03_旅立ちの日
◇◇◇
葬儀が終わって、一か月が経った。
あんなに大勢の人がクロノス様の死を悲しんでいたのに、今やオルディンの街は、終戦の話題で持ち切りだ。凱旋パレードが開催され、新しい参謀長も就任した。
周囲の時間は過ぎていく。クロノス様は忘れ去られていく。ただ私だけが、彼の死んだ日に取り残されていた。
この一か月、何も気力が湧かず自室に引きこもっていた私だったが、さすがに動かないとまずい。両親からも大量の手紙が届いているし、メイドも執事も困っているだろう。
それに、だ。
「……手紙、出さないと」
手元に残された五通の手紙。それらを郵便局に出しに行かなければならない。
私は、切手を貼るためにクロノス様の書斎に立ち入ることにした。
初めて足を踏み入れた書斎は、まるで身辺整理をしたのだろうかという程、何も無かった。
仕事も式典も全て軍服で済んでしまうため、申し訳程度の私服が数着。あとは、軍事に関する本が並んでいるだけだった。
私は、執務机の引き出しから切手を取り出しながら考える。
どうして、私は涙を流したのだろうか。あれからずっと頭の中でぐるぐると疑問が渦巻いているものの、一向にわからなかった。
私は彼を愛せない。だから、彼も私を愛さない。
私たちは、そんな契約めいた歪な婚姻関係を結んでいただけではなかったのだろうか。
窓の外で、ひゅうと北風が吹いた。
それがトリガーになってか、思わずくしゅんと一つクシャミをする。
冷えた空気が溜まっているのか、足先が氷のように冷たくなっていることにふと気がついた。
書斎には、切手を貼りに立ち寄っただけだから長居は無用だ。早く、暖かい自室に戻ろう。
そう思うのに、私の足は床とくっついてしまったかのように、動くことを嫌がった。
――ああ、クロノス様は、本当に死んでしまったのだろうか。
ここ一か月、気を抜くと、そんな馬鹿げた疑問が頭に浮かんできてしまうのだ。
クロノス・カラマニスは死んでしまった。
そんなこと幼児でもわかることだろう。
ゼノが早馬を飛ばして、私に彼の死を告げた。軍部から死亡宣言が下された。役所に書類の手続きをした。そうして、葬儀をあげた。
それなのに、彼が死んだ実感が湧かないのは、彼の痕跡が何一つ残っていないからだ。
空っぽの棺桶、空っぽの書斎。そんな場所に。
――ただいま、アレクシア
そんな声が、もしかしたら聞こえて来るんじゃないかって。全部嘘だと笑ってくれるのではないかって。期待してしまっている自分がいたのだ。
私の胸の中で溢れ続ける、行先の無くなった思いがぐるぐると渦巻いていく。
「馬鹿だわ。旦那様は、私のことを『愛していなかった』って言っていたじゃない……」
溜息とともに、吐いた息が白くなった。
疲れも相まって、このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。切手を貼るのは居間でやろう、とやっと足を動かした。
その時だった。
ふと、私の視界に紫色のスカーフが映った。彼の目の色と同じ、宵時のような色合いのそれは、私が新婚旅行の時に、はじめてクロノス様に贈ったものだ。
『……アレクシアが巻いてくれた、これがいいんだ』
彼が嬉しそうな表情で、そう言っていたことを思い出す。
しまい込むわけでもなく、かと言って雑に扱っているわけでもない。普段から手入れをして身につけていたことが容易にわかった。
思わず、私はそれを手に取った。
「もう贈ったのは、二年も前なのに」
シルクのスカーフなんて、この国では海風にやられてすぐに傷んでしまう。それなのに、私の手の中にあるものは、変わらずにつやつやと輝いているのだ。
このスカーフは高価なものではない。庶民でも買うことのできる、ただの量産品だ。
――ああ、どれだけ、大切にしていたのだろう
私は、胸のあたりが急激な切なさに襲われた。手紙とスカーフをぎゅっと抱えて、震えた息を吐き出した。
「手紙を郵便局に届けるのは、やめた」
クロノス様は私に、『五通の手紙を必ず届けて欲しい』とそう言った。
一通には、宛名がない。
このまま郵便局に持ち込んだとしても、『あて所に尋ねあたりません』という文言とともに、この屋敷に返送されるだけである。
かと言って、勝手に手紙を開封するわけにもいかないだろう。
「……私が全員に直接届ける。そして、この空白の手紙の宛先の人物も必ず見つける。この五人には、きっと何か共通点があるはずだから」
なぜ、クロノス様はこの五人に手紙を書いたのだろうか。
彼らとどんな交流をしていたのだろうか。
私の知らないところで、彼は何をしていたのだろうか。
どんな風に過ごしていたのだろうか。
彼の好きな色も、好きな食べ物も、好きな花さえ知らなかった。私は、自分の旦那であったクロノス・カラマニスという人間に、あまりに無関心過ぎた。
「だから……知るの。クロノス様のことを」
私は、スカーフを手に持ったまま書斎を飛び出した。
そうして、一目散に自室に飛び込んで、旅行用のトランクケースを引っ張り出した。
ワンピースに、着替えのシュミーズ。あとは、ネグリジェがいるだろうか。現金はどれくらい持って行けばいいのだろう。
思いつくまま、カバンの中にぽいぽいと荷物を詰め込んでいく。
「……お、奥様、何をしてらっしゃるのですか!」
がちゃがちゃと音を立てすぎただろうか。メイドが慌てて私に駆け寄ってきた。
しかし、そんなメイドに対しても私は冷静に答えるのだ。
「執事を呼んで。私は、しばらく家を空けるから」
「ちょ、ちょっと、奥様! どこに行かれるというのですか、そんな大荷物で!」
靴は歩きやすいように、履き替えよう。確か、ココアブラウンのショートブーツがあったはずだ。
長い亜麻色の髪は適当に結い上げ、大きめのハットを被った。寒いので、コートと手袋も欠かせない。
「ごめんなさい。私、郵便配達員になってくるわ」
「はい!?」
「奥様がついに病まれてしまわれた!」と焦った顔をしたメイドが大声を上げる。その大声を聞いた執事が何事かと駆けつけてきた。
「奥様、大丈夫ですか……?」
「……少し、旦那様を探しに行ってきます」
ぱたん、とトランクケースの蓋をしながら、私は告げる。
「探してくると言いましても、旦那様は……!」
「旦那様はもういない。分かってる。分かってるの、でも……」
上手く言葉が出てこない。
それはそうだろう。だって、私は今まで自分の意思で行動したことなんて数える程しかなかった。
その行動の意味を言語化しろと言われても、無理なものは無理なのだ。
「奥様……わかりました。お留守の間はお任せください」
「え……?」
紫色のシルクのスカーフに視線を落とした執事は、深く追求もせずそう告げた。目線を落として、にっこりと微笑んでいる。
「い、いいのですか。屋敷を空けることになりますが」
「今や奥様がこの家の主人なのです。私たちはご命令を聞くまで。……それに、奥様も少し気分転換された方が良いです」
執事は恭しく頭を下げた。
「気を付けていってらっしゃいませ」
その言葉に背中を押された気がした。
相変わらず、メイドは「奥様!」と叫び続けているけれど。
彼らになんて言葉を言うべきか迷ったあとに、私は言った。
「ありがとう……行ってきます」
そうして、重たくて仕方ない革張りのトランクケースを両手で持ち上げながら、屋敷を後にした。