全ては縁の赴くままに
立入禁止と書かれた貼り紙の横を抜け、階段を駆け上がる。特に急いでいる訳じゃない。ただ走ってみたかっただけだ。
重厚な鉄扉を押し開き、屋上に出る。別段、空が恋しかった訳じゃない。ただ昼食をとりに来ただけだ。
数歩進んですぐに気が付いた。誰かが居る。僕以外で屋上に来る人間は一人も思い当たらない。今日ここに来たのも習慣ではなく、単なる僕の思いつきだ。だから待ち合わせなんて持っての外。僕は、彼女がここに居る理由を知らない。
彼女は入り口から最も遠い側のフェンスに寄りかかって、静かに町並みを眺めている。だけど、それは僕の主観であって、実際に彼女が町並みを見下ろしているかどうかは彼女自信に聞いてみないと分からない。でも、今の彼女が纏った、犯してはならない神聖な雰囲気のようなものが、その気にさせなかった。そっとして置こうと思った。
不意に彼女が振り返った。その腰まである長い髪を悠々となびかせて振り返った。引き返そうとした僕の足音が耳に入ってしまったのだろうか。僕は彼女の邪魔をしてしまったのだろうか。
彼女の視線が僕を捉えた。途端に目を見開き、驚いた表情をした。無理も無い。僕がここに来ることは誰も知らない。僕も彼女を知らない。人はこれを初対面と言う。
彼女は僕を見たまましばらく黙っていたが、僕の右手にぶら下がるビニール袋に目を落として合点がいったらしい。自分の左手に持つ弁当箱を掲げて見せ、小さく呟いた。
「お昼ご飯?」
極めて奥深い質問だと思った。文が短すぎて何の言葉を省略したのか予想がつかないからだ。こんなところでお昼ご飯を食べるの? どうやってお昼ご飯を食べるの? それはお昼ご飯なの? ……誰とお昼ご飯を食べるの?
「あなたの質問の意図は掴めませんが、僕はこれから、この場所で、この購買で買ったパンを、一人で、食べようとしていたところです」
僕は一字一句、噛み締めるように伝える。僕は彼女とは違う。不明な部分をつくるから齟齬が生じることを知っている。
彼女は僕の日常会話離れした口調に、少なからず疑問を抱いたかもしれない。何故なら、今の彼女は困っているとも、気味悪がっているとも形容し難い表情をしているから。はっきりしているのは、僕に対して彼女がマイナスの感情を抱いているということ。だけれど、僕は構わない。
彼女は笑った。僕は訝しんだ。何故なら、根拠が理解できなかったからだ。僕の知識と経験から検索をかけても、彼女の行動の意味を探し出すことが出来なかったからだ。
「面白い人ね。私もこれからお昼なのよ」
他人から面白いと言われるのはこれが初めてではなかったけれど、今の彼女の場合は、さっきの表情と反して、どちらかと言えばプラスの意味が込められている気がした。僕の都合の良い解釈とも考えられるけれど。
「そうですか。何だか物思いにふけっていたようですし、邪魔でしたら僕は去りますが」
言って、再び踵を返そうとする。
「待って」
だが、それも彼女の制止の声によって妨げられた。
「一緒に食べましょう」
彼女は僕に歩み寄ってくる。歩くたびにスカートが揺れ、風に髪がなびく。青と白の背景に重なって、それは一枚の絵画のように映えていた。
彼女の足が僕の目の前で止まった。その大きな瞳は僕を射抜き、僕の全てを見抜いているかのように輝いた。でも僕は何も感じない。僕の心には干渉させない。できない。
「分かりました」
僕は素直に頷き、彼女に倣ってコンクリートの床に腰を下ろした。お互いの昼食を挟んで向き合う形だけれど、僕は彼女を見ない。彼女も空を見ている。
彼女は空を見ている。その視線の先は雲ひとつない晴天。彼女は愛しいものでも見るかのように優しく目を細め、空を見ている。
彼女の弁当箱の蓋は未だに閉じられたまま。自分からお昼に誘っておいて、どういうつもりなんだろう、と僕は疑問に思った。
「昔ね」
彼女がぼそりと呟いた。目下、食べ進めることに集中していた僕は、しかし辛うじてそれを聞き取ることが出来た。
「この屋上で、自殺した人がいたの。学年は私たちの二つ上」
彼女は僕の靴を見ながら言った。この学校は指定の靴を履かせ、学年別に色分けされている。正確には入学時の色。だから靴を見れば相手の学年を即座に把握することが出来る。彼女もそうして僕の足元にある赤いラインから判断して言っていた。彼女も同じ靴を履いていた。
