ドルシグ帝国第三皇子 エルヴィン
「あれが……」
瞬きすらも忘れて、目の前にいる人物を食い入るように見つめる。
ドルシグの乱を経てウィレンツィア王国を実質支配下に置きながらこの八年間沈黙を貫いていたにもかかわらず、ここに来て急にウィレンツィア王国に常駐しているドルシグ帝国軍の動きが活発になってきているとの報告は、イリスの元にも届いていた。
サンスタシア帝国騎士団内でも情報共有がなされ、警戒を強めていたところだ。
そのウィレンツィア王国に常駐しているドルシグ帝国軍の指揮を執っているのが、ドルシグ帝国第三皇子、エルヴィンその人である。
黒い話の絶えない人物で、つい一年ほど前にドルシグ帝国は当時の皇帝を第一皇子が暗殺し新たに皇帝位に就いたのだが、その第一皇子、そして第二皇子をも第三皇子だったエルヴィンが次々と暗殺したのだ。もっとも、帝位のために殺し合うのは実力主義のドルシグ帝国においては珍しい事ではない。
だが、皇帝位に就くものと思われたエルヴィン皇子はその座を第四皇子に譲り、自身はウィレンツィア王国で軍の指揮を執っている。
エルヴィン皇子の狙いは、千年前の世界大戦後ウィレンツィア王国に封印された「世界の力」を手に入れることだと目されていた。
森の入り口を背に相変わらず悠然と馬に跨っている件の人物を、イリスは改めてじっくりと観察した。
その佇まいには一部の隙もなく、相当な手練だと分かる。
黒を基調とした軍服に身を包み、腰には普通より大振りな剣を佩いている。均整の取れた顔立ちをしており細身ではあるが、しっかりと筋肉の付いた体躯をしているため大剣であっても難なく使いこなせるのだろう。
手が僅かに震えていることに気付き、イリスは震えを抑えるように剣を握る手に力を込めた。
(何故、エルヴィン皇子がここに?)
ウィレンツィア王国に常駐し「世界の力」を得ようと画策している人物が、何故ウィレンツィア王国を離れこの場にいるのか全く見当がつかない。
(この青年に、それだけの価値が?)
イリスの隣で青褪めている青年をちらりと盗み見る。仮にこの青年にドルシグ帝国から追われるだけの何らかの理由があったとして、ドルシグ帝国兵が追うだけでは事足りず、指揮官であるエルヴィン皇子が直接捕えに来る程の最重要人物だとでもいうのだろうか。
(いえ、今はそんなことよりも彼を助ける方が先決なはず)
軽く首を振って、イリスは不要な考えを振り払う。
今はとりあえずこの場をどうするのかを考えなければならない。
イリスは大きく息を吸い込むと、森の入り口に向かって声を張り上げた。
「ドルシグ帝国のエルヴィン皇子とお見受けする。我がサンスタシア帝国に如何なる御用がおありだろうか」
ドルシグ帝国の皇子だと知っていて尚剣を構えたままにすることで、サンスタシア帝国を敵に回す思惑があるのかどうかを確認する。
今イリス達がいる位置から後方にあと数キリルで、サンスタシア帝国領土内に入る。仮にこのまま攻撃を仕掛けられたとしても、すぐさま後退すればその刃が届く前に帝国領土内に入れるだろう。
領土内に入ってなお攻撃を仕掛けてくるようであれば、世界平和条約を破ることになる。それはもはや、ドルシグ帝国からサンスタシア帝国に対しての宣戦布告に他ならなかった。
千年前の世界大戦によって世界が一度滅んだ後、地上に残されたわずかな人々は同じ過ちを二度と繰り返さないために、世界平和条約、通称ウィレンツィア条約を制定した。
その条約の中には、世界の平和を守るために数多の条項が盛り込まれており、その中でも最も重要なものが、条約の最初に取り決められた掟だ。
「一、不可侵の掟」五つの国は互いの国や領土への干渉は一切行わない。領土外の場所は無主地とされ、どの国にも統治権はない。
「一、不変の掟」五つの国は条約で定められた領土の範囲を拡張してはならない。領土外となる無主地を開発、整備することの一切を禁じる。
この二柱の掟があることで、世界大戦から千年、平和は保たれていたといっても過言ではない。
この不可侵の掟によって、五つの国はお互い他国へ攻め入ることを禁止されている。この掟に背いた場合、他の四国は条約を違えた国を粛清する権限が認められている。
また不変の掟によって、五つの国は最初に定められた領土を維持することはできても国を拡張することはできない。それ故、五つの国の領土外の無主地はお互い不可侵領域として、科学技術がどんなに発展しようとも開発が行われることはなく、今なお豊かな自然が悠然と広がっていた。
この無主地での行動については条約で様々な規制がされており、主なものとしては、そこで科学技術を使用することは認められていない。
例えば、銃や大砲などの武器を使用することは認められていないし、もっと人々に身近なところで言えば、国家間の移動はこれほど科学技術が進んだ現在においても徒歩か馬、馬車が主流だ。
