30_操り人形は諦めない
◇◇◇
私は病院を出ると、とぼとぼと足を引きずってルクシー村内を宛てもなく歩いていた。
重たいトランクケースが一層重く感じる。もう、どうでも良いから捨てていこうかな、なんてやけっぱちな気持ちになってしまう。
クロノス様が、クーデター事件の犯人だった。
その事実を噛みしめるたびに今までの出来事が思い出されるのだ。
クロノス様が四年前の東国境反乱で功績を上げたのも。
不自然に上層部がいなくなったのも。
クロノス様が最年少で参謀長の座を勝ち取ったのも。
私に冷たくなって夜中まで出歩くようになったのも。
権力と金と女に目が眩んだ、自業自得な、哀れな男。
そう思えてしまえば、楽なのだろうか。
新婚旅行まで優しかったのは、彼の義務感によるものなのかもしれない。
でも、それなら、最初から私になんて優しくしないで欲しかった。
悲しみも、喜びも、この切ない気持ちも。
モンブランが甘くておいしいことも、「ありがとう」という言葉も、転べば誰かが抱き留めてくれることも、他人のための優しい嘘が存在することも、串に刺さった美味しいお肉があることも。
誰かを愛することが、こんなに辛いことも!
全部、ぜんぶ。知らないままで良かった。
「嫌いだ……クロノス様なんて……」
唇を強く噛んだ。乾燥で唇が切れて、血が滲んだ。
クロノス・カラマニスは、クーデターを企てた極悪人で、人殺し。そして、この世にはもういない。
死んだ人間は生き返らない。時間は巻き戻せない。それは、この世で一番残酷で、絶対的な事実である。
とぼとぼと旅路を逆戻りしていく。
私は、これから、どうすればいいのだろう。
わからない。
「この手紙と一緒ね」
宛先不明の手紙を取り出して、ぽつりと呟いた。私は、どこに行けばいいのか分からない哀れな郵便物と一緒なのだ。
しばらく歩き回ったあと、私はルクシー村から最寄りの船着き場に到着した。
ここからオルディン方面の舟に乗れば、来た道を引き返すことになる。
「……アレクシア!」
私の名前が聞こえて顔を上げる。
そこには、亜麻色の髪を持つ男と、私に似た顔つきの女が立っていた。――――私の両親が、そこにいた。
「……お母様、お父様」
私がそう言ったのと同時に、父は私のマフラーの先端を掴んで自分の方に引き寄せた。
「何をやっているんだ、こんなところで!」
ぎりぎりと首が締まっていく。
このマフラーは、令嬢たちから贈られた大切なものであって、決して動物のリードや首輪ではない。
抵抗するように引っ張れば、父はどんと突き放すようにマフラーを離した。
「どうして、ここに……」
「私たちがオルディンを訪れたら、屋敷にいないというから! 人づてに聞きながらやってきたのですよ。良かったわぁ、貴女に目立つ可愛らしい服を着せておいて」
母の瞳が優しく細められる。その瞳は、私の瞳と同じ緑色だけれども、私より色がくすんでいる。
「帰りますよ! 未亡人でも構わないという方からの縁談が来ていますからね」
「アレクシア、カラマニス家の財産はどうなったんだ。しっかりと整理して屋敷は競売にでもかけないか。あそこはオルディンの一等地だぞ! 金になる!」
やいやいと私の両耳に届く言葉が、頭の中でバラバラになって何ひとつ理解できなかった。
ああ、もう、このまま両親の言いなりになった方が楽なのかもしれない。
この悲しみも苦しみも全部捨てて、無情令嬢に戻ってしまおうか。
「アレクシア、こんなに素敵なお洋服が汚れて……」
「家に戻ったらしっかり寝なさい、見合いの準備があるからな」
母が私の服を撫で、父が私の荷物を持ち上げた。
ほら、こんなに両親も私のことを心配してくれているじゃないか。
「クロノスは酷い暴力男だったからな」
「そうよ、次は優しくてカッコいい人を選びましょうね」
両親はそう言いながら、歩き出した。オルディン方面の舟の出発の時間までは残り少ない。次の便に乗るとなれば、明日になってしまうだろう。
だから急がないといけない。そんなことは分かっていた。
「アレクシア、どうしたの?」
