第11話 灰の街と“無味の病”
霧が晴れ、谷を抜けた先に“灰の街”が見えた。
建物の屋根も、石畳も、まるで灰をまぶしたように白くくすんでいる。
風が吹くたびに細かな粉が舞い上がり、喉の奥がひりついた。
「……ここが、“味を失った街”?」
ソラがマフラーを押さえながら呟いた。
「ええ。“無味の病”にかかった人々が暮らす場所だ。」
隣でルーナが答える。
人の気配はある。
だが、通りを行く者たちは皆、同じ表情をしていた。
虚ろな目。食卓に並ぶのは、色のないパンと水だけ。
子どもたちは空腹でも、食べることを“面倒”だと感じているらしい。
生きてはいるのに、“食”が死んでいる。
それが、この街を覆う病の正体だった。
「原因は“灰胞菌”よ。」
ルーナが診療所で古びた書を開きながら説明する。
「この菌は空気中に漂い、人の“味覚”を蝕む。
厄介なのは、心の感情と結びついていること。
“生きる喜び”を失うと、菌が一気に繁殖してしまうの。」
「つまり……味を感じないのは、心の病でもあるんだな。」
俺が言うと、ルーナは静かに頷いた。
「だから、薬では完全には治らない。
“食の記憶”を呼び戻すしかないの。」
「食の……記憶?」
ソラが首を傾げる。
「そう。誰かと食べて『おいしい』と思えた、その感情をもう一度味わう。
それが、この病に対する唯一の“処方箋”よ。」
翌朝、俺とソラは街の広場に立った。
かつて市場だったであろう場所には、今や誰も立ち寄らない。
屋台の跡には灰が積もり、風が吹くたびに鈍い音を立てる。
「ねぇ、蓮。みんな“お腹が空いた”って感覚を忘れてる。」
ソラの声が少し震えていた。
そのとき、一人の少女が近づいてきた。
十歳ほどだろうか。頬はやせこけ、手には乾いたパンの欠片を持っていた。
「それ……食べないのか?」
俺が尋ねると、少女は首を振った。
「食べても……何も感じないの。苦いとか甘いとか、分からないの。」
ソラはしゃがみ込み、少女の目を見つめた。
「……お母さんと食べた料理、覚えてる?」
「……スープ。昔、お母さんが作ってくれた。あったかかったの。」
その言葉に、ソラの表情がぱっと明るくなった。
「それだよ。もう一度、一緒に作ろう。」
俺たちは少女を連れ、古びた調理場へ向かった。
火は使われなくなって久しいが、かまどはまだ生きていた。
ソラが灰を払って火を灯すと、淡い炎がゆらめいた。
「この街に残ってる食材は限られてるけど……」
ソラは穀粉と乾いた根菜、わずかな塩を取り出した。
「お母さんのスープに似せて作ってみよう。
“思い出の味”を呼び戻すんだ。」
俺はスープの下味を整えながら、舌で空気を感じ取る。
鼻にかすかに残るのは、灰胞菌の苦い匂い。
しかし火にかけると、香りが変わっていく。
土のような苦味が、徐々に穏やかな甘みへ。
「……変化してる。」
「うん。心が動けば、味も変わるんだよ。」
ソラは少女に木の匙を手渡した。
「かき混ぜて。お母さんみたいに。」
少女の小さな手が、ゆっくりと鍋を回す。
やがて、鍋の中に立ちのぼる湯気の色が変わった。
淡い灰色から、ほんのり琥珀へ。
スープができあがると、ソラが一口すくって少女に差し出した。
少女はおそるおそる口に含む。
最初は無表情だったが――次の瞬間、瞳が大きく見開かれた。
「……あったかい。甘い……!」
その声に、外で見ていた人々がざわめいた。
匂いに誘われ、次々と集まってくる。
ソラはスープを少しずつ分け、皆に振る舞った。
「これは“記憶のスープ”よ。
味がしなくてもいい。大切なのは、誰と食べるか。」
人々は最初こそ無言で飲んでいたが、やがて小さな笑い声が漏れ始めた。
皺だらけの頬が、ほんの少しだけほころぶ。
色のなかった街に、初めて“温度”が戻った瞬間だった。
夜。
ルーナが記録帳に新しい文字を記す。
“食は、心を呼び覚ます薬である。”
「無味の病は、完全には消えない。
でも、思い出すたびに薄れていく。
それが、“食”の力よ。」
俺は空を見上げた。
灰色だった雲が、かすかに星の光を透かしている。
「ルーナ先生。」
「なに?」
「俺、分かってきた気がします。“喰うための食”と“生きるための食”の違い。」
ルーナが微笑む。
「なら、この旅の目的も見えてきたわね。」
ソラが隣で頷いた。
「食べるって、生きるってことなんだね。
味を感じるって、心が生きてる証なんだ。」
広場ではまだ、焚き火の周りに人が集まっていた。
誰もがスープを啜りながら、互いに言葉を交わしている。
その姿はまるで、凍りついた時間が少しずつ解けていくようだった。
俺はその光景を見つめながら、心の中でひとつ呟いた。
“食べる”とは、“命を分かち合うこと”。
そしてこの街にも、再び“味”が戻ったのだった。
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