早朝の手伝い
ゆっくりと閉じていた瞼を開くと、そこは一面の闇だった。
夜というよりも闇という表現が正しい。夜であれば視界は悪くとも周囲の建物や人影など暗がりの中にも陰影があり何となく形が見て取れるものだが、今いる場所は本当に一切何も見えず、何もないただの黒い空間の中にイリス一人が佇んでいるようだった。
イリスはゆっくりと左右や後ろを振り返って周囲の状況を確認する。やはりどこを見てもただただ深い闇が広がっており、他には何も見えなかった。
普通なら恐ろしさを感じるような状況だが、イリスは不思議と恐怖も不安も感じていなかった。寧ろどちらかと言えば、安心感や落ち着きが感じられるような、闇の中に包み込まれているような感覚だった。
ここは、そんな不思議な空間だった。
「……」
とにかく状況を確認しなければとイリスが一歩を踏み出した時、パシャンと水が跳ねた。
下を見れば、地面に薄っすらと水が張ってある。これを地面と呼べるのか分からないが、とにかくイリスの足がついている真っ黒の面の上には、水があったのだ。先程周囲を見回した時は、足元も黒かったため水があることに気付かなかったようだ。
水はイリスの靴底が浸るくらいの僅かな水量ではあるが、それは前後左右どこまでも続いているようだった。
イリスがその場で足踏みをするように足を動かせば、イリスの足元から同心円状に波紋が広がり、この何もない空間に水音と波紋の描く文様が広がっていっていた。
「っ!」
足元の水面に気を取られていたイリスは、不意に人の気配を感じて咄嗟に肩に手を回しながら勢いよく顔をあげて前方を見た。
(……誰!?)
さっき前方を確認した時には誰もいなかったはずのそこに、イリスと同じくらいの背丈かそれよりも少し背の高い男性が立っていた。
何処から現れたのかも分からないその男性は、前方を見ているのでイリスからは後ろ姿しか見えていない。
髪はイリスと同じ琥珀色をしており、白いシャツに黒のズボンといった簡素な服装をしている。細身ではあるが、シャツの袖を捲り上げた部分から覗く上腕は程よく筋肉がついていて、鍛えられた身体であることが見て取れた。
イリスは咄嗟に剣を抜いて構えようと肩口に手を回したのだが、今は剣を背負っていなかったようで剣の柄を掴もうとした手が空を切る。
相手が敵か味方か分からない状態で丸腰なのは分が悪く、イリスはせめて相手と少し距離を取ろうと一歩後退った。
「?」
途端、先程と同じく足元の水が跳ねて辺りに水音が響く。するとその音に気付いたようで、目の前の男性が首を傾げながらゆっくりとイリスを振り返ろうとした。
(貴方はっ……)
咄嗟に、男性に向かってイリスは手を伸ばした。
しかしその手は何も掴むことはなく、気付けば三角錐をした布張りの天井に向けて伸ばされていた。
(……ここ、何処だっけ……。ああ、昨日はダンさんの家に泊めてもらったんだった)
徐々に覚醒してくるにつれて、イリスの頭も漸くしっかりと働き出す。昨日はナタラ族の長であるダンの家に泊めてもらうことになり、皆でこの部屋を借りて寝たのだ。
イリスの身体はベッドに横になった状態で、手は天井に向かって真っすぐに伸ばされていた。
(夢を、見ていたよね。……どんな夢だったっけ?もう……思い出せないな)
確かに夢を見ていたと思うのだが、目が覚めたら夢の内容は一つも覚えていなかった。
(不思議な夢、だったような気がする)
イリスは天井に伸ばした手をぎゅっと握る。その手は何も掴むことはなく、ただ空を握った。
何故だかイリスの胸は不安に掻き立てられ、空を握った手でぎゅっと胸を押さえた。
「……ああ、悪い。起こしたか?」
「っ!」
不意にレオンの声がして、イリスは直ぐ様上体を起こしてベッドの上に座し周囲の状況を確認した。
リュカはまだベッドの上で横になっており寝ているようだったが、既に起きていたレオンとロイがこの部屋の入り口付近で身支度を整えているところだった。
