第2話 命の味、初めての一口。
喰うか、喰われるか。
その二択しか、俺には残されていなかった。
赤黒い毛並みを逆立てた獣が、こちらを睨みつける。
喉の奥で鳴る唸り声が、風を震わせた。牙の先からは、まだ温かい唾液が滴っている。
逃げる? 無理だ。脚がもたない。
じゃあ──喰らうしかない。
「来いよ……腹、減ってんだ。」
言葉が出た瞬間、身体が勝手に動いた。
獣が跳びかかる。地面の草がめくれ、土が舞う。
反射的に腕を上げ、あの草を食ったときに感じた“熱”を思い出す。
体の奥で、何かが弾けた。
血が騒ぎ、視界が妙に冴える。
──動きが見える。
「うおおっ!」
叫びとともに拳を叩き込む。
骨を砕く鈍い感触。獣が呻き、転がった。
そのまま、地面に崩れ落ちる。
気がつけば、俺はその死骸の上に膝をついていた。
呼吸が荒い。胃が、焼けるように痛い。
戦いの恐怖よりも、空腹の痛みの方が勝っていた。
「……食わなきゃ、死ぬ。」
つぶやいた声が、自分でも嫌になるほど乾いていた。
目の前には、まだ温かい肉。
獣の体から漂う、血の匂い。
だがその奥に、ほんの少し甘いような、肉の“旨味”の匂いが混じっていた。
喉が鳴る。理性が止めようとする。
「人間がそんなもの食うな」って、心のどこかで声がする。
けど──腹が、それを拒否した。
「……生きるためだ。」
震える手で枝を拾い、石を擦る。
何度も、何度も。
指の皮が破け、血がにじんでも、諦めなかった。
──パチッ。
ようやく、小さな火花が落ちた。
風除けに草をかき集め、息を吹きかける。
やがて、かすかな炎が灯った。
俺は、狼の腹から肉を切り取った。
鉄のような匂い。
でも、それを炎の上にかざすと、焦げる香ばしさに変わっていく。
ジュウ、と音が鳴った。
滴る脂が火に弾ける。
煙が目にしみた。
それでも、俺は目を逸らさなかった。
「……これが、俺の飯か。」
焼けた肉を口に運ぶ。
熱い。
歯を立てると、肉汁が溢れた。血の味、焦げた苦味、脂の甘味。
どれも荒々しく、まとまりがない。
けれど、確かに“生きていた味”がした。
胃の底に落ちた瞬間、全身に熱が走る。
あの草を食べたときよりも、はるかに強い力。
心臓が暴れ、筋肉が脈打つ。
【《食感同調》が進化しました】
【新スキル:《生命同化》を獲得】
【対象:腐肉狼】
【効果:身体強化・嗅覚感知・再生力上昇】
頭の中に、あの機械的な声が響いた。
息を吐くたび、世界の匂いが鮮やかに流れ込む。
風の向こうの湿った土の匂い、遠くで芽吹く草の香り、そして──死んだ獣の残り香。
「……お前の命、確かに、もらったよ。」
俺は手を合わせた。
誰に教わったわけでもない。ただ、そうしなければいけない気がした。
「ごちそうさま。」
言葉を口にした瞬間、涙が勝手に流れた。
何の涙かはわからない。
安堵か、後悔か、それとも──命への敬意か。
焚き火の残り火が風に揺れ、夜空が少しずつ明るくなる。
胃の中で、さっきまで“敵”だった命が静かに溶けていくのを感じた。
それは恐怖でも、嫌悪でもない。
ただ、確かな“生きている実感”だった。
──生きるって、喰うことなんだ。
日本にいた頃、食事なんてただの習慣だった。
栄養バランス、カロリー、コスパ。
そればかり気にしていた。
でも今、この一口で思い知らされた。
食うことは、生きることそのものだ。
夜が明けていく。
風が草を撫で、どこか遠くから香ばしい匂いが漂ってきた。
「……誰か、いるのか?」
鼻をくすぐるのは、煮込んだスープのような、柔らかな香り。
この世界に“料理”が存在するのか?
思わず笑みがこぼれた。
「まさか……次は、まともな飯にありつけるかもな。」
ふらつく足で立ち上がり、丘の向こうの匂いの方へと歩き出す。
腹は満たされた。
けれど、胸の奥は不思議と空いている。
それはきっと──“誰かと食べる”ための空腹だ。
草の香りと血の匂いを背に、俺は歩き続けた。
次に出会うのは、命の味を知る少女。
食べることで癒やし、祈るように料理を作る人間。
まだその名も知らない。
けれど、この出会いが俺の“食の道”の始まりになることを、
このときの俺はまだ知らなかった。
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