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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第四章 国を隔てる連峰
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未来のために

 二人の間に沈黙が流れる。


 息苦しさを感じてふと気付くと、息をすることさえ躊躇われるようなこの状況に、イリスは無意識のうちに息を止めてしまっていたようだ。

 平地よりも標高の高いこの場所では空気も薄い。大きく息を吸い込み、できるだけ肺に空気を取り込んだ。


(大丈夫、落ち着いて……)


 心臓の鼓動が早い。けれどこれは動揺のせいではないと必死に自分に言い聞かせる。イリスは気持ちを落ち着けようと、ゆっくりと息を吐き出した。

 そして黙ったまま、ダンの次の出方を待つ。


 向かい合っているダンは時が止まったかのように身動き一つ、呼吸すらも忘れたかのように微動だにしていない。

 だが急に片手を上げると、徐に額を押さた。


「……いや、そんな……お前さんが?……王女は死んで……」


 ダンは額を押さえていた手で今度は頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。頭の中で話の内容を整理しきれず、言葉になって漏れ出ているようだった。混乱している様子がありありと見て取れる。

 そんなダンを目の前にしていると、少しだけ落ち着いてきた気持ちがまた萎みそうになる。イリスは気持ちを奮い立たせるように拳をぐっと握ると口を開いた。 


「私は八年前、ドルシグの乱の最中サンスタシア帝国の騎士であった養父に助け出されました。……ですが私には八年前以前の記憶がありません。だから、私には自分が王女だという確信はありません」

「は?……記憶が無い?」


 ガシガシと頭を掻きむしっていた手を止め、ダンが素っ頓狂な声を上げながらイリスをまじまじと見つめる。


「助け出された後高熱に浮かされた私は、その日以前の記憶を失くしてしまったんです。だから私達は今、オートレア王国を目指しています」

「オートレア……。そうか、医術で記憶の復活を試みる訳か」


 オートレア王国は大陸一の医療技術を有しており、医療に携わる個々の医師の水準も高いと言われている。

 やはり世界に医療大国としてその名を轟かせているだけに、国名を出しただけでイリスの考えは正確にダンに伝わったようだ。


 頭を掻いていた手を今度は顎に当て頭の中で今までの話を反芻していたダンは、虚空に視線を彷徨わせた後イリスをひたと見つめた。


「……お前さんは今まで記憶がなくて、自分が王女だとは知らなかったんだよな?」

「そうです。全く知りませんでした」

「じゃあ、何で今になって記憶を取り戻そうと思ったんだ?」

「それは……」


 ダンの疑問は尤もだ。本来であればイリス自身も、そんな過去を知ることなく今も過ごしていたはずだったのだ。

 しかしあの日、ウィレンツィア王国の革命軍であるリュカと、そのリュカを追ってドルシグ帝国のエルヴィン皇子がイリスの前に現れた。

 イリスはそこから流されるようにして、運命の大きな濁流の中に身を投じさせられていた。


「……それまでの私は、記憶が無くても不便は感じていませんでした。ですがあの日……」


 イリスはそこで一旦言葉を切ると、不規則に鳴る心臓を落ち着かせるように胸元の服をぎゅっと掴んだ。


「……あの日、私はエルヴィン皇子と遭遇しました。私のことを一目見て皇子は、死んだはずのウィレンツィア王国の王女だと確信したようなのです。エルヴィン皇子はきっと私を逃がすことはないでしょう。だから私は、過去と向き合う覚悟を決めたんです」


 エルヴィン皇子がイリスを狙う本当の理由は、『世界の力』を封印した扉を開けるための鍵として必要な存在であるからなのだが、その辺りはダンには伝えないでおいた。

 知らなくてもいい事を知って、余計なことに巻き込んでしまわないようにするためだ。

 

 ダンはイリスの言葉を頭の中で整理すると、ゆっくりと口を開いた。


「……ならお前さんが今記憶を取り戻そうとしているのは何の為だ?復讐の為か、王族としての責任か?」


 先程まで混乱していたはずのダンの表情が、気付くと険しいものになっていた。右目の漆黒の闇がイリスを真っ直ぐに見据えている。

 その深い底なし沼のような漆黒の瞳は、イリスの浅はかな思いをどこまでも見透かすようだった。


(記憶を取り戻すことは、自分が自分でいるために必要なことだもの)


