37_山を越えた先には
山間部に向かえば向かうほど、風は容赦なく肌を刺した。
冷たさが骨の奥まで染み込んでいく。
レオン様に渡された新しい手袋がなければ、今頃舟を漕ぐ手は冗談抜きで凍っていたかもしれない。
私はきっと疲れ果てていたのに、休む気にはならなかった。
クロノス様が生きている。その事実だけで、このまま世界を一周できそうなほどの気力が湧いてくる。道中の寒さなんて、些細なことに思えた。
けれども、ふと脳裏をよぎるのは、この手紙の宛先についての疑問だ。
「この空白の手紙の宛先は……」
声に出して考えを整理しようとするたび、胸の中に得体の知れない感情が渦巻く。
私にも知られたくない宛先。宛先の人間だけに知らされる大切なこと。そんなの、どう考えても彼の――愛する人なのではないかと勘繰ってしまう。
「クロノス様は、確かに私のことを大切に思ってくれていた。それでも」
もし、この手紙の宛先が、今の彼が大切にしている人だったらどうしよう。
「だって、北大陸でクロノス様は瀕死だったわけで。それを助けた人がいるわけで。その人と恋に落ちてもおかしくないし……」
もし、彼が遠征先の北大陸大戦で愛する人を見つけていたとしたら。その人と恋に落ちていたのだとしたら。そして、その人と最期を過ごすために、アズーラ帝国に戻ってきているとしたら。
十分に考えられる話だ。
「なら、私がわざわざこの手紙を届ける意味も、クロノス様に会いに行く意味もないのかもしれない……」
舟を漕ぐ手を止めて、冷たい風に晒されながら空を見上げた。
曇天に覆われた空は薄暗く、山間の奥部に近づくにつれて太陽の光さえも弱々しくなっていく。
「……違う」
私は、小さくつぶやいた。
「違う。これを届けるのも、クロノス様に会うのも、私の我儘だ」
そうだ。私が決めたんじゃないか。
誰に頼まれたわけでもない。これは私の物語だ。
無情令嬢と呼ばれていた、操り人形だった、私の意思だ。
「クロノス様のためなんかじゃない! 最初から、私が勝手に飛び出しただけなの! だから、私の好きにさせてもらう!」
舟を漕ぐ手を止めては駄目だ。私は責任を持って、この手紙の宛先の人物をこの目で拝むのだ。それが、仮に旦那様の愛する女性だったとしても。
そう意気込んだところで、私は舟を漕ぐ手を止めた。いや、正確には止まってしまったというほうが正しい。
しゃり、と音がしたのだ。水面を見れば、まるでシャーベットのように運河が凍ってしまっているのである。
『運河が凍っていたら、引き返すこと』
レオン様の言葉を思い出して、でも、その言葉に従う気にはなれなかった。ごめんなさいと心の中で謝る。
「……私は、馬鹿なのかもしれない。意外と無鉄砲で、いつも何も考えていない」
私は、舟から降りていた。そうして、ブーツを踏みしめて地面を蹴った。
……だって、運河が溶けるのなんて待っていられないじゃないか。
そうして、私はろくに整備されていない山道を歩いていくことにした。
運河沿いに歩けば、迷子になることはない。けれども、平坦に整備された運河とは違って山道は勾配がきつく、歩くだけでも一苦労だ。
オルディンからカリスタ港町で野宿したクヌギ林が、大層平和に思えてくる。
「……あっ」
気を抜いていたからだろう。つるり、と斜面に滑った私は派手に尻もちをついた。めりめりっと小枝が音を立てて、体に刺さる。痛かった。
昔は私が転びそうになった時は、いつもクロノス様が支えてくれたな、なんて懐かしい思い出を噛みしめながら私は立ち上がった。そうして、再び歩き出した。
枯れ葉が積もった凍りついた地面に足を取られる。何度も滑りそうになり、そのたびに木の枝に手をついて体勢を立て直す。
体力が尽きかけた頃、ふと目の前に現れたのは古びた木製の看板だった。文字はほとんど消えかかっていたが、かろうじて「サイレーナ入口」の文字が読み取れる。
私のフリルに塗れた服は、もう見る影もないくらいボロボロだった。
こんな服で山に登るなんて、自殺行為に等しいかもしれなかった。
それでも、クロノス様に会うためなら、死んでも良いと思えたのだ。




