第9話 眠りの森と“夢の味”
霧の谷から北へ抜けると、“眠りの森”と呼ばれる場所がある。
昼でも薄暗く、木々の葉には夜露のような光る液が滴っていた。
その香りは甘く、そして危うい。
足を踏み入れるだけで、まぶたが重くなっていく。
「ここが“夢睡草”が育つ森……?」
「うん。でもこの森自体が“夢”のようなものなんだ。」
ソラが息を潜めながら言った。
「長くいれば、心が眠りに呑まれる。だから、目で見るよりも“舌で感じる”ことが大事。」
ルーナの指示は明快だった。
この森に眠る“夢の源”を探し出し、食として調える――
それが、俺たち医食師見習いへの第二の試練。
森の奥へ進むにつれ、景色が少しずつ歪んでいった。
木々の間に見えるはずの空が、まるで水の中のように揺れている。
鳥の声が遠くで反響し、耳の奥で不協和音のように響いた。
「……なんだ、ここ。」
「眠りの森は、人の記憶を“食べる”の。
ここに長くいると、自分が誰だったかも分からなくなるのよ。」
ソラの声も、少し遠くに聞こえた気がした。
俺は自分の手を見下ろす。
指先がぼやけ、輪郭が溶けていく。
――まるで夢の中にいるみたいだ。
いつの間にか、俺は森の中央に立っていた。
そこには一本の巨大な木があり、その根元に銀色の花が咲いていた。
それは、かつて見た夢睡草のようでありながら、まるで違う。
花弁がゆっくりと鼓動し、まるで眠る人の胸のように上下している。
「……お前が、“夢の源”か。」
手を伸ばそうとした瞬間、視界が白く弾けた。
気づけば、俺は見知らぬ場所に立っていた。
そこは懐かしい――地球の風景だった。
夕暮れの台所。
古い鍋の中でカレーが煮えている。
子どもの頃、母がよく作ってくれた匂い。
だが、部屋の中には俺しかいない。
「……母さん?」
返事はない。
代わりに、鍋の中から聞き覚えのある声がした。
「食べなさい、レン。食べて、生きなさい。」
スプーンを握る手が震えた。
それは優しい声なのに、どこか胸が痛い。
俺は気づく。
これは“夢”が見せている記憶――“食べる理由”を問いかける幻だ。
「……俺は、生きるために食べてた。でも、それだけじゃ足りないんだ。」
「なら、何のために食べるの?」
夢の声が問う。
俺はゆっくりと息を吸い、答えた。
「――誰かを、生かすために。」
その瞬間、鍋の中の光が弾けた。
視界が再び森へ戻り、銀の花が目の前で輝いていた。
花弁がほどけるように開き、その中に小さな果実がひとつ。
淡く光りながら、ゆっくりと香りを放つ。
「これが、“夢の味”か……。」
恐る恐る口に含む。
甘い。
だが、その奥に微かな苦味がある。
――まるで懐かしい涙の味だった。
【食感同調:夢果】
【効果:精神安定・記憶再生】
体の中に、柔らかな光が満ちていく。
心が穏やかに澄み渡る。
夢が語った言葉が、胸の奥でゆっくりと溶けていった。
「……レン!」
声が聞こえ、我に返ると、ソラが駆け寄ってきた。
頬に小さな葉っぱが貼りついている。どうやら必死に探してくれていたらしい。
「よかった……。眠りの森に呑まれたかと思った。」
「いや、少し“夢”を見てた。でも、大事なものを思い出した。」
俺は夢果の実を半分差し出した。
「これ、二人で食おう。」
ソラは少し驚いたように目を見開き、
そして静かに笑った。
「……“分け合う食”。
先生が言ってた、“命を繋ぐ味”って、こういうことかもしれないね。」
二人で果実を口にする。
すると、不思議なことに、森の空気が少しずつ澄んでいった。
夢睡草たちが眠るように花を閉じ、森に静寂が戻る。
里に戻ると、ルーナが迎えてくれた。
「夢の味を、どう感じた?」
「懐かしくて、優しくて……少し痛かったです。」
ルーナは穏やかに微笑む。
「それでいい。
“夢の味”とは、心の奥に眠る“生きたい理由”の味。
それを思い出せたなら、あなたはもう“ただ喰う者”ではない。」
彼女は静かに鍋を火にかけ、夢果の一片を入れた。
途端に香りが立ち上がり、部屋いっぱいに広がる。
「このスープは、“記憶を癒やす薬”になる。
あなたの夢が、この里の力になるのよ。」
ソラが小さく笑った。
「ねえ、レン。これがきっと、“命のレシピ”の次のページだよ。」
俺は頷いた。
食べることは、生きること。
でも、“誰かと分け合うこと”が、本当の意味で“生きる”ということなんだ。
夜。
焚き火のそばで、俺たちは再びスープを啜った。
甘く、温かく、そして少しだけ切ない味。
それはきっと、俺たちが“生きている証”そのものだった。
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