「その人とは、どういう関係だったんですか?」
僕は尋ねた。けれども特に興味は無い。話を円滑に進めるための手伝いをしただけだ。
「私、部活とかはやってなくてね。放課後はよくここに来てた。そしたらある日、その人はここにやって来た。だから、この屋上で出会ったお友達とでも言ったところかな」
言葉とは裏腹に、彼女は落ち込んでいた。
「初めて会ったとき、先輩は泣いていた。私はどうしてか分からなくて聞いた」
「そうしたら?」
「先輩は、失恋した……って。それからもちろん、私はあの人を止めたわ。自殺なんて見過ごすわけにはいかないもの。その後も何度も試みる先輩を止めているうちに、私たちは仲良くなっていた。でも、ある日彼女は居なくなった」
彼女は小さく首を振った。その顔には深い後悔と、根強い悲愴が刻まれているように見えた。
「そんなことがあったんですか」
「……ええ」
どちらともなく口を噤む。すると彼女は思い出したように弁当箱の蓋を開け、こちらのパンが完食されている様を見て、一言、「あはは」と乾いた笑いを漏らし、箸を動かし始めた。
彼女が食べ終えるまで、僕は貯水タンクの乗るコンクリートの壁面に背を預け、目を閉じた。視界が暗闇に包まれる。秋のまだ暖かい風が首筋を優しく撫でた。
彼女は僕に遠慮したのか、すぐに食べ終えた。頃合いを見計らって僕は口を開いた。
「自殺した方の、名前を伺っても宜しいですか」
「……そんなことを聞いてどうするのかしら」
「興味本位です。これといった意図はありません」
「柏木実よ」
「そうですか。ああ、そう言えば、あなたの名前も伺っていませんでしたね。失礼ながら、お教えいただけますか」
「…………」
彼女は黙り込んでしまった。
「おや、どうかしましたか」
「周藤美春……」
次に紡がれた言葉は、明らかに今までの彼女の快活な話し方から打って変わっていた。心なしか、その表情にも苦悶が浮かんでいるような気がする。
僕は追い討ちを掛ける。
「いえ、僕が聞いているのはその後輩さんの名前ではなく、あなたの名前です」
彼女の顔が驚愕に歪んだ。大きな瞳はさらに開かれ、白くなるほど強く握られた両手も、がたがたと震えてしまっている。
「あなた、何者なの?」
なおも彼女は虚勢を張って、咎めるような口調で僕を睨んだ。僕はその両の目を見るともなく見る。
「僕には人の縁が見えるんです」
「……縁?」
彼女は、何の話だ、とばかりに精一杯の疑問を顔で示した。表情が豊かな人だと僕は思った。
「いつから見えるのか、どうして見えるのか。それは僕にも分かりません。はっきりしているのは、僕の眼は、普段あなたにも他の人にも見えているような風景と、もうひとつ別の風景が見えるということ。常人には決して見ることができない縁の存在を、僕の目は視覚化し、認識します」
色相を失い、陰と陽の入れ替わった世界。白と黒で構成された光景に浮かぶ、色取り取りの縁の線々。それはまるで、夏の夜に舞い上がる花火のよう――。
説明していて嫌気が差す。自分でさえ理解できないことを、間接的に聞かされた相手の反応を見るのは、とても恐ろしいことだ。でも、いやだからこそ誰かに理解して欲しいと思う。そうやって説明してるあたり、僕も案外、寂しがり屋なのかもしれない。
「よく、分からない」
「そうでしょうね。端から見れば、僕はただの精神異常者だと受け取られてもおかしくはない。ですが、僕の話が単なる嘘ではないことを、既にあなたは知っている筈です」
「だから、よく分からないって――」
「あなたには縁が無い」
「……ッ!」
空気が凍った。
彼女は呼吸の方法を忘れたかのように何度か口をパクパクと動かし、すぐに本能が危険を察知して激しく咳き込んだ。酸素を求めるように何度も大きく息を吸い、吐くことを繰り返す。僕は彼女が落ち着くまで待つことにした。
それには思ったより時間が掛からなかった。時計は見ていないけれど、おそらく二分ほど。それから、彼女は自発的に口を開いた。
「どこまで分かっているの?」
「そうですね。まず、あなたは嘘を吐いた。あなたが本当の、柏木実――自殺した二歳年上の女子生徒ですね。そして周藤美春はあなたを止めようとした僕の一つ上の先輩。
