15_無茶なお願いの正体-4年前の秋のこと-
◇◆◇
男爵家の屋敷に戻るまでの間、私は、四年前にアリスが告げた無茶なお願いを思い出していた。
『――お願いがあるの!』
そう言ってアリスに手を引かれた先は、彼女の母の部屋だった。
曇天に閉ざされた空が光を拒み、部屋は薄暗く、どんよりとした静寂に包まれている。
アリスの母は、病に倒れていたのだ。
私とクロノス様が訪れた時には、病は既に彼女の体を深く蝕み、素人目にも余命が長くないことが明白だった。恐らくは医者の手を諦め、最後は自宅で――と覚悟を決めたのだろう。
その部屋の中央で、アリスはそっと私に小さな袋を差し出した。
袋には、うさぎの刺繍が施されている。中には、欠けたり傷ついたりした宝石の欠片と、小銭が少し。
『あのね、魔法使いのアレクシアお姉ちゃんにお願いがあるの。これね、私が頑張って貯めたお小遣いなの』
少女は不安げながらも真剣な眼差しで私を見上げていた。その幼い必死さに、私は眉をひそめる。
『これ全部あげる! だから、お母さんを魔法で元気にしてほしいの!』
『…………アリス、それは』
その願いは――叶えられない。
人の病を癒す魔法など、この世界には存在しない。
魔法が万能ならば、誰も死ぬこともなんてない。争いも消え去り、すべての人が幸せに暮らせる。……でも、実際はそうではない。
彼女の差し出したお小遣いはあまりにささやかだった。たとえ治療が可能だとしても、この額では医者を呼ぶことすら叶わない。
『それは無理よ』
そう言おうと口を開きかけて、私は言葉を飲み込んだ。
アリスの瞳には涙が浮かび、それが頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちている。
疑うことなく、母親が助かると信じきっているのかもしれない。
『お願い……っ!』
少女の切実な声が、私の胸を抉った。
理屈を述べ、現実を伝えるのは簡単だ。だが、それを口にした瞬間、目の前のアリスの心を引き裂いてしまう。
『……わたし、は』
喉に言葉が詰まり、どう答えればいいのか分からなかった。
普通の人間なら、どう答えるのだろうか。私がほとほと困り果てた時だった。
不意に部屋に響いたのは、鈴のような優しい声だった。
『アレクシア様、お願いします。私に魔法をかけてくださいな』
驚いて振り向くと、ベッドの上で弱々しく微笑むアリスの母がいた。陽に当たっていないからか真っ白な肌の彼女は、儚げで美しい。
『ま、魔法ですか?』
私は、彼女に問い返した。
まさか、アリスの母が本当に私を魔法使いだと思っているとは思えない。
『お願いします、どうか、魔法をかけてください』
意味がわからなかった。アリスの母もまた、クロノス様と同じように『子どもの夢を壊してくれるな』と思っているのだろうか。
ふと、少し離れた場所にいたクロノス様と目が合う。
『がんばれ』と、唇がそう動くのを見て、私は小さく頷いた。
『……わかりました』
私はベッドのそばに歩み寄り、静かに尋ねた。
『何をすればよろしいでしょうか』
『子守唄を、歌ってください。幼い頃、この子によく歌ってあげていたので』
ああ、あの絵本と同じことするのかと私はげんなりした。『魔法、いきます』というセンスのない呪文は、さすがに不採用だろうが。
すうっと息を吸って、私は歌を紡いだ。
『……ララ、海の星 静かな波に
眠りの舟が揺れるよ そっと揺れるよ』
私は、母親から子守唄なんて歌われたことは無い。だから、音程が少しずれているかもしれない。
絵本で見た魔法使いよりも、ずっと拙い歌だったと思う。それでも、私は歌い続けた。
その時だった。
曇り空の隙間から、まるで天への梯子が掛けられたように光が差し込んだのだ。どんよりと曇っていた空に、晴れ間が広がっていく。
幻想的な光景に、一瞬目を奪われそうになる。
『月が見守る 銀の光で
あなたを包む 夢の海へと』
