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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第二章 八年前、始まりの日
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ささやかな日々

 ユリスは気怠い身体を何とか動かして、ベッドに横たわる体勢を僅かに直した。

 寸足らずのカーテンの隙間から見える窓の外はまだ薄暗い。しかし、朝日がもうすぐ昇り始めるのだろう。うっすらと白み始めているのが空の色から分かった。


(今日は、ちょっと体調が悪いかもしれない)


 アイザック達がこの小屋に来てから、数日が経っていた。

 あの日からユリスに偽りの家族ができたり熱を出したりと、様々な出来事があった。その疲れが出たのか、今日はいつにもまして身体が重く感じた。

 ユリスはそんな身体の不調から目を背けるように、掛け布団に包まりながらもう一度目を閉じる。部屋の中からは何の音も聞こえない。アンナもまだ起きてはいないようだ。


(……何の音かしら)


 室内に耳を澄ませていたユリスの耳に、窓の外から風を切る音が聴こえた。

 それは規則的なリズムを刻んでおり、明らかに誰かが人工的に出している音だった。だが、何の音なのかまでは分からない。

 

(アイザックさんかな)


 迷った挙句、ユリスは上体を起こしてみることにした。この音を出している人物など、ユリスには分かり切っていたのだ。

 この小屋でアンナと暮らしていて、未だかつてこんな音を聴いたことはないのでアンナではない。イリスもまだ寝ている時間なのでイリスでもないだろう。仮にイリスが早く起きて外で何かをしているのだとしたら、その傍にはアイザックもいるはずなのだ。イリスを一人でこんな時間に外に出すはずがなかった。


 ユリスは腕に力を込めて上体を起こそうとする。成人女性としては軽すぎるくらいなのだが、普段動かすことのない細腕では自分の体重すらまともに支えられない。無理をせず前腕をベッドに付け体重を支えて上体を起こすと、ベッドの脇に位置する窓枠に手を掛けてカーテンを引き外を眺めた。


『!』

 

 窓の外の景色に、ユリスは息を呑んだ。

 まだ夜明け前の紺と青と白が混じるグラデーションの美しい空を背にして、アイザックが剣を振っていたのだ。

 規則正しいリズムを刻みながら、何度も剣を振り下ろす。その銀色の刀身が振り下ろされるたびに、朝の澄んだ空気を切り裂いて音を奏でていた。


 まるで一枚の絵画のようなその光景に、ユリスは目を奪われた。


(綺麗……)


 どのぐらいそうやって見ていたのだろうか。アイザックが剣を振るのを止めてこちらを振り返った時、初めてユリスはその姿にずっと見惚れていたことに気が付いた。

 アイザックもユリスが見ていたことに気付いたようで、こちらに向かって歩いてきている。


(どっ、どうしよう!)


 ここで慌ててベッドに戻るのもおかしいだろう。どうしようもなくなり、結局ユリスは微動だに出来ず窓辺で俯いたままアイザックが来るのを待った。

 それほど距離があったわけではないので、直ぐに窓までやって来たアイザックが窓を軽くトントンと叩く。開けて欲しいという事だろう。ユリス慌てて手を伸ばして窓の鍵を開けた。


『おはようユリス。私の素振りはどうだった?』

『……私が見ていたのを知ってたの?……いつから?』


 顔を見なくてもその愉しそうな口調で、ユリスが見ていたことを知っていたと分かる。恥ずかしくて尚更顔を上げられないでいると、可笑しそうにアイザックが声を出して笑った。


『最初から』

『!……言ってくれればよかったのに』


 ユリスが顔をあげて不満を述べると、不意にアイザックが窓枠に腕を掛けて室内に顔を入れた。お互いの顔の距離が急に近付きユリスが離れようとすると、アイザックは窓枠に掛けていた手で優しくユリスの頬に触れた。


『顔色が良くない』

『!……そう、なの。ちょっと今日は体調が良くなくて』


 不調を見抜かれ、ユリスが気まずそうに視線を逸らす。アイザックはそんなユリスの様子を見て呆れたように大きく溜息を吐いた。

 そんなアイザックの溜息に、ユリスは身体が硬直して身動き一つ取れなくなる。迷惑を掛けていることが申し訳なくて、ユリスは俯いた。

 

 アイザックは窓枠に両手をかけて身を乗り出すと、何を思ったのかそのままひょいっと室内に飛び込んできた。そのあまりの出来事に、ユリスが思わず顔をあげて見入っていると、そんなユリスの頭にアイザックがポンと優しくその掌を乗せた。


