一時の休息
例の大きな屋敷を後にし、少し行くと通りの反対側に宿屋を見つけ、一行はその扉をくぐった。
宿屋は奥行きがあり中は思いの外広く、一階は食堂も兼ねているようで何組か客達が雑談しながら食事をしていた。
ここまで来る間に往来ですれ違った人々の表情が一様に暗く言葉少なだったためか、やっと活気のある雰囲気を見てイリスは安堵を覚えた。
レオンが宿泊の手続きを済ませている間に、ロイはすでに奥の壁際の席に座って皆を手招いていた。
手続きを終えたレオンを伴ってロイの所へ向かうと、テーブルに座って食事をしていた客達は皆一様に会話を止め、イリス達を怪訝な表情で見ていた。
だが話しかけてくるわけでもないので、イリスは目を合わせないようにして真っ直ぐにロイのいるテーブルを目指す。
絡まれたり変な言い掛かりをつけられたりしても面倒でしかない。前を歩くレオンも同様の対応を取っていた。だがリュカは、そんなことを自分で判断することはできないだろう。けれど他の客達を前にしながら、目を合わせないようにして欲しいなどこの場で言うわけにもいかない。
リュカが他の客達と何か問題を起こすことがないよう対処しなければとイリスは急いでリュカを振り返ったのだが、リュカにはそんな心配は無用だった。
疲労困憊で俯き加減に歩くリュカは他からの視線になど気付く余裕はなく、ロイが座るテーブルの空いた椅子しか目に入っていない様子だった。
あれこれ策を巡らせていただけに、そんなリュカの姿を見てイリスは思わず笑ってしまっていた。
「ふふふっ」
「……なんだよ」
「いや、辛そうだなと思って」
イリスの笑い声に気付き、自分が笑われていると気付いたようでリュカが顔をあげてイリスを睨む。
しかし、目は半開きで意識も朦朧としており、全く凄みを感じない。それどころか疲れ切った表情で睨むものだから逆に変な顔になっていて、余計に可笑しくなってイリスは笑い声を止めることが出来なかった。
リュカは益々眉を顰めるが言い返す気力も無くなったようで、ロイの待つテーブルまで辿り着くと黙って腰を下した。
「お兄さん達は旅の人でしょう?ナリシェを通るなんて珍しいね」
全員が席に着いたところで、女性にしては少し低いが明るい声が降って来た。
一同が見上げると、先程宿屋の入り口で受付をしていた女性がお盆に水の入ったグラスを乗せてテーブルの脇に立っていた。年の頃は二十代半ばといったところだろうか。レオンやロイよりも年上に見えた。
艶やかなオレンジがかったブロンドの髪を後ろで一つに束ねているため、彼女が動く度にその毛先が揺れている。着ているシャツワンピースはシンプルながら立襟になっており首元が隠れる珍しいデザインで、上に重ねられた真白なエプロンが彼女の女性らしさを一際引き立たせていた。
「そうだよ。帝都から来たんだ」
ロイが外面全開の良い笑顔でにこやかに答える。藍色の柔らかな髪を揺らしながら顔を僅かに傾げ、その整った顔に人懐っこい笑顔を浮かべる爽やかな青年を前に、彼女は頬を染めながらテーブルに一つずつグラスを並べた。
「この食堂のお勧めは何?」
「あっ、うちの自慢は牛のトマト煮込みなの。あとはこの辺で採れる野菜のサラダとか根菜を使ったスープとかかな?」
空になったお盆を小脇に抱えロイをうっとりと見つめながら答える彼女と、それに笑顔で対応し続けるロイに呆れたような視線をレオンが向ける。その様子が可笑しくてイリスはまたクスクスと笑い声を溢した。
イリスの隣では相変わらず他からの視線に全く気付くことなく、テーブルに頬杖を付いたリュカは今にも船を漕ぎだしそうになっていた。
「じゃあ、それを全部貰おうかな。それと、あそこのテーブルの人達が食べているものも」
彼女はロイが指差した方のテーブルを振り返って確認する。
「あ、川魚のソテーとチキンの香草焼きね。分かったわ」
テーブルにはイリス達四人が座っているのだが、まるで客はロイ一人だけであるかのように、彼女はロイのみに視線を注ぎ話しかけていた。
ロイはそんな彼女から視線を逸らさず見つめたまま、彼女がお盆を持っていない空いている方の手をそっと掴んだ。
「!」
「……え?」
不意に手を取られ彼女はびくりと肩を震わせると、すぐさま手を引っこ抜きロイの手を振り払った。
そのあまりの素早い対応に、イリスは一瞬何が起こったのか分からなかったほどだ。
「っ、あ、あの!……ごめんなさい!急だったから驚いてしまって」
「ああ、いや。こちらこそ悪かったね。急に触れたりして」
彼女はイリスの疑問の声に我に返ると、慌てて捲し立てるように言葉を並べた。それがかえって言い訳のようにも聞こえてイリスは益々首を捻る。
小脇に抱えていたお盆を今度は両手で胸の前に抱えるようにして持っており、それはまるで再び手を取られることがないようにしているようでもあった。
(さっきまで見とれていた相手よね。急に触れられたからって、そんな対応になるもの?)