武器の使用は言わずもがな。国家間の移動手段については、一度に大勢が移動できる手段を開発してそれが軍事転用されることがないように規制がされている。
全ては、二度と世界を巻き込んでの戦争など起こさせないために作られた条約なのだ。
しかし、千年もの月日が過ぎれば現状と乖離する部分も少なからず出てくる。
その場合は、臨時の国際会議が開かれ条約の改定について話し合いがされた。
直近で言えば、国家間の移動手段として例外的にフラッデルでの移動が認められている。これは医療用に転用するという目的のためであり、元々国に数機しかないフラッデルなので軍事転用は難しいだろうと判断されたために認められていた。
この世界平和条約があることで、国家間の諍いは回避され、戦争など無くこの千年を過ごしてくることができていた。
しかしその条約が、今まさに破られようとしている。
イリスは剣をエルヴィン皇子に向けたまま、次の策を考える。
(さっき呼んだ応援が間もなく到着するはず。ならこのまま一人で突っ走るよりは、時間を稼いだ方がいい)
イリスは声が震えないよう留意しながら、声を張り上げた。
「私が立つこの場所より東は全て、サンスタシア帝国領になっている。先程、そちらの兵士が先に切り掛かって来たため、こちらもそれ相応の対応を取らせて頂いた」
大きく息を吸い込んで一拍置き、更に続ける。
「一時の間違いならば咎めはしない。しかし、そちらが条約を違えようとするならば、今この時より貴殿を我がサンスタシアの敵と見なす」
「……ふっ」
先程まで余裕の表情を崩さず悠然と馬に跨っていたエルヴィン皇子だったが、イリスの発言を受けてさも面白いものを見たと言わんばかりに口角を上げて笑っていた。
その嘲笑は、明らかにこちらを馬鹿にしておりイリスの頭に瞬時に血がのぼる。
「なっ……!」
何か言い返そうとイリスが口を開きかけたその時、後方から聞き慣れた機械音が聞こえてきてイリスは我に返った。
微かに聴こえた音はあっという間に大きな音へと変わり、イリスの両隣に二機のフラッデルが降下しエンジンを停止させる。
イリスの両隣に降り立った二人は、目の前の状況を一瞬で把握し事の重大さを理解した。
「……ドルシグ帝国の皇子じゃないか」
「イリスは無事……みたいだね」
イリスに声を掛けながら、二人がフラッデルを降り腰に佩いた剣を鞘から抜いた。
二人共皇帝直属の騎士であるインペリアルガードのため、イリスと同じく真っ白な軍服を着ている。そして彼等とイリスの三名だけが、インペリアルガードの中でもフラッデルを操る「フラッデル隊」に所属していた。
「大丈夫、ありがとロイ。レオンは援護を、ロイは後ろに居る彼の保護をお願い」
エルヴィン皇帝から視線を外さずに、イリスは二人に声を掛けた。
イリスの指示を受けて、レオンは剣を握り直して体勢を整える。ロイは後方で動けないでいる青年の前に立ち自身の背に庇った。
周囲は静まり返り、再び沈黙が流れる。
聞こえるのは、相変わらず草原を渡る風が揺らす草葉の音と、朝日を浴びて起き出してきた鳥達が空を囀ずりながら羽ばたいて行く音だけだった。
(どうする?一国の、ましてドルシグ帝国の皇子相手にこちらから手を出すべきじゃない)
下手に動けば国際問題に発展してしまいかねない。纏まらない考えばかりがイリスの頭の中を駆け巡っていた。
しかし、そんな沈黙を破り状況を動かしたのは、エルヴィン皇子その人だった。
「噂は我が国にまで届いている。フラッデルを自在に操り、空中を駆け敵をなぎ倒す。一騎当千と謳われる騎士がサンスタシアには居ると」
威圧的な響きを含んだ低い声が静寂を破る。
「まるで舞でも舞っているようだった」
侮蔑的な笑みを浮かべるエルヴィン皇子に対して、一瞬眉を寄せてしまった自覚はあった。そんなイリスの表情の機微をエルヴィン皇子は見逃さない。
「褒めているのだよ」
その言葉とは裏腹に、声にも表情にも嘲笑が混じっている。
(完全に馬鹿にされている)
そうは思うものの、ドルシグ帝国の皇子に対してどのように返したらいいものか。返す言葉を考えあぐねていると、エルヴィン皇子は次に信じられない言葉を吐いた。
「実に楽しい時間だった。もう帰還するからそう構えずとも良い」
「……は?」
発せられた言葉の意味が分からず、間抜けな声が漏れた。
目は見開かれ、開いた口は塞がっていなかったことだろう。おそらくきっと三人共、同じ顔をしていた。そんなこちらの様子を嘲笑うかのように、エルヴィン皇子は周囲の兵士に何やら声を掛けると、本当に背を向けて退却を始める。
「……っ、何の目的でここに来た!」
呆気に取られながらも、去り行く背中に大声で叫ぶ。
しかし退却を始めたエルヴィン皇子は、もうこちらに一瞥をくれることもなく西へ伸びる街道を悠々と馬で駆け、ドナの森の中へ消えていった。