『無理はするな。アンナに言いにくいなら私を頼るんだ』


 アイザックはそのままユリスの背中に手を回して、ユリスをベッドに優しく横たえる。


『何しろ私は、死期が近い妻にとことん優しくする夫なのでね』

『もう、それはいいから!』


 仰向けになったユリスの顔を覗き込みながらアイザックが愉しそうに笑う。ユリスは顔を背けながらも、嬉しくて頬を染めた。


『それで、今日は何をお望みですか?奥さん』


 昇り始めた朝日がアイザックの笑顔を更に輝かせていて、ユリスは頭から掛け布団を被って顔を隠した。




◇◇◇   ◇◇◇




『父さん、母さん!あっちに綺麗な青いお花が咲いてるの』

『イリス……あんまり走ると危ないわよ』

『大丈夫。摘んできて母さんにも見せてあげるわ』


 小屋の裏手に広がる丘陵をイリスが年頃の女の子の様に楽し気に走っている姿を、ユリスは眩しそうに眺めていた。


『いつも通り、遠くまでは行くなよ』

『分かってるー』


 部屋の中から掛けられたアイザックの声に振り返ることなく、手だけ大きく振って答えながらイリスは駆けて行ってしまった。


 ユリスは今、窓の下に移動されたベッドの上で、ベッドボードに背中を付けて座っている。アイザックは窓の外とユリスを見守れるように、いつもと同じようにベッドの脇に椅子を持ってきて座っていた。

 今までユリスのベッドは壁に沿って窓の横に縦に設置されていたのだが、アイザックが窓の外を見れるようにと移動してくれたのだ。そのため、こうして身体を起こすとユリスでも窓の外が良く見えた。


(こうしてゆっくり外の景色を眺めたのは、いつぶりかしら)


 駆けて行ってはしゃがみ込み、また丘を駆けていくイリスを見つめる。きっと、先程言っていた青い花を探しているのだろう。

 

(もっとずっと、眺めていたいんだけどな)


 正直、ベッドに座っているこの体勢でも長い時間は持たないだろう。死期が近いのが自分でも分かる。ユリスは身体の自由が段々ときかなくなっているのを感じていた。


 軋む身体を何とか背中のベッドボードで支えながら座っていると、不意に胸の辺りに痛みを感じてユリスは胸元の服を握り込んだ。


『ゲボッ、ゴホッ』

『ユリス!大丈夫か!!』


 ユリスは咄嗟に手で口元を覆う。その掌が真っ赤な血で染まっていた。

 アイザックが慌てて清潔なタオルを持って来て口元を覆ってくれる。ユリスは尚も血を吐き出し、少し落ち着いた所でアイザックによって身体を横たえられた。


『……布団とイリスは大丈夫?』

『血を吐いたのに、確認するところは先ずそこなのか?』


 呼吸も落ち着き、血の付いたタオルを片付けようとしているアイザックに気になっていることを訪ねると、眉間に皺を寄せて睨まれてしまった。


『イリスは花摘みに夢中でこっちに気付いていないよ。布団も汚れていない。……ん』


 呆れながらもユリスの知りたいことにアイザックが答えてくれる。その返答を聞いて安堵したユリスだったが、何かを催促するようにアイザックの手が伸びてきて首を傾げた。


『……血の付いたタオル。まだあるだろ』

『!!』


 催促するその掌を、ユリスはまじまじと見つめた。


 ユリスの吐血はここ最近では珍しい事でも何でもなく、寧ろここ数日はその回数が格段に増えていた。

 今日の夜中も咳き込んで吐血したのだが、その時の血が付いたタオルは、こっそりベットの中に袋に入れて隠していた。

 何故そんなところに隠しているのかと言うと、洗濯をするアンナに心配を掛けないためだ。

 吐血の回数が多いとそれだけで心配が増すのは明白だ。それならば、一つのタオルで何回かの吐血を拭い処理しておけば、ちょっと血の量が多いことは心配されるかもしれないが、回数が多いよりはその心労は少ないとユリスは考えたのだ。

 衛生的ではないだろうが、今さら清潔であることがユリスの延命にそこまで直結するとも考えにくい。ならば、心配と迷惑を掛けない方が優先だった。


『ゲボッ、ゲホッ!』

『ユリス!』


 そんなささやかなユリスの願いと抵抗も空しく、また胸に激しい痛みが込み上げる。

 胸を押さえ、必死に呼吸を整える。だが空気が上手く吸えず、何度か咳き込んで吐血を繰り返した。


『大丈夫だ。ゆっくり息をしろ。苦