命を煮る者たち
夜明けの光が灰の街を包み込んでいた。
崩れた厨房跡から立ち上る白い蒸気の中に、微かに香る“スープ”の匂いがあった。
それは昨日までの焦げた匂いとは違う、温かく、優しい香り。
まるで、誰かの命が再び動き出す合図のようだった。
ノクスとの戦いが終わってから、三日。
街はゆっくりと息を吹き返していた。
“無味の病”に冒されていた人々も、少しずつ味覚を取り戻している。
けれど俺たちの心には、まだ一つの疑問が残っていた。
「ノクスの言っていた“黒のレシピ”……あれは何だったんだ?」
焚き火の前で、俺は問いかけた。
ソラは湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、少しだけ眉を寄せた。
「彼は“味を断つことで世界を救う”って言ってた。
たぶんその“黒のレシピ”は、全ての味覚を消す禁術……」
「つまり、食を終わらせるための料理か。」
俺の言葉に、ソラはゆっくり頷いた。
だがその目は、どこか悲しげに揺れていた。
翌朝、医食師の里から一通の報せが届いた。
それを持ってきたのは、白い衣を纏った老女――ミリアと名乗る長老だった。
彼女はルーナの恩師であり、医食師の知識を守る者だ。
「ソラ、そして“喰う者”の少年よ。
ノクスが遺した“黒のレシピ”の残滓が、里の地下に流れ込んでおる。」
「地下……? それって、まさか!」
ソラが立ち上がる。
「そうだ。あれは“命のレシピ”と呼ばれる、医食師の根源――
それを汚染し、世界そのものの味を狂わせておるのじゃ。」
俺は拳を握った。
ノクスの死で終わりではなかった。
彼の理想は、まだ“味の根”に残っている。
医食師の里。
かつてソラが修行を積んだ場所――今は、沈黙に包まれていた。
空には雲が渦巻き、木々は黒く枯れている。
中央の泉が、不気味に泡立っていた。
その水面に、黒い模様が浮かんでいる。まるで誰かの手書きのように。
「これが、“命のレシピ”……?」
ルーナが呟く。
ミリアが静かに頷いた。
「本来は、命を循環させるための秘術。
だがノクスの“無味”の力が混じり、レシピが“腐り始めて”おる。」
泉の中心に、黒い結晶があった。
それが脈打つたびに、周囲の草木が灰へと変わっていく。
「止めなきゃ……!」
ソラが駆け出そうとしたその瞬間、足元から黒い靄が立ち上がった。
靄は人の形を成し、“ノクス”の姿を模していた。
『味は、罪だ。お前たちも、いずれ気づくだろう。』
影が囁く。
その声はまるで、残響のように響いていた。
「ノクス……まだ、お前はこの里を縛ってるのか。」
『私はもういない。だが、理想は残る。
味がある限り、人は奪い合う。
ならば、“無味”こそが救いだ。』
ソラは震える手で鍋を持ち上げた。
その中には、昨日から煮込み続けていた“命のスープ”があった。
「あなたの理想は、痛みから逃げただけ。
でも私は、それでも“食べたい”。
苦くても、辛くても……それが、生きるってことだから!」
ソラが鍋を泉へ投げ込む。
――瞬間、光が弾けた。
蒼と黒の光がせめぎ合う。
“命のスープ”が泉に混ざり、腐った味を押し返していく。
しかし同時に、ソラの体から力が抜けていった。
「ソラ! おい、しっかりしろ!」
「……大丈夫。これが、“医食師”の役目だから。」
彼女の手が震えながらも、鍋を掴んでいる。
スープの香りが辺りを包み、黒い靄が次第に薄れていった。
やがて、ノクスの影が消えると同時に、泉は澄んだ青に戻った。
木々に緑が戻り、空を覆っていた雲が晴れていく。
静寂のあと、ミリアがゆっくりと口を開いた。
「ソラ、お前はよくやった。
“命のレシピ”は、再び循環を取り戻した。」
しかし、ソラの顔色はまだ青ざめていた。
彼女は俺に向かって微笑む。
「ねえ、蓮。もし私がもう料理できなくなったら……
あなたが、代わりに作ってね。」
「馬鹿言うな。お前がいなきゃ、何を作ったって味がしないよ。」
俺はその手を握る。
温かくて、震えていて、でも確かに生きていた。
その夜。
俺たちは、医食師の里で“最後の晩餐”を囲んでいた。
煮込みスープに、焼いた根菜。
そして、ノクスがかつて作った“黒いパン”を、白い小麦で作り直したもの。
「ねえ、蓮。どうして人は、食べるのかな。」
ソラがぽつりと尋ねた。
俺は少し考えてから、答えた。
「誰かの命を、ちゃんと受け止めるためだ。
そして、それを自分の中で生かすために。」
ソラは小さく笑い、スープを一口すする。
その瞳に、涙が光った。
「……うん。やっぱり、味って、生きてるんだね。」
空には満天の星。
その光が、里の泉に反射して、揺らめいている。
俺はふと思った。
ノクスも、かつてはこんな光を見ていたのだろうか。
“喰うこと”と“救うこと”の狭間で、迷いながら。
けれど今、俺は確信している。
――命を煮る者とは、命を奪う者ではない。
命を“繋げる者”のことだ。
その夜のスープは、不思議なほど優しい味がした。
まるで、誰かが静かに“ありがとう”と囁いたような――そんな味だった。
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