一縷の望み
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アイザックの話を黙って聴いていたイリスは、零れ落ちそうになる涙が頬を伝う前に何度も腕でそれを拭った。
八年前以前の記憶が無いイリスではあったが、昔からアイザックとの父子関係、祖母であるアンナとの関係に僅かな疑問と矛盾を感じていた。
アンナの小屋にはイリスという子供がいた痕跡がなく、それは連れてこられた帝都のアイザックの家でも同じだったのだ。イリスの生活用品から服に至るまで、イリスの持ち物が一切無かったからだ。しかしそれを問いただすことは、この関係に決定的な亀裂を生みそうで幼いながらもイリスはどうしてもそのことを聞くことが出来なかった。その理由が、漸く分かった。
自分が感じていた違和感が何だったのか、心の何処かでイリスは分かっていたのかもしれない。だからアイザックの話に衝撃は受けたものの、冷静に受け止めることが出来ていた。
アイザックはウィレンツィア王国でイリスを託されてからアンナ宅で匿い、ユリスとも共に過ごしたことなどを掻い摘んで簡潔に教えてくれた。
途中、その当時の記憶が蘇ることがあったのだろう。時折目を細め慈しむような表情を見せたり、苦笑しながら話を止める時があった。
イリスには詳しく語ってはくれなかったが、数日とはいえ、父と母の間には確かな想いがあったのだと感じるには十分な話の内容だった。アイザック自身はその辺りを隠して話しているつもりだったのかもしれないが、零れ落ちる想いが言葉の端々から伝わってくるようだった。
そのことが、イリスには嬉しかった。
イリスをウィレンツィア王国から託されたのも、アンナ宅で匿ったのも、今まで仮初めの父子関係を続けてきたことも、アイザックにとっては仕事の一環であり義務だったことだろう。しかしその義務の中にも、母との思い出というものがあったのだと思うだけでイリスの心は救われるようだった。
自分に対する全ては偽りだったとしても、その過程で出会った母との中には確かに真実があったのだ。
「父さん、おばあちゃん。今まで、私の事を護ってくれてありがとう」
深々と頭を下げ、今までの感謝を伝える。
イリスの言葉に、ハンカチで目元を押さえ咽び泣いていたアンナは、堪え切れなくなり大粒の涙を零した。イリスを見て何か言おうとするも言葉にはならず、懸命に首を横に振っている。
そんなアンナに苦笑しながら、次にイリスは父であるアイザックを見た。
アイザックはずっとイリスを見つめていたようで、視線を向けた瞬間目が合った。アイザックは困ったように肩を竦めながら、イリスに向かって優しく微笑んだ。
「その言い方だと、もう私達にはイリスを護らせてはくれないのか?」
「……そんなことは」
否定しておきながら言葉に詰まる。二人には八年もの間迷惑を掛けてきたのだ。現にアンナの小屋にはドルシグ兵が押し入りその身が危険に晒されているし、イリスを匿っていることで今後サンスタシア帝国に対してもドルシグ帝国が何かを仕掛けてくるかもしれない。そうなればもうイリス個人の問題ではなく、国家間の問題に発展しかねない。最悪は戦争になるかもしれないのだ。
イリスはその考えに至り、自身の存在に途方もない罪悪感を感じた。
(自分がここにいるだけで、皆に迷惑を掛ける……)
サンスタシア帝国にいない方がいいというだけの話ではない。先日リュカ達からの話を聴き自分が亡くなったと思われていたウィレンツィア王国の王女かもしれないと知ってから、自分は生きていない方がいいのではないかとイリスは思い始めていた。
千年前の世界大戦後に封印されたとされる「世界の力」は、ウィレンツィア王国王家の人間が二人いることでその扉の封印が解ける。現在生き残っているウィレンツィア王国王家の人間は先代国王ただ一人とされていた。そこに突如として浮上したのが、亡くなったと思われていたが実は生き残っていた王族の存在だ。
