手紙
ユリスの眠るベッドサイドで泣きじゃくるイリスを宥め、何とか寝かしつけて落ち着いた頃にはもう外が白み始める時間帯だった。
新しい一日が始まるというのに、もうそこにユリスは存在しない。
その事実がまだ受け入れられなかった。昨日まで、病と必死に闘いながらも笑顔を絶やさず、懸命に生きていたというのに……。
今日は忙しくなるだろうからと、アイザックとアンナも仮眠をとることにして先程別れたのだが、アイザックはとても眠れる気がしなかった。
元々この家はユリスとアンナの二人暮らしのため、客人のための部屋はない。イリスは未だに寝ている時魘されることもあり、本人の希望もあってアンナと一緒のベッドで寝ている。アイザックは何かあった時にすぐに対応できるようにと、居間に椅子を並べてそこに寝ていた。故に、アイザックが仮眠をとるために戻るべき部屋はない。
一旦はユリスの部屋を出てアンナと別れたのだが、踵を返してまたユリスの元へと戻る。
そこには、穏やかな表情で眠るユリスが横たわっていた。
もう、アイザックが揶揄っても顔を真っ赤にして反論したり俯いたりしない。もう、抱きしめても戸惑いながらアイザックの背中に手を回して抱きしめ返したりしてくれない。
その事実が、アイザックの胸を無性に締め付けていた。
ベッドに腰を下ろし、そっとユリスの頭を撫でる。
掌をゆっくりと頭から滑らせ顔を撫でると、その頬は冷たかった。それがアイザックに現実を突き付けてくるようで、慌てて手を引っ込めるとユリスから目を逸らした。
世界が音を無くしたように、静けさだけがこの空間を支配していた。
否、もはや音だけではなかった。この世界の色も急激に色褪せ、世界が突然全く別のものに変わったような、ひどく空虚なものに感じられた。
身の置き場がなく戸惑う。こんなことは生まれて初めてで、アイザックはこれからどうしたらいいのか全く分からなかった。
『……あ、……』
ユリスから逸らした瞳が入り口脇に置かれた机を捉えた。そしてアイザックは、数時間前に託された手紙の存在を思い出す。
三通の手紙が入っていたはずだと思い出し、慌てて立ち上がると引き出しに手を掛けた。
しかし、予想に反して引き出しの中からは、五通の手紙が現れた。
不思議に思いながらも、その全てを手に取る。
ノートを折って作られた封筒には、確認するとそれぞれ宛名が書いてあった。
『アイザックさんへ』という一番上に置かれた手紙の宛名を見て、やはり自分にも書いてくれていたのだと顔が僅かに綻ぶ。三通の手紙を裏返しに手渡され託された時に予想はしていたものの、実際に自分宛だと分かると素直に嬉しかった。
一旦他の手紙を机の上に置くと、アイザックは再びベッドに腰を下ろして、ユリスの隣で自分宛に書かれた手紙の封を切った。
『アイザックさんへ
先ずは貴方に感謝を。私の人生で、貴方に会えたことが一番の幸福でした。母さんには悪いけれどね』
――ユリスらしい。
アイザックは生前のユリスの悪戯っぽい笑顔を思い出し、思わず笑みが零れた。
『男の人に可愛いって言ってもらったのは初めてだったし、手の甲に口付けられたのも、抱きしめられたのも初めてだったの』
――そうだろうなと、思っていたよ。
その時のユリスの反応を思い出し、アイザックの胸には熱いものが込み上げた。
ユリスが驚くほど真っ赤になったり恥ずかしがるので、つられて自分も恥ずかしくなったものだ。それを誤魔化すためについ揶揄う風を装ってしまったことだけが、今となっては悔やまれた。
『私は、貴方の事が好き。でもね、私の傍にいた異性が貴方だけだったから好きになったわけじゃないのよ。貴方は私に、死に対する気持ちは自分も同じだと言って、私を頑張っていると褒めてくれたことを覚えてる?』
――出会った最初の頃に、そんな話をしたことがあったかもしれないな。
記憶は曖昧だった。アイザックとしてはそんなに大した話をしたつもりはなかったのだ。
『その言葉にどれだけ私が救われたかなんて、貴方には分からないでしょうね。でも死期が近い私に対して、貴方は同情するでも憐れむでもなく、自分と同じだと言って寄り添ってくれた。それが、私にはとても嬉しかった』
――そんな風に、思っていたんだな。
アイザックの言葉がユリスの力になっていたのなら、これほど嬉しいことはなかった。
『貴方がいてくれて、私の最期はとても幸せだった。だって、貴方も私のことが好きでしょう?』
――ははっ。断言されてしまったな。
アイザックは微笑み、隣で眠るユリスを見た。
相変わらず穏やかな顔で眠るユリスは、まるで微笑んでいるかのようだ。
ユリスに対して確かに好意を抱いてはいた。けれどアイザックとしては、ユリスに対する想いがどういう類のものなのかよく分からず、自分の気持ちを量りかねていたのだ。
――自分では自分の気持ちがよく分からないのに、周りから見るとユリスを好いていることが一目瞭然だったのだろうか?
アイザックは手紙の続きに目を走らせた。
『だから、言わなかったことを後悔しなくていいわよ?伝わってるから』
――私がユリスを好きなことは、確定事項なんだな。
好意を抱いている以上、その想いの大きさに差はあれど「好き」は「好き」なのかもしれないが、ユリスの若干暴走気味な想いに思わず笑ってしまう。
――そんな風に思っていたのなら、それでいい。
アイザックとしては、己の本当の気持ちなどまだ分からない。しかし、アイザックからの愛を信じてユリスが心穏やかに逝けたというのなら、それでいい気がしたのだ。
だが次の文章で、アイザックは思い切り頭を殴られたような衝撃を受けた。
『という事にしておいて。死んでしまう私の最期の願い。貴方に愛された私でいたいの。幸せな妄想に、永遠に浸ることぐらい許してね』
――っ!!
