自動車が苦しそうな悲鳴を上げ、

 エンジンを震わせて加速する。

 

 国道に出ると、

 隣の車線を一台の真っ赤なスポーツカーが、

 轟音と共に私を置き去りにして走り去った。


 低い、地を這うようなエンジン音。

 流線型の、彫刻のように美しいボディ。

 

 私がかつて、

 学生時代のボロアパートの壁にポスターを

 貼ってまで憧れていた、絶対に手の届かない

「成功」の象徴。




『 "追いかけたいんだろう? あの車を。

 あの人生を。あの視線を" 』




 声は、私の心に潜む、

 汚泥のような欲望を丁寧に、

 残酷になぞっていく。




『 "画面をスクロールして、

 他人の幸福に指をくわえているだけの

 毎日はもう終わりだ。

 

 君が望めば、このボロ肉くるまを、

 あの『理想』に変えてあげよう。


 ……皆が君を振り返る。

 

 羨望と、恐怖と、賞賛の眼差し。


 君が何者であるかを、

 世界に分からせてやるんだ" 』




「どうやって……

 そんなことできるわけがない……」




『 "簡単だよ。

 君が「自分」であることを、

 ほんの少しだけ、私に預ければいい。


 君を縛る「良心」や「自制」という重荷を、

 ほんの少しだけ……" 』




 その瞬間、

 視界が爆発するようにチカりと光った。


 スピードメーターの針が、物理法則を無視した

 異常な速さで跳ね上がる。

 60、100、140........


 自宅へ向かう代わり映えのない街灯が、

 まるで異世界の光の列のように歪み、

 一点に収束していく。


 ふと、バックミラーに目をやった。


 そこに映る私の瞳は、人間のものではなかった。


 飢えた獣のような、

 あるいは地獄の業火を宿したような、

 異様な輝きを放っていた。


 私は恐怖に震えながらも、

 同時に、体の底から

 湧き上がる抗いがたい

「高揚感」に脳を支配されていた。




「……見せてくれ。

 私が、本当に手に入れるべき景色を」




 私がその言葉を吐き出した瞬間、

 ハンドルを握る両手に、奇妙な感覚が走った。


 ザラついたウレタンの質感が、

 生き物のようにうごめき始める。


 それは、しっとりとした本革の、

 吸い付くような、

 高級な質感へと変化していった——。



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