歌い終わった私は、ちらりとアリスを見た。
彼女は、泣いていた。差し込む陽の光を見ながら、私のことを見上げたかと思うと、『わぁっ!』と涙を振り払って抱き着いてくる。
『すごい! アレクシアお姉ちゃんって、本当に魔法使いなんだわ! ねぇ! お母様、良くなった!?』
私に抱き着いたまま、アリスは母に問いかける。
けれども、アリスの母は両手で顔を覆ったまま小さく震える声で言葉を紡ぐのだ。
『……うん、良くなったわ』
『本当!? じゃあ、遊べる!? お母さまと一緒に行きたいところが沢山あるの!』
『うん』
その言葉が嘘だと私は知っている。
だって、私は魔法使いなんかじゃない。歌は拙いし、晴れ間が出たのもただの偶然だ。
『あのね、あのね、私、ハイキングに行きたい! あとは、大きなお船に乗って旅行も行きたいわ!』
『もちろんよ』
『あとね、わたし、一緒に街でお買い物がしたいわ! オルディンのお洋服屋さんを見て回って、美味しい物を食べたい! そしてね、公園でゆっくりするの、ねえ、良いでしょう?』
『……うん、そうね』
ああ、そういうことなのか。
私は、やっとクロノス様の言っていた意味が分かった。
嘘はきっと、誰かを貶めるためのものだけではない。優しい嘘だって存在するだろう。
でも。これは。あまりにも。
『……っ』
無理だった。
それ以上眺めていると、心臓が真っ二つに割れてしまいそうな気がしたのだ。
私は耐えられず、部屋を飛び出す。
廊下に出たところで、後を追ってきたクロノス様が私の手首を掴んだ。
『アレクシア、大丈夫か?』
私はその問いに答えられない。ただ、言葉にならないモヤモヤが胸をせり上がり、堰を切ったように思いが溢れ出す。
『……まだ、小さいのに』
私の声は、なぜか震えていた。理性では押しとどめられないような熱が走る。
『まだ、こんなに幼いのに。アリスはひとりぼっちになってしまうんでしょうか』
堪えきれず、私はクロノス様に詰め寄る。
無意識のうちに彼の軍服を掴み、必死で声を絞り出した。
『どうにかならないのでしょうか。彼女のお母上は助からないのでしょうか。それこそ、他国から本当に魔法薬師を呼んではどうですか?』
自分でも、あまりに乱暴だと分かっていた。それでも止められなかった。
すがるようなその言葉に、クロノス様は微かに眉を寄せる。
『……アレクシア、君は』
『それか、錬金術を応用してはいかがでしょうか。最近医学にも適用される事例も増えてきましたし』
早口にまくしたてる私の声が震える。
けれども、その言葉は空虚に空回りするだけだ。
『アレクシア』
たしなめるような一言が、深く胸に刺さる。
私はハッとして手を離した。
彼の軍服のボタンを握りしめた手が、重力に引かれるようにぱたりと下がった。声も、動きも、全てが止まる。
分かっていた。どうにもならないことくらい。
十分に分かっていた。それでも。
『こんな残酷な嘘、つきたくありません……』
か細い声が喉を震わせた。
言葉にした途端、その重みが自分に降りかかる。
クロノス様の手が、静かに私の背中に添えられた。
その手のひらは驚くほど温かく、柔らかな感触だった。
背をとんとんと叩くその動作は、まるで子どもをあやすかのようだ。
『死んだ人間は生き返らない。時間は巻き戻せない。この世で一番残酷で、絶対的な事実だ』
その言葉は、クロノス様にしては冷徹だったが、軍人である彼はいつだって死に近しいところにいる。
事実、その通りだと私は唇を噛んでいた。
『君は優しいな。きっと誰よりも優しくて、清らかな心を持っている』
そんなことない、と言い返したかった。しかし、胸の奥から込み上げる感情に喉が詰まり、言葉は形にならなかった。
『君は、無感情なんかじゃないよ。アレクシア』
クロノス様の声が一層柔らかく響いた。
その瞳には、私をそっと受け止めるような光が宿っている気がした。
『……よく、頑張ったな』