舟に乗り込もうとする両親たちが振り返る。
なぜか、私の足は一歩も動いていなかったのだ。
両親が怖いからなのか、それとも、クロノス様が悪人だったことにショックを受けているからなのか。
考えてみても分かるはずがない。
だって、私は感情のない「無情令嬢」で……。
「違う。そうやって、いつまで被害者面するつもりなのよ、私は」
私が感情を捨てたのは、両親のせいでも、出ていった兄のせいでも、周囲の環境のせいでもない。
ただ、自分が楽になりたかったからだ。
見たくないものを見ようとせず、分かりたくないものに分からないフリをして、自分を不自由に縛った。
そうすれば、何も考えなくて良かったのだ。自分の置かれた環境を恨むのも、それを変えようとするのも、膨大な気力と体力が必要だ。
幼い私はいつからか、自分の人生に抗うことをやめてしまったのだ。それは、私が弱いせいだ。
今だって同じだ。
何が、クロノス様が悪人だ。何も考えていないくせに。
ただ、レオン様から言われた言葉に絶望して、何も考えたくなくて、傷つきたくなくて、自分を守っただけのくせに。
少しの違和感に、見て見ぬふりをしたのは私じゃないか。
『アレクシア』
優しい呼び声が頭の中に響く。
クロノス様に向き合い続けていたら、きっと彼が酷い人間だなんて結論には至らなかったはずだ。
それなのに――私は一瞬でも彼を疑った。疑念という鋭い刃を、その優しい背中に向けてしまったのだ。
私は、弱い。最低だ。そんな思いが胸の中を掻き乱していく。
「さあ、行こう。クロノスなんて忘れて。あんな暴力男なんて縋る価値も無い。全部お前のためを思って――」
「……なに、が」
父親が、締め上げるように私の手首を掴んできた時、怒りが抑えきれなくなった。
次の瞬間、私は彼を突き飛ばしていた。
桟橋の下で水が大きく跳ね上がり、運河の水音が辺りに響く。
水面から顔を出した父親が、怒りで顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいた。
水滴が顔を伝い、濡れた髪が彼の表情を険しく見せる。
「な、何をするんだ!」
水面から飛び散る水滴の冷たさとは裏腹に、私の腹は未だかつてないほど熱く煮えたぎっている。
その感情は、決して父だけに向けられたものだけではない。クロノス様と向き合わなかった自分自身への苛立ちも混ざり合い、体中が震えた。
「何が、私のためなのですか!」
拳を強く握り締め、声を絞り出した。
「私は帰りません!」
父親の顔が一層険しくなる。怒りを含んだ低い声が私を刺すように響いた。
「お前は私たちの言うことを聞くように育てたはずだ! 感情を持たず、ただ私たちの言うことだけを聞く人形のように!」
「そうよぉ、一度、お兄ちゃんで失敗したからお人形さんみたいに育ててきたはずなのに、おかしいわね……?」
「……っ!」
両親の言葉が、心に刺さる。
ああ、私はこの人たちから愛情を貰ったことはないんだと、嫌でもそれを理解せざるを得なかった。
分かっていた。ずっと前から、私には両親の愛情など存在しないということを。
愛なんて錯覚だと私が言い続けていたのは、親からの愛情が無いのを信じたくなかったからだ。
だから、こうして言葉にされると胸が締め付けられるように苦しくなる。
こんな親でも、親だった。
でも、私はもう両親には縋らない。自分の力で――愛はあるのだと証明してみせる。
「どこに行くの、アレクシア!」
母親の声に振り向きもせず、桟橋から駆け出した。
重たいトランクケースを途中で放り投げ、靴音を響かせながら走る。
冷たい風が頬を叩き、目の前の景色が次々と流れていく。けれど、頭の中は逆に鮮明だった。
私が思い出していたのは、レオン様の言動だった。
ぼさぼさの髪にパジャマ。適当に羽織った白衣。分厚すぎる手紙。終始ぼうっとしたような態度。
一度はめられたパズルをもう一度崩して、新しく組み替える。
「……そう、やっぱり。そうだわ」
違和感が輪郭を帯びて、確かなものに変化していく。
レオン様は――私に嘘を付いている。