このテント式住居には窓がないので外の様子で今の時刻を知ることは出来ないが、おそらく明け方前だろうということは感覚的に分かる。
騎士団での習慣が身についていて、早朝訓練のためにこの時間に目を覚ます癖がついているのだ。
眠る際に着衣を緩めたので、外したシャツの袖口の釦を留めながらレオンがイリスを申し訳なさそうに見ていた。
そんなレオンに向き直り、イリスは軽く首を振る。
「ううん、いつもの時間だもの。自然と目が覚めただけ」
特に昨晩は夜間の見張りをダン達が買って出てくれたので、まとまって眠ることができいつもより睡眠時間も確保できている。すこぶる調子が良く、イリスは本当に自然と目が覚めていた。
「まだ休んでいてもいいぞ?今朝はリュカスの剣術訓練も行わないしな」
「リュカの訓練、しないの?」
昨日の指南役はレオンだったので、順番的には今日はロイが指導にあたるはずである。レオンの奥で首元の釦を留めていたロイを覗き込めば、ロイは苦笑いと共に肩を竦めた。
「歓迎されていない集落の中で、剣を振り回すのは避けた方が無難だからね」
「ああ、なるほど」
イリスは納得し深く頷く。
元々イリス達はナタラ族に得体の知れない不審な旅人として認識されており、昨晩も一戦交えたばかりである。
そんな歓迎されていない人々の中で剣の訓練などしようものならば、不信感は更に募り最悪また交戦することになりかねない。
レオンとロイが言うように、今日の剣術訓練は中止した方がいいだろう。
「でも、じゃあレオンとロイは何をする気なの?」
こんなに朝早い時間に身支度を整えている二人を交互に見れば、レオンとロイは目配せをした後、仕方がないとばかりに溜息を吐いた。
「イリスと同じくいつも通りに目が覚めちゃったからね。どうせなら何か集落の手伝いをしようかと思ったのさ」
「少しでも友好的にしていた方が、情報も聞き出しやすいだろう?」
レオンはそう言うがそんな打算ばかりでもなく、おそらく一晩泊めてもらったお礼に手伝いを申し出るつもりなのだろう。
イリスはリュカを起こさないようにベッドから音を立てないようにして降り立つと、にっこりと微笑んだ。
「私も手伝う。もう目が覚めちゃったしね」
イリスの言葉に、再びレオンとロイが顔を見合わせて溜息を吐いた。イリスがこのことを知ればそう言うだろうと思って、二人だけで行くつもりだったのだろう。
「よし、じゃあ出発」
イリスは二人に有無を言わせないようにさっさとフラッデルと剣を背負って胸の前でベルトで固定すると、二人の背を押しながら部屋の入り口の布をくぐった。
「おう、早いな。どうした?」
部屋を出ても主室には誰もおらず、家の入り口になっている布を捲り上げて戸外に出ると、そこにダンの姿があった。すでに今日の仕事に取り掛かっているようで、周囲にいる男達にあれこれと指示を出している。
家から出て来たイリス達に気付いたダンは、周囲の男達に指示を出し終えたタイミングで声を掛けてきた。
「ちょっと早く目が覚めただけです。でもまだ朝も早いので、もう一人の連れはあと少し寝かせておきたいんです。それまで僕等が何か皆さんのお手伝いをしますよ」
空全体はまだまだ紺色が濃く漸く東の空が薄っすらと白み始めてきたくらいで、まだ日の出までは時間がありそうだ。時間的にそこそこ手伝いも出来るだろうし、リュカももう少し眠ることが出来るだろう。
だがロイの話を聞いたダンは、あからさまに眉間の皺を深めた。
「手伝いだぁ?お前さん達がか?」
「そうです。こう見えて何でもできますよ」
ロイが腕を曲げて上腕に力こぶを作る仕草をして見せる。勿論長袖の服なので力こぶなど見えないが、力もそこそこあることを伝えるための演技だ。
そんなロイの姿を見たダンは、面白いとばかりに鼻で嗤った。