その生き残りの王族であるかもしれないイリスさえいなければ、「世界の力」は永遠に封印されたまま日の目を見ることはない。戦争に使われる力など、封印されたままの方がいいのだ。
そんな思いが胸を過った時、頭の上を柔らかな重みが覆った。
何が起こったのかと見上げると、座っていた対面のソファから立ち上がったアイザックがイリスの前に膝を付き、その頭に大きな掌を置いていたのだ。
アイザックは愛おしそうにイリスを見つめると、優しくその琥珀色の髪を撫でた。
「サンスタシアはそんなに柔な国じゃない。それはお前自身が良く知っていることだろう?お前一人護れない軍事力では無いと思うぞ」
「……でも……」
俯き黙ってしまったイリスが何を考えていたかなどお見通しとばかりに、アイザックがその想いを汲み取り否定してくれる。それでも自分の存在が周りに与える影響を考えてしまい、イリスは言葉に詰まった。
「それとも、お前はもう私達の事は家族だと思ってくれないと?」
「そんなことっ……ない……。でも……」
アイザックから視線をそらし、イリスが俯く。
自分がいるだけでどれだけの迷惑をかけるか分からないイリスではない。けれどそれと心は全く裏腹で、ここにいたいと力の限り叫んでいた。
(父さんとおばあちゃんを失いたくない。家族の傍に、サンスタシアにいたい)
それがイリスの本音だ。でも頭ではこれ以上ないくらい現状も分かっている。だからこそイリスは自分の想いだけを押し通すことが出来なかった。
「……はぁ」
「!」
頭の上で、アイザックが一つ溜息を吐くのが聴こえた。
(こんな浅ましい考えでいることに、呆れられたのかもしれない……)
アイザックは先程も、イリスが考えていることを見抜いていた。周囲への迷惑を顧みず自分勝手な想いでいることを見抜かれたのかもしれないと思うと、イリスは罪悪感に圧し潰されそうだった。
震えそうになるのを必死に抑えようと身体を固くした時、アイザックがふわっとイリスを両腕で優しく包み込んだ。
抱きしめられていると気付くのに、少しの時間を要した。何せイリスは記憶にある限り、アイザックに抱きしめられたという経験が無かったからだ。
「父親が娘を護るのは当然だろう。そしてそれは、祖母にだって言える。可愛い孫に少しぐらい困らせられても、どうってことない」
真実を知って尚、娘と呼んでくれるアイザックに、先程拭った涙がまた零れ落ちそうになるのを感じてイリスはぐっと唇を噛んで堪えた。
アイザックはイリスを優しく抱きしめたまま、言葉を重ねる。
「お前がいいと言ってくれるなら、お前は今までも、これからも、この先ずっと、私達の可愛い娘だよ」
堪えていた涙が一粒、イリスの頬を伝って流れ落ちる。
「と……さんっ」
「お前がいなくなったら、私は妻と娘を失うことになる。私をいつまでも、お前の父でいさせてくれ」
イリスはついに堪えきれなくなり、アイザックの胸に顔を寄せて嗚咽をあげた。
自分は死んだほうがいいと思っていた。生きていない方が世界のためだと思ったのだ。それが、ここにいてもいいのだと、たった一人でも言ってくれる人がいるだけでこんなにも心が救われるのだと知り、イリスは流れるままに涙を流した。
アイザックはイリスの涙が枯れるまで、その身体を抱きしめながら優しく頭を撫で続けてくれていた。
漸く涙が落ち着いた頃、イリスとアイザックは再び向かい合って客室のソファに腰を下ろした。
アンナはそのままイリスの横に座っている。アンナも涙で赤く腫れた目を時折押さえてはいるが、気持ちは少し落ち着いたようだ。
(父さんとおばあちゃんがいなかったら、私は今生きていないかもしれなかったんだな)
イリスはアイザックとアンナを交互に見つめた。
