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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第二章 八年前、始まりの日
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最期の時

 昨日は吐血した後ベッドに横になると、ユリスはそのまま今日までぐっすり眠ってしまっていた。

 昼夜を問わず呼吸が乱れたり胸が苦しくていつもは浅い眠りを繰り返すだけなのだが、昨晩は久しぶりに深い眠りに落ちることができていた。

 

 けれど夜になって就寝すると、やはり胸の痛みで目を覚ましてしまう。

 胸が苦しく、呼吸が上手くできない。ユリスは昨日のやり取りを思い出し、迷った末にそっと震える声でその名を呼んだ。


『アイ、ザッ、ク』


 皆が寝静まり他に何の音も聞こえない時間帯だ。窓の外では月が天空を煌々と照らしているようで、カーテンの隙間からユリスの掛け布団に月明かりが零れていた。

 ユリスは助けを呼んではみたものの正直こんな小さな囁きが聴こえるとは思わなかったのだが、直ぐにドアがノックされてアイザック入って来て、胸の痛みも忘れて驚いてしまった。


『そんなに驚くことか?敵は夜間だって襲って来るんだ。僅かな異音だって気付くさ』


 そう言って笑うと、アイザックは昨日と同じようにユリスの背を優しく擦ってくれた。


『実は昨晩も、ユリスの呻き声を聞いて部屋に入るかどうか迷ったんだ』

『……ど、うして、入らなか、ったの?』


 背中を擦ってもらって少しだけ呼吸が楽になりユリスが問えば、アイザックはニヤリと片方だけ口角を上げて悪戯っぽく笑った。


『妻とは言え、深夜に許可なく女性の部屋に入っていいものか迷ったんだよ』

『……ふ、ふふっ』


 言葉通りではなく揶揄われているのだと気付いて、ユリスはなんとか怒っている表情を装おうとするが、可笑しくて笑い出してしまった。

 ふと気づくと、他の事に気を取られて胸の痛みも少し和らいだような気がする。そんなユリスを見て、アイザックも一緒になって笑っていた。



 その後は痛みに苦しむこともなく朝まで眠ることが出来たのだが、目が覚めると外は生憎の雨だった。

 外に出られずイリスもさぞ退屈だろうと思ったのだが、今日は昨日の買い物で買い揃えたという食材を使ってアンナとお菓子作りをすると言っていて、台所からは愉しそうな声が聞こえてきていた。


 アイザックはここ数日で定位置となったユリスのベッドの脇に椅子を置くと、そこでアンナの部屋から借りたという本を読んでいた。

 

 今日のユリスはベッドに横になったままだ。

 見上げる天井に飽きて窓の外を見るが、今日は窓を打ち付ける雨の雫しか見えない。ユリスは視線を移し、室内をぐるりと見回した。

 部屋の入り口付近の壁には、今までのユリスの部屋にはなかった綺麗な花冠がいくつも飾られている。

 ここ数日でイリスがユリスに作ってくれた物だ。最初に作ってくれた白い花冠や綺麗な花を見つけたと言って作ってくれた青い花冠など、それらは今までの簡素な部屋を一変させるように、壁を華やかに彩っていた。

 

 ユリスを想って作られたそれらの花冠を、じっと見つめる。

 愉し気に笑いながら花冠を作っていたが、イリスが思い悩んでいることにユリスは気付いていた。


 あの日から十日以上経つが、イリスの記憶は未だにその片鱗さえ戻っていない。平気なふりを装ってはいるが、本人に焦る気持ちは多分にあるだろう。

 遠い場所から客観的に見ていると、それがよく分かるのだ。イリスは花冠を作っていた手が知らず知らずのうちに止まっていることがある。そして、何処かをぼんやりと眺めていたり、はたと気付いて首を振ったり、胸を押さえて蹲ることもあった。

 しかしそうした姿を知られたくはないようでひた隠しにする様子に気付き、アイザックと二人、見て見ぬ振りをしようと話していたのだ。


 しかし、とユリスは思う。

 自分はこの先、イリスと一緒にいてやることが出来ない。寧ろ自分の死が、イリスの記憶を呼び戻し更に苦しめることに繋がるかもしれないのだ。

 何もできない自分が歯痒かった。


(何か、イリスの役に立てることはないのかしら)