アイザックの胸に、急激に後悔が押し寄せた。
ユリスは他の女性とは全く異なっていて、好意を抱いていたのは本当だった。それを常々言葉や態度でアイザックは告げていたつもりでいたのだが、そんなものは全くユリスには伝わっていなかったのだと思い知らされた。
アイザックに想われているというのは妄想だと思わせたまま死なせてしまった事実が、重たくアイザックに圧し掛かかった。
ユリスは死の恐怖に怯えることなく、懸命に生きていた。その生き様にアイザックは尊敬の念すら抱いていた。
運命を呪うでもなく、受け入れながら笑顔を絶やさずに生きる姿に、好意を抱くのに時間はかからなかった。
騎士であるアイザックに対しても言いたいことを言うくせに、頼ることはしない姿に感心すると共に、苛立ちを覚えた。もっと頼って欲しかった。病のせいで人に気を遣ってばかりいる姿を見て、もっと甘えて欲しいと思った。
――ああ……自分はもっと素直に、ユリスに好意を伝えておけば良かったのだ。
もう、どれだけそのことを言葉にしても、ユリスが微笑んでくれることはない。
――いや、……違う。どうしてここまできても、私は言い訳ばかりなんだ!
自分という人間に嫌気がさす。好意を抱いているだの、そんなのは言い訳だった。
認めたくなかったのだ。それを認めてしまうと、後悔してしまうことが分かり切っているから認めたくなかった。
言葉にして伝えなかった後悔を、この先一生抱えて過ごすことから逃げていたのだ。
もう甘い言葉を囁いても、ユリスがその頬を染めることはない。どれだけ愛を語っても、ユリスがそれに答えてくれることはない。
その事実が、消えない後悔となって押し寄せる。
――私は、……ユリスを愛していたのだ。
アイザックは眠るユリスの上に崩れ落ちた。やっとたどり着いた事実に、止めどなく涙が溢れた。
もう何をしても遅い。もう何も届かない。けれどそれでも、今のアイザックに出来ることは、届かないと分かっていても今更な想いを言葉にして伝えることだけだった。
『ユリス……私も君を愛しているよ』
アイザックはユリスの亡骸に突っ伏し、ただひたすらに涙を流し続けた。
どれだけ時間がたったのだろうか。窓の外はもう陽がすっかりと昇り、稜線を美しく染め上げていた。
己の頬を伝う雫を腕で拭う。
名残惜しいが、ユリスをこのままにしてもおけない。弔ってやらなければならないのだ。
そんな気分には一切なれなかったが、アイザックは意を決して立ち上がった。
『!』
ベッドから立ち上がった瞬間、ベッドの上に置いていたアイザック宛のユリスの手紙がバラバラと床に落ちた。
床に落ちたそれに目を向けると、ノートを切って作られた便箋が二枚あることに気付く。
手紙には続きがあったようだ。一枚目を読んだ段階で衝撃を受け、自分の不甲斐無さに打ちのめされて気が付かなかった。
正直、アイザックはこれ以上ユリスの手紙を読み進める勇気がなかった。
ユリスのいない現実さえ受け入れられていないのに、己の想いを自覚し、それが永遠に相手に伝えることが叶わない現実を突きつけられ打ちのめされているのに、これ以上の何かを受け止めきれる気がしなかった。
そうは言っても、ユリスがアイザックに残した言葉を受け入れないわけにはいかない。アイザックは慎重に、便箋の二枚目を拾い上げた。
二枚目は一枚目とは異なり、ノートの切れ端の真ん中に、文章は三行だけだった。
それは控えめに、けれどはっきりと綴られていた。
『でも、きっと、……私の妄想通りでしょう?
貴方を愛せて、私は幸せだった。
抱きしめてくれて、口付けてくれて、嬉しかった。幸せだった。貴方に会えて、良かった』
――ああ、ユリスはどれほど想ってくれていたのだろう。
きっと、一枚目で手紙が終わっていたら、ユリスはアイザックが後悔に苛まれると気付いていたのだ。だから、二枚目の手紙を残した。
さっき全て出し切ったと思ったはずの涙が、再び頬を伝う。
きっと、一枚目の手紙の方がユリスの本心だろう。病気を抱えて自分に自信が無かったユリス。それこそ、異性に好いてもらうなど夢のまた夢だったことだろう。
だからきっと一枚目の手紙にあるように、アイザックから好意のようなものは感じていたが、愛されていたなどということは心の底から信じてはいないだろう。
それでも、アイザックを想い、同じように想いを返してもらえていると信じていると伝えることで、これからのアイザックの心を救ったのだ。
アイザックがこの先、後悔に苛まれることがないように――。
床に散らばった一枚目の便箋と封筒も拾い上げ、再びベッドに腰を下ろしユリスの頬を撫でる。
相変わらず触れる頬は冷たい。それがこれから二度と覆ることのない現実だという事が悲しかった。
だが、アイザックの心は決まった。もうそれが揺らぐことは無い。
『ユリス、愛しているよ。君に永遠の愛を誓おう』
アイザックは冷たくなったユリスの唇に、そっと自身の唇を寄せた。
世界が滲んで生と死の境界が曖昧になり、アイザックには口付けられてうっすらと頬を染めて恥ずかしがるユリスが見える気がした。
最初で最後の口付けは、涙の味がした。