あの日、脱出したイリスの前にアイザックが現れなければ、イリスは無事にウィレンツィア王国を出られたかすら怪しい。あの場所にアンナの小屋が無ければ、高熱を出していたイリスはそのまま亡くなっていたかもしれない。
(私に出会ってくれたのが父さんとおばあちゃんで、本当に良かった)
奇跡のような出会いに、イリスはこの上なく感謝した。
だが正確には、イリスの恩人は後三人いる。母であるユリスと、アイザックと一緒にウィレンツィア王国からイリスを脱出させてくれたゼアン団長だ。当時はアイザックの下についていた一介の騎士だが、今では、第一近衛騎士団の団長に就任している。
そしてもう一人、混乱を極めていたであろうウィレンツィア王国の王城から危険を顧みずイリスを連れ出してくれた侍女だ。
(その人、まだ生きているのかしら)
イリスはその侍女の安否が気になった。イリスを無事に逃がすことに必死で、侍女のその後のことはアイザックも分からないと言っていた。
(命を掛けて私を助けてくれたんだもの。会って直接お礼が言いたい)
もちろんゼアン団長にも言うつもりだが、こちらは会おうと思えばいつでも会える。だが侍女は、イリスをアイザックに託した後何処に行ったのかも分からない。ウィレンツィア王国にいるのかさえ不明だ。
そんな思考を巡らせていると、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「……ねぇ父さん、私をウィレンツィア王国で託された時、『王女』だと言われたの?」
先程のアイザックの話によると、シーツに包まれた髪の短いイリスを見てアイザックが勝手に王子だと勘違いしたとのことだった。侍女との会話にも、どこにも明確に「王女」を表す言葉は出てきていない。
「流石だな。部下としてはこの上なく洞察力に長けていてお前は本当に優秀だよ」
こんな状況でも冷静に情報を分析し始めたイリスにアイザックが苦笑する。
基本的にアイザックは公私混同をしない。こんな時ではあるが、部下として上司であるアイザックに褒められイリスは嬉しかった。
「そうだな、お前が本当にウィレンツィア王国の『王女』だと示す証拠は一つもない。私もユリスの死後帝都に戻ってから、お前の素性を特定するために遺伝子鑑定などを試みようと思ったが、どれも実現しないまま今に至っている」
「どうして?」
「ドルシグに阻まれてな」
現代の技術であれば、その人の血液や唾液だけでなく、髪の毛やブラシなどからでも遺伝子レベルでの正確な判定ができる。しかしウィレンツィア王国がドルシグ帝国に占領されて以降、他国が王城に入り込むことが公にしても潜入するにしても難しく、それが出来ないでいたとのことだった。
「なら、私は本当は王女ではないかもしれない?」
そんなことはあるはずないと、イリスにも分かっていた。状況証拠があり過ぎるのだ。イリスが生き残りの王女で間違いないだろう。
けれどそんなことは分かり切っていても、イリスは僅かな希望を述べずにはいられなかったのだ。
しかしそんなイリスに、アイザックは眉間に皺を寄せ険しい顔付になった。
「そんなことはありえないと、自分でも分かっているだろう」
その言葉に、イリスは絶望し俯いた。自身の膝の上に置いた両の拳をぎゅっと握りしめる。
そんなことは言われるまでもなく分かっていたが、それでも一縷の望みに縋り付いていたかっただけなのだ。
しかしその僅かな望みも、アイザックが完全に断ち切る。まるで、王女としての自覚を持てとでも言いたげな口ぶりだった。
(どうして……さっきは父さんの娘でいてもいいって言ってくれたのに)
イリスの心の中に、まるで大きな石が何個も積み重ねられた様に重たいもので埋め尽くされていく。
(望んで王女に生まれたわけじゃない。望んで世界の命運を握る存在になりたかったわけじゃない。出来ることなら、本当に父さんと母さんの子として生まれて普通の人生を送りたかった!)
イリスの心が、悲鳴を上げていた。