 ふと、花冠が飾られた壁の下に置かれた机がユリスの目に留まった。元はベッドサイドに置かれていた物だが、ベッドを窓の下に移動した際に同じく動かしたのだ。

 持ち物の少ないユリスの机なので、その上には何も置かれていない。引き出しに僅かな文房具が入っているだけだ。


 だがそこで、ユリスははたと閃いた。


『ねぇアイザックさん。机の引き出しにノートが入っているはずなの。ペンと一緒に取ってくれない?』


 アイザックは読んでいた本の頁に手に持っていた栞を挟むと、優しく微笑みながら本から顔を上げた。


『どうした?何か書くのか?』

『そう、手紙を書くの』

『手紙?誰に?』

『え、そりゃあ……みんな、に?』


 問われて思わずユリスは言葉に詰まった。

 勿論イリスには書くとして、今まで散々迷惑を掛けた母にも謝罪と感謝をきちんと伝えたい。となると、アイザックにだけ書かないというのも何だか違うような気がした。

 しかし書くとなると、アイザックに向けて何を書くのか、と思ったら言葉に詰まってしまったのだ。

 何をというか、書いて伝えたいことは一つしかない。しかし、そんな恥ずかしいことをしたためるかどうかを迷ったのだ。


 自分で言い出しておきながら思い悩むユリスに苦笑しながら、アイザックは椅子から立ち上がるとユリスの上体をベッドに座らせるように起こしてくれた。

 そして机の引き出しからノートとペンを取り出す。探し出すほど物も入っていないため、迷わなかったようだ。


『ちょっと待っていろ』


 そのまま手渡してくれると思ったのだが、アイザックはユリスに声を掛けると部屋を出て行ってしまった。

 どうしたのかとユリスが首を傾げていると、アイザックはすぐに戻ってきた。その手には、普段ユリスの食事を運ぶために使っている木でできたお盆が握られている。

 そのお盆を座ったユリスの太腿の上に乗せると、アイザックはその上にノートとペンを置いてくれた。書きやすい様に、簡易のテーブルを作ってくれたようだ。


『それで?俺には何を書いてくれるんだい?』


 揶揄うように顔を覗き込まれる。近付いた距離に早鐘を打つ心臓を悟られないようにしながら、ユリスは冷静を装って答えた。

 

『書いてもらう前提なのはおかしくない?でも、そうね。感謝とか?……面と向かって言いにくいことを書くのが手紙なんだから、覗かないでよ?』


 アイザックは面白そうに笑いながら、また椅子に腰を下ろしてユリスを見た。


『ははっ、言いにくいことね。……愛の言葉とか?』

『っ!……』


 冷静に対応するつもりが、思い切り動揺してしまいユリスは焦る。太腿に乗せられたお盆がズレ落ちて、その上に乗っていたノートとペンが床に音を立てて散らばった。

 アイザックは肩を震わせて笑いながら、腰を屈めてそれらを拾い上げる。ユリスは恥ずかしくて布団の中に隠れたいぐらいだったが、今は座っているので俯いて顔を隠すことくらいしかできなかった。


『父さーん、母さーん。クッキーが焼けたよー。食べるー?』


 その時、台所からこちらに向かて呼び掛けるイリスの声が聴こえた。


『あぁ、頂くよ』


 何事もなかったかのようにアイザックが声を掛けて立ち上がると、俯いたユリスの頭に掌を置いてポンポンと優しく叩いた。


『そんな顔しても可愛いだけだぞ?』

『っ!!』


 今度は顔を真っ赤にしたユリスを見て、アイザックが笑いながら部屋を出て行った。


 部屋の外からは、愉し気に何やら会話をしながら作業をしている音が聴こえてくる。きっと焼き上がったクッキーを用意した皿に並べているのだろう。

 その後アンナも交えユリスの部屋に戻ってきた三人と一緒に、お茶の時間を過ごした。

 勿論ユリスは固形物は喉を通らないのだが、イリスがせっかく作ってくれたのだからとクッキーを砕いてもらい、お茶と共に口に含んだ。

 久しぶりに口にした菓子はたまらなく甘くて、ユリスの頬を訳もなく涙が伝った。

 驚いた皆が、ユリスを心配して背中や頭を擦ってくれる。


(ああ神様。どうか、もう少しだけ私に時間を下さい)