先程までの彼女は、明らかにロイに好意的な感情を持っていた。にも関わらず、そんな相手から急とは言え手に触れられたくらいで、すぐさま振り払うものだろうか。
(ロイも、一体何を考えているのかしら)
ロイは周囲をよく見ていて、困っている人がいるとさり気なく助け舟を出したり気遣いができる人物であり、明るく場を和ませるムードメーカーのような存在だ。
難しいことはレオンに任せて自分は何も考えていないように周囲に見せかけているが、その実、ロイの言動は全て計算し尽くされている。だから、急に初対面の女性の手を取るなど、そんな突発的な行動を無意味にするなどありえなかった。
だがそうと分かっていても、イリスにはロイが何の目的でそんなことをしたのかまでは分からない。今はただロイの動向を見守るしかなかった。
「あの、まだ何か……」
彼女が訝し気にこちらを見つめる。ロイの行動で先程までの盛り上がっていた会話は鳴りを潜め、今は不穏な空気が漂っていた。
「ああ、この町を通るのは珍しいってさっき言っていたけれど、あまり旅の人は通らないの?」
注文も受け終わっているので早く戻ろうとする彼女に、ロイが問いかける。
先程までの恋する乙女のような視線から完全に不審者を見るような目つきになっていた彼女だが、そこは客商売をしているだけあって、害のない会話と分かると少しだけ警戒を解いて質問に答えてくれた。
「旅人も商人も、大体の人はもっと西にあるちゃんとした街道の方を通るから、街道沿いにあるルイノアールの町に行くのよ。街道の方が道も整備されているから、馬とか馬車を使う人は絶対向こうを通るしね。お兄さん達は街道を通らずに来たの?」
「そうだよ。エダルシア王国まで急いでいるんでね。帝都から真っ直ぐに来たんだ」
「そういう人達のためにこの町は造られたのよ。まぁもっとも、あんまり人は通らないんだけれどね」
「そうなんだね。ありがとう」
ロイが軽く手を振ると、彼女もこれで会話は終わりとばかりに、駆けるようにして厨房へと戻って行った。
「なるほどね。ルイノアールに対抗しようと町を美しく整備したが、やはり街道が通っていないために客足は今一つ、ってところか?」
彼女の姿が完全に厨房の奥に消えたのを確認してから、黙って会話を聞いていたレオンがグラスを手に取ると一口水を口に含んだ。
「なあ、何で俺達は馬とか馬車を使わないんだ?」
もはやテーブルに完全に突っ伏していたために寝ているのかと思っていたリュカが、顔だけを横に向けて隣に座るイリスを見上げた。
馬や馬車を使わない一番の理由は、ドルシグ兵の襲撃に遭うかもしれないからだ。馬車を使っていれば御者の身も危険に晒しかねないし、馬も襲撃に驚いて暴れると手が付けられず怪我をする危険性もある。
しかしその理由を今この場でリュカに説明するわけにはいかない。周囲の目と耳があるからだ。周囲の客達は明らかに、この町には珍しい旅人の会話に耳をそばだてている。不用意なことは言えなかった。
イリスがどう答えたらいいものか悩んでいると、レオンが当然とばかりに口を挟んできた。
「一番はお前の体力作りだ。そんな体力ではストレアル山脈を越えられないだろ」
イリスを見上げていたリュカが、テーブルに顔を付けたまま視線だけで正面に座るレオンを見上げた。もう顔を動かす気力もないらしい。
「えぇ……。寧ろ逆に、日々山脈越えの体力が削られていってる……」
リュカの悲壮な呟きを聞いてイリスは励ます言葉を口にしようとしたのだが、憔悴しきったリュカの言葉と表情が何だか可笑しくて堪え切れず笑い声を溢した。
「ひどいな……人がこんなに苦しんでいるのに」
笑い声を耳にし非難めいた視線を向けてきたリュカに、イリスは手を合わせて謝る。
「ごめんごめん。大丈夫、ちょっとずつ体力はついているはずだから」
「……これで?」
「……たぶん?」
テーブルに突っ伏してリュカが低く唸り声をあげる。納得は出来ないらしい。
確かに日々の長距離移動と鍛錬でリュカの身体は疲労が蓄積しているが、体力自体は少しずつ付いていっている。
その証拠に、朝の鍛錬で実戦形式で打ち合っているのだが、その打ち合いが少しずつ長くなり、短い時間で休憩を挟まなくても鍛錬を続けられるようになってきていた。
「どうぞ」
「……あぁ、美味そうだ」
イリスとロイとでリュカを励ましつつ宥めていると、テーブルの上には次々に美味しそうな料理が運ばれてきた。湯気のあがる温かいスープにリュカの目が生気を取り戻す。
そんな様子を微笑ましく見ながら、久しぶりにしっかりとした食事を一同で味わう。一口頬張るたびにリュカが「死ぬほど美味い」だの「生き返る」だのと大げさに表現しながら目を潤ませるので食卓に笑いを誘っていた。
何気ない会話に花を咲かせ温かくて美味しい食事に安らぎ、一時の休息を得ていた正にこの時、他の客達のよそ者を訝しむ視線に混じって、そうした視線とは異なりイリス達に向かって鋭い視線を向けている者がいることに、この時は誰も気付くことはなかった。