 言い聞かせるように心の中で呟いてみるが、イリスの中で本当にそうだろうかという疑問が浮かぶ。


 確かに記憶が曖昧なままでは、自国を取り戻そうと奮闘しているウィレンツィア王国民と同じ気持ちでドルシグ帝国に相対することは出来ないだろう。けれどイリスがウィレンツィア王国民と同じ気持ちになる必要が果たして本当にあるのだろうか。

 リュカは言っていた。革命軍は見つけた生き残りの王族を匿うつもりでいて、矢面に立たせるつもりは無いと。

 現段階でイリスは、ウィレンツィア王国の生き残りの王族であるかどうかも分かっていない。そんなイリスが、敢えてドルシグ帝国に狙われる危険を冒してまで旅に出て記憶を取り戻す必要性はないように思えた。


(じゃあ何故、記憶を取り戻す為に旅をしているの)


 その疑問は、考えていくと直ぐに答えが出た。イリスが帝都に留まり続ければ、イリスを手に入れようと動くドルシグ帝国によって帝都に危害が及ぶかもしれないからだ。

 けれど仮に帝都に攻め入れられたとしたら、それこそ世界平和条約を掲げて他国と共闘しドルシグ帝国を攻め落とすことができる。


(なら、私は今何の為に……)


 答えが出ない疑問を前に、イリスが押し黙る。

 何か重たいものに心が圧し潰されそうになっていると、そんなイリスを見つめていたダンがゆっくりと口を開いた。


「お前さんはきっと、責任感の強い人間なんだ。それは悪い事じゃない。だが、記憶も無いのに自分が王女かもしれないからと国の役に立とうとするな。それは責任感でもなんでもない。ただの自己犠牲で自己満足だ」


 静寂の森の中に、威圧感のあるダンの声が木霊する。それはイリスの心をじわじわと浸食し、ゆっくりと蝕んでいくようだった。

 何となくイリスが感じていた事を、はっきりと言葉にされた気がしたのだ。


 きっと世界全体のことを考えれば、イリスは帝都のロードベルク城内に身を潜め、攻め入ってくるであろうドルシグ帝国に対して公に世界平和条約の下、他国の協力を得て制裁を加えるのが最善策だったのだろう。


 しかし、イリスはその選択をしなかった。 


 帝都に留まれば、帝都が戦場と化すかもしれない。けれどイリスが帝都を去れば、民に危害は及ばない。それならば取るべき道は一つだった。

 まして自分が一国の王女かもしれないのに、自分は何もせずにただ匿われるだけで、自分を守ろうとする人々が傷付くかもしれない選択肢なんてイリスには考えられなかった。


 しかしダンの言う通り、それは自己犠牲であり、自己満足な選択でしかないのだろう。


「あー、……悪い。言い方が悪かった」


 黙ってしまったイリスを見て、追い詰めてしまったのではとダンが焦る。

 ダンはバツが悪そうに視線を逸らすと、片手を腰に当てもう片方の手でガシガシと頭を掻いた。先程から幾度となくこの姿を見るが、困った時の癖なのかもしれない。


「俺が言いたいのは、過去に囚われ過ぎるな、ってことだよ」


 ダンの言葉がよく分からず、イリスは首を捻る。そんなイリスを見て、ダンは一呼吸置くと説明するようにゆっくりと言葉を紡いだ。


「どんなに頑張っても過去は変えられないんだ。復讐を果たしても、過去は無かった事にはならない。死者は生き返らない。後悔はずっと続くだろう」


 それは紛れもない事実だった。そして、イリスが囚われている現実でもあった。

 過去がなかったことにはならないからこそ、失ったものを取り戻そうとイリスは自分でも知らないうちに躍起になっていたのだ。


 どんなにリュカにそんなことは望んでいないと言われていても、イリスは自分がウィレンツィア王国の王女であるのならば、奪われた国を奪還するために尽力せねばと、犠牲になった人々のために仇を討たねばと、心の何処かで思っていた。


 八年前のドルシグの乱で命を落とした人々が大勢いる中で、イリスは運よく助け出され都合よく記憶を失くし、のうのうと八年も生きていた。イリスが生き残りの王女かもしれないと知らされたその時から、その事実がイリスに重く圧し掛かっていた。

