32_私と共犯者に
◇◇◇
トランクケースを投げ捨て、身軽になった私は走るスピードも格段に速くなった。額の汗をハンカチで拭いながら、再びレンガ造りの建物の中に入っていく。
「すみません、レオン様はいらっしゃいますか」
「……少々、お持ちください」
先ほどとは違う看護師さんに声をかけると、すぐに応接間に通された私は、壁時計の音だけが響く静かな空間で待つことになった。
きっとそれほど時間は経っていないのに、妙に落ち着かない気持ちだった。先ほどは気にしなかったソファの柔らかさや、壁のシミまで気になってくる。
「また僕にお客さん? 今日は妙に多いなぁ」
いそいそと出てきたその男――レオン様は、相変わらずパジャマ姿だった。先ほどよりも酷い寝癖のついた髪を見たところ、二度寝していたのだろう。
「……えっと、君は?」
その言葉に私の心がざわめく。
数々の違和感が繋がり、明確な答えに変わる瞬間だった。
「どうも、アレクシアです。一時間程度でそんなに雰囲気が変わりましたかね?」
軽い皮肉を込めてそう告げると、彼の肩がぴくりと揺れた。
気まずそうな顔を浮かべた彼は、一瞬だけ視線を逸らし、それから諦めたように深くため息をついた。
先ほどとは異なり、彼は壁に手を当てながら慎重に部屋へと入る。
「君って、何でもできる完璧令嬢って呼ばれてたよね。つまり、頭の回転の速さも持ち合わせている、と」
表面上は軽い冗談めいた口調。
しかし、隠しきれない緊張感がその言葉の端々に滲み出ている。
手探りでソファを見つけると、彼はゆっくりと腰を下ろした。その仕草を見届けながら、私は自分の推測を語り始める。
「ええ、違和感があったのです。先ほどここを訪れた時に、レオン様は私のことが分からなかった」
「なんだ、そこからか」
彼は笑いを交えながらあごに手を当てたものの、私を真正面から見ることはしなかった。虚ろな視線がそのまま天井を彷徨い、私の胸の中の確信がさらに固いものになる。
「自分の言うのもなんですが、私の容姿は目立つ方です。それに、何度か顔を合わせたことのある主治医なら、私を忘れることなど考えられません」
「……そうだね」
私とレオン様が顔を合わせたのは、私が彼の当直室でベッドを奪ったあの一日だけではない。少なくとも、三か月ほどは毎週彼の勤めている病院で診察を受けていた。だから、顔を忘れるなんて普通ならあり得ない。
「そして、たった今確信に変わりました。貴方は、私が話し始めるまで、私のことが分からなかった。ついさっき会ったばかりなのに」
視線を彼に向けたまま、息を整える。レオン様の手が微かに震え、膝の上に置かれたそれをぎゅっと握りしめるのが見えた。
「確信した理由は他にもあります。クロノス様の手紙をその場で読まなかったこと。宛名が空白の手紙に気づかなかったこと。そして、廊下で何度も物にぶつかっていたこと」
「……」
彼は何も言わず、唇を一度噛む。その仕草が何よりの答えだった。
「レオン様は、失明しているのですね――おそらく、毒によって」
「……なるほど」
はぁあと、盛大な溜息をつかれた。諦めなのか、緊張が解けたのか、はたまた感心なのか。真意は分かりかねるところだ。
「はあ、他には……?」
「ええと、あとは、レオン様は、パジャマを着ています。貴方は医師としてではなく患者として、ここにいるのではありませんか?」
「……おー、怖い怖い」
力の抜けたような笑い声が、ソファの上から漏れる。そして、彼は肩をすくめたあとで、「そーだよ」と静かに告げた。
「俺は毒の影響で、余命わずかなクロノスの被害者だよ。いやぁ、君に心配をかけてはいけないって思っていたんだけど……」
「嘘だ!」
きっぱりと言い返すと、彼は困った顔で薄く笑った。まるで、その言葉を待っていたような表情にも思えた。
「レオン様、貴方は良い人です」
「……ん?」
突如として放たれた褒め言葉に、彼の眉がぴくりと動く。
「だから、嘘をつく時に申し訳なさそうな顔をする。それが例え、人を守るための嘘であっても」
彼を見つめる視線を逸らさない。胸の内から溢れる思いをすべて言葉に乗せるのだ。
「教えてください、貴方のことについて。そして、クロノス様の死の真相について」
私の願いを込めた言葉が部屋の静寂に吸い込まれていく。
少しの間、空気が凍ったかのように動きを止めたが、やがて彼が息を吐きながら、ぽつりと呟いた。
「どうしてそこまでするの?」
「私が、旦那様に会いたいと、そう思うからです。その思いだけで、ここまでやってきたのです」
屋敷を飛び出して約二週間。私がただひたすらに追いかけてきたのは、クロノス様の背中だった。
「軍部に口止めをされているのかもしれません。それでも、どうか」
ずいぶんと無責任な発言だと重々承知していた。
失礼だし、無礼だし、感情の無い頃の私だって、こんなことを言われたら感情を思い出して激怒するかもしれない。それでも。
「私に脅されたとでも、殺されかけたとでも好きに言って貰ってかまいません。なので、どうか……軍部の秘密を知る、私の共犯者になってくれませんか!」
頭を下げた勢いで、ごちん、とテーブルに頭を打った。
その音を聞いたレオン様が、ふっと呆れたように噴き出す声が聞こえた。
「……その猪突猛進なところ、変わっていないんだね」
「えっ?」
「僕の負けだよ、アレクシアちゃん。……まあ、クロノスとの約束は守れそうにないけどな」
彼の口から紡がれたのは、四年前の真実だった。




