泥濘の視線 .ー 前
「 "あなたは今日、何をみる?" 」
その声は、鼓膜を震わせたのではない。
脳漿の裏側に直接、濡れた指で文字を
書かれたような、ひどく不快で、
それでいて抗いがたい残響を伴っていた。
私は反射的に辺りを見渡した。
視界に映るのは、いつもの「死んだ景色」だ。
30分前にこぼしたコーヒーの輪染みが残る、
片付けの行き届いていないデスク。
せかせかと、
まるで機械の部品になったかのように、
パソコンをタイピングする同僚たち。
彼らの表情は一様に青白く、
モニターの光に照らされて幽霊のようだ。
右前方では、
電話対応に追われる先輩社員が、
受話器を肩に挟んだままペンを
苛立たしげに走らせている。
奥の席では、
1日中何を眺めているのかも不明な部長が、
抜け殻のような目でモニターを凝視し、
その横で係長が「さすがお目が高い」と
中身のないゴマをすっている。
給湯室からは、
事務の女性たちの低い話し声が漏れていた。
誰が誰と付き合っただの、誰の仕事が遅いだの。 低俗な井戸端会議の音。
動揺して立ち上がりかけた私を、
誰一人として見ていない。
私はこの会社にとって、
あってもなくてもいい空気のような存在だ。
今年で30歳になる。
いい歳をして、
口座には10万円くらいの貯蓄額しかなく、
それに加えて、職場の人間と
まともなコミュニケーションすら取れない。
いや、敢えて取らないのだ。。。
そう自分に言い聞かせ、
強がりの殻を厚く塗り固めて生きている。
「……気のせい、か」
私は乾いた喉を鳴らし、
再びモニターに視線を落とした。
そこにあるのは、
上司から「適当に形にしておけ」と
投げ出された、中身のスカスカな報告書。
そして、その裏で隠すように開いている
SNSのタイムラインだ。
マウスのホイールを回す指が、
ピタリと止まった。
液晶画面の向こう側で、
かつての同級生が笑っていた。
『起業して三周年。仲間たちに感謝!』
添えられた写真は、都心のテラスで
行われている華やかなパーティーの一幕だった。
並べられたシャンパングラスが夕陽を反射し、
眩いばかりの光を放っている。
その反射が、睡眠不足で充血した私の眼球に、
鋭い針のように刺さった。
(こいつだって、学生時代は私と大差なかったはずだ)
ドロリとした黒い感情が、
胃の底からせり上がってくる。
彼らの成功は、その輝きが増せば増すほど、
私の無能さを証明する残酷な鏡となる。
私は彼らに激しく嫉妬し、
同時に「どうせ裏では汚いことをしているんだ」
と見下すことで、辛うじて崩れそうな
自分の形を保っていた。
「 "醜いね" 」
また、あの声だ。
今度は、
耳元でねっとりと囁かれたような生々しさに、
全身の産毛が逆立った。
「誰だ……っ!」
堪えきれずに声を荒らげて立ち上がると、
一瞬にしてオフィスのすべての音が消えた。
タイピングの音が止まり、部長のぼんやりとした
視線がゆっくりと私を捉える。
係長が眉をひそめ、
事務の女性たちのひそひそ話が
さらに鋭い毒を帯びて背中に突き刺さる。
「……すみません、なんでもないです」
私は逃げるように席を立ち、
トイレの個室へ駆け込んだ。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。
個室の壁にもたれかかり、
荒い呼吸を整えようとしたが、
鏡を覗き込むとそこには、
憧れた「理想」とは程遠い、
酷く疲れ果てた男の顔があった。
皮膚はくすみ、目は濁り、
魂が抜け落ちたような顔。
「 "あなたは、何を見たいと願う?" 」
声は止まない。
それはもう、
脳内を直接揺らす物理的な振動のようだった。
「 画面の向こうの虚像か。
それとも、泥の中に沈んだままの自分か。
あるいは—— 」
ふと、個室の照明が点滅した。
チカチカと不規則に瞬く安っぽい
蛍光灯の光の中で、鏡の中の「自分」が、
私とは違う動きをした。
鏡の中の私は、冷笑を浮かべ、
ゆっくりと口角を吊り上げたのだ。
「「 "私が見せてあげよう。
あなたが本当に求めている
『承認』の形を" 」」——