 イリスだけが生き延びたことを、誰も罪だとは言わないかもしれない。けれどイリスの中でそれは、完全に罪だったのだ。


 そしてそんな罪を負った自分を敢えて危険な立場に置くことで、イリスは自分の感じている罪の意識からきっと逃れていた。

 民を護るために敢えて危険な旅に出てドルシグ帝国に狙われる立場になっているのだから、これで少しは贖罪になるだろうと言わんばかりに……。


 けれどそんな心持ちでは、例えウィレンツィア王国を奪還したとしても、仇であるエルヴィン皇子を討ったとしても、その後悔が拭えることはないだろう。


「過去は変えられないのなら……どうしたら……」


 先程のダンの言葉がイリスの胸に深く突き刺さる。イリスは完全に混乱していた。

 そんなイリスにゆっくりと歩み寄ると、ダンは優しくその手を取った。


「俺達は、過去を抱えながら未来を生きていくしかないんだ。過去に囚われ過ぎるな」

「……」


 漆黒の隻眼がイリスを真っ直ぐに見つめる。イリスは今紡がれた言葉を、ゆっくりと胸の中で繰り返した。


(過去を抱えながら、未来を生きる……)


 言われていることは分かるのだが、言うだけなら容易い。実際はそんなに生易しいものではないだろう。


(囚われることと抱えることは、どう違うの)


 イリスの後悔は一生消えることはなく、その後悔や罪の意識とは一生付き合っていくことになる。だがその後悔と罪に、囚われ過ぎず抱えるとは、一体どうすればいいのだろうか。


 考え込んでしまったイリスを前に、その思考を読み取ったかのようにダンが言葉を重ねた。


「最初からなんてできやしないさ。だが、意識は変えられる。例えば罪の意識からドルシグ帝国に対して復讐を果たすのか、これからのウィレンツィア王国のために未来を掴み取る戦いをするのかは、自分で決められる」

「!」


 ダンの言葉が、混乱しきりだったイリスの胸に急にストンと落ちた。

 その言葉は暗闇を照らす光のように、胸の奥を灯している。それはまだとても小さな光だったが、確実にイリスの心を照らしていた。


「……貴方の言う通りだ。過去は変えられない。過去はなくならない。私は自分の後悔を抱えながら、未来を掴み取るために足掻かないといけない……」


 イリスは取られた手を離すと、自身の胸の前で何かを掴むかのように手をしっかりと握り込んだ。

 この手は今まだ何も掴んではいないけれど、これから掴み取らねばならないのだ。

 

 漸く少し表情が和らいだイリスを見て、ダンも一つ安堵の息を吐き出す。

 だがその吹っ切れた表情を見て眼帯に覆われた左目の奥が疼き、ダンは思わず眼帯の上から左目を手で押さえた。


「お前さんには……俺のようになって欲しくないんだ」

「……え?……ごめんなさい、よく聴こえなくて」


 不意の呟きに、自身の手を見つめていたイリスが顔をあげる。その言葉は囁くような呟きだったために、この距離でも聞き取ることはできず聞き返してしまった。

 だがダンは軽く首を振ると、真っ直ぐに見つめてくるイリスから視線を逸らした。


「……いや、何でもない」


 ダンは何処か寂しそうに笑うだけで言葉を濁し、それきり口を噤んだ。

 何か重要な事だったのではとも思うが、ダンがこれ以上教えてくれる雰囲気ではないことを察してイリスはそれ以上問うことを止めた。


(これから、しっかりしなくちゃ)


 イリスは握り込んでいた拳から力を抜くと、片手を胸に当てる。先程まで感じていた不安な思いは、もうどこにもなかった。

 やるべきことは前と一切変わっていない。イリスはこのまま記憶を取り戻すためにオートレア王国を目指すし、確定したあかつきには王女として、ウィレンツィア王国奪還に向けて革命軍に協力するつもりだ。


 しかしその心持ちは、以前とは天と地程も違っている。


 イリスは自分自身の後悔と漸くしっかりと向き合うことができ、やっと少しだけその後悔を受け止めることが出来たような気がしていた。






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