「ふん、それなら手伝ってもらおうじゃないか。ただし、やると言ったからには途中で投げ出すことは許さん。最後まで責任を持ってもらうぞ」
「勿論」
ロイが頷いたのを見て、ダンはニヤリと意地悪く笑うと周辺で作業をしていた男を一人呼び寄せた。
「こいつ等が手伝ってくれるそうだ。水汲みに一緒に行ってもらえ」
「は?……こんな細腕で出来る訳ねぇじゃないすか」
呼ばれた男は近くまでやってくると、ダンの隣に立つレオンとロイを上から下まで眺めて鼻で嗤った。
「最後まで責任は持たせる。連れていけ」
「……うぃす」
男は渋々納得すると顎で行く先を指し示し、自分は先に歩き始めた。それを見てレオンとロイも後に続く。
「えっ!?」
同じようにイリスも付いて行こうと一歩を踏み出したのだが、肩に手を置かれグイッと後ろに引かれた。
バランスを崩すほどではなかったがイリスが驚いて後ろを振り返ると、ダンがまたしても口角を上げてニヤリと笑っていた。
「お前さんはこっちだ」
「?」
訳が分からないまま、歩き出したダンにイリスも続く。何か他にも仕事があるのかと思っていたのだが、ダンは自分の家の入り口の布をくぐった。
何処か別の場所に行くとばかり思っていたイリスは面食らうが、とにかく今はダンの後を追うしかない。イリスは今し方出て来たばかりの入り口の布を捲って再び室内に戻った。
「ニーナ、起きているんだろう」
室内に入ると、ダンはイリス達が使わせてもらった部屋とは別の部屋の入り口の布をくぐって中に入ってしまった。
ダンの家には気配で他にも人がいるということは分かっていたが、どうやらその部屋にはニーナという人がいるようだ。
(名前からして女性のようだけれど、その人の仕事の手伝いをしろってことかしら?)
食事の支度から掃除洗濯まで、家の中でやらなければならない仕事も山ほどある。それらを手伝うように言われるのだろうか。
イリスは帝都ではアイザックと二人暮らしであったし、騎士団では遠征や訓練などで野営をすることもあったので、一通りのことは身についている。一部不得手なものも無きにしも非ずだが、人並に熟すことは出来た。
(何を頼まれても、一生懸命やるだけね)
主室に一人残されたイリスが思考を巡らせていると、程なくしてダンが入り口の布を捲って戻ってきた。だが、その後ろにニーナらしき人物の姿はなく、イリスは首を捻る。
「お前さんにはニーナの相手をしてもらいたい。朝俺が動き出すと目が覚めちまうんだが、俺は仕事が忙しいし、ノーラは今自分のことで手一杯でな。構ってやれてないんだ」
「……分かりました」
情報が些か足りていないが、今のダンの話でイリスは大体のことを把握した。どうやら皆忙しいので、ニーナという人の世話をイリスに頼みたいようだ。
「それで?ニーナさんはどこに?」
「ガハハッ……ここにいる」
イリスが訊ねると、ダンは笑いながら入り口から一歩横にずれた。
入り口が良く見えるようになったのでその中から現れるのかと思ったのだが、直ぐにイリスはそうではないことに気付いた。
ダンが後ろの入り口ではなく自分の足元の方を見ていることが視線で分かり、イリスもダンの足元を注視する。すると、ダンの足の後ろからひょっこりと小さな女の子が顔を出したのだ。
「!」
顔を出した女の子の頭にその大きな手を乗せると、ダンは柔らかそうな細い茶色の髪の毛を優しく撫でた。
「ニーナだ。俺も仕事で忙しいが、家内のノーラは身重であんまり構ってやれていなくてな。遊んでやってくれ」
ダンの足にしがみついて顔だけ覗かせているニーナを見遣る。初めて会うイリスに警戒もしているようだが、どうやら興味もあるようだ。まん丸の目が不思議なものを発見した時のように輝いている。
予想外の申し出に困惑しながらも、イリスはニーナに不安を抱かせないようにできるだけ優しい笑みを作って見せた。