 この温かい時間が今暫し続くことを、ユリスは願わずにはいられなかった。




 ◇◇◇   ◇◇◇




 それから三日、ユリスは起きている間は手紙を書くことに専念した。

 いざ書こうとすると思い悩んでしまい、なかなか進まなかったのだ。

 症状も日を追うごとに悪化し、身体を起こしていられる時間も限られるようになってきて時間がかかったのもある。

 しかし、それもあと少しだった。


『……できた!』

 

 自分でも納得がいくものが出来たように思いユリスが微笑む。出来上がった手紙を丁寧に折り、同じくノートを切り離して作った封筒のような物にしまい込んだ。

 

『レターセットくらい購入すればよかったのに』


 定位置のベッド脇に椅子を持って来て腰掛け本を読んでいたアイザックが、ユリスの言葉に顔をあげた。開け放っている窓からは、天気がいいのでいつもの丘で遊んでいるイリスの声も聴こえてきている。


『こんなものにお金を掛けなくてもいいの。それに、買ってもらうのを待っているうちに死んじゃったら、手紙を書くことが出来なかったって後悔しそうじゃない?』

『ユリスからの手紙は、()()()()()じゃないだろう?』


 少し苛立ちを滲ませながらこちらを見たアイザックに、ユリスは緩く首を振った。


『そんなにたいそうなものじゃないわよ。でも、……そうね』


 ユリスは全部で三つの封筒を眺め満足そうに微笑んだ。


『私にとっては大事なものかも。だから、この手紙をそこの引き出しに入れておいて、私が死んだら皆に渡して欲しい』


 清々しい笑顔で告げるユリスを、アイザックは眉間に皺を寄せて怪訝な顔で見つめた。


『……約束しかねる』

『えぇ?なんでよ』


 不満を表したユリスの前に、椅子から立ち上がったアイザックが立ち塞がる。

 突然の行動にユリスが戸惑っていると、次の瞬間、アイザックはベッドに座っていたユリスを身を屈めて優しく抱きしめた。


『!……』


 最初こそ、驚きと緊張と羞恥で身を固くしたユリスだったが、アイザックの様子がいつもと異なることに気付いて今度は戸惑った。いつものように、ユリスを揶揄うような行動ではなかったのだ。


 アイザックはユリスを抱きしめたまま微動だにしない。

 いつもユリスを抱えて移動してくれる時は暖かく包み込むような抱擁なのだが、今は不安げに抱きしめる腕に力が籠っていた。ユリスの肩に顔を埋めているため、その表情を窺い知ることはできない。


『……どうしたの?』


 アイザックは答えない。

 だがユリスには、おそらくアイザックが今考えているであろうことが分かっていたので、その背に自身の手を回すと優しく抱きしめ返した。


『……大丈夫。死ぬ覚悟はとうの昔に出来ているのよ。ずっと、病と闘って来たのだもの。私だって死にたくはないけれどね』


 そこで一拍置いて呼吸を整えてから、ユリスは続ける。知らず知らずのうちに、その目には涙が溢れていた。


『でも、最期にアイザックさんとイリスに会えた。母も一緒に四人で、こんなにも温かくて優しい時間を過ごすことが出来た。……もう、十分よ』


 頬を伝って温かいものが流れ落ちる。

 気付くと、ユリスの肩にもじんわりと温かさが広がっていた。アイザックが涙を流しているのだと理解するまでに随分と時間が掛かったが、それに気が付いた時、ユリスは嬉しくて更に涙が溢れた。


『ありがとうアイザックさん。私、貴方に会えて本当に良かった』


 アイザックの腕に包まれながら、ユリスは幸せな気持ちでいっぱいだった。








 その日、間もなく日付が変わろうかという深夜の時間、ユリスは皆に見守られながら静かに息を引き取った。

 今まで痛みに耐え血を吐いて苦しんでいたのが嘘のように、それは穏やかな最期だった。






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