これは根拠が少ないので仮説に過ぎないのですが、三年前にこの学校の生徒が一人、突然姿を消した事件というのもあなたです。僕とあなたの靴の色が一緒なのは、この学校の形式上、一周違いで偶然同じになっただけ。これなら事件の年とも一致する」
僕は彼女の返答を待つ。
彼女は溜め息を一つ吐いて、諦めたように頷いた。
「ええ、あなたの言う通り。全て正解よ。どうやら、縁が何たらっていうのも事実みたいね」
「実際に見せてあげられないのが残念ですが」
「別にいいわ。何となく分かったから」
彼女は疲れたように笑い、最初のフェンスへと歩いて行ってしまった。僕もそれを追う。
僕の方に振り向いてフェンスにもたれ掛かると、自嘲気味に呟いた。
「そっかぁ。私にはもう縁がないんだ」
僕は答えない。縁を見ることが出来る僕からすれば、それの意味するところは、十分過ぎるほどに理解してしまっているから。
「あの子、元気かなぁ……」
「周藤美春のことですか?」
彼女は頷く。ふと頭の中に心残りという文字が浮かんだ。今の言葉から、彼女は現世の人間には干渉できないらしいことが受け取れた。ここで風景を見ていたのも、そのためだろう。もしかしたら、屋上から外に出られないのかもしれない。誰も来ない屋上で、独りで一人の特別な人間のことを想う。それがどれだけ寂しく、辛いことなのかは、僕には分からない。
僕に何かできることはあるだろうか。確かに、ここで出会ったことをただの偶然と片付けて去ってしまうのも僕の自由だ。
だけど、
「僕が代わりに様子を見てきますよ」
気が付けばそう口にしていた。彼女は驚いた。
「あなたが……?」
「はい」
言ってしまったからには仕方が無い。約束という行為は、自分が拘束されるためにひどく嫌いだが、今は状況が状況、聞かない訳にもいくまい。
「あなたは、これからどうしますか」
三年前から今まで、彼女がどう過ごしてきたのかも、どうやってここに姿を現しているのかも、知る由は無い。別に知りたくも無い。
「そうね。じゃあ、後のことはあなたに任せて、私は在るべき場所に帰るわ」
「そうですか」
「何だかあなたのその無関心・無干渉っぷりにも、いい加減慣れてきたわ」
「それは何よりです」
「ふふ。じゃあ、あの子のことをよろしくね。私のことについては……あなたに任せることにしようかな。教えるも良し、黙っているも良し」
彼女はそこまで言うと、眩しげに空を見上げた。
「今日はいい天気ね」
「そうですね」
彼女は空を見たまま目を離そうとしない。まるでそこにある何かに怯え、それでも覚悟を決めるかのように。
「……じゃあ、ね」
「はい、さようなら」
僕の返事と同時に、彼女の姿は見えなくなった。もっと、粉になって飛んでいくとか、光に包まれて消えていくとかの非現実性を期待していたのだが、残念ながらそれは叶わなかった。
彼女には言わなかったが、去り際の彼女の身体には縁が見えていた。今まで完全な個体であった彼女に繋がれた一本の線。それは強く、強く光り輝いていた。
それは遥か上方、空や宇宙という単位ではなく、相対的な意味での上に向かっていた。
僕には縁が見える。
だからその縁の行く先も見えていた。
うまい言葉が見つからないけれど、おそらく一番ありふれた言い方をすればこうなるんだろう。
天国。
僕はもう一度彼女の消えたフェンスの辺りを振り返り、両手を合わせると、頭を切り替えて屋上を出た。来た時と同じ貼り紙の横を通り過ぎ、階段を下りた。
廊下に出ると、誰かが立っていた。
その女生徒は僕が歩いてきた方向を見て、静かに涙を流していた。彼女もわけが分からないようだった。
今、彼女の縁が一つ消えた。それと同時に、新しい縁が芽生えた。
ああ、きっとそれは僕の縁。だから、この人はきっと、
「周藤美春さんですね」
「……え?」
「あの人は帰りましたよ」
「あの人……?」
「全ては縁の赴くままに」
僕は彼女の横を通り過ぎ、自分の教室へと向かう。
目の前には一本の光。それは限りなく続く神話のように優しく、幼き頃に引かれた父の手のように力強く、僕を導いていく。
僕はこれからも生きていく。たくさんの縁と触れ、すれ違い、別れる。そしていつかは、あの人のように天と繋がるんだろう。
縁は世界。縁は己。縁は精神。縁は万理
そう、全ては縁の赴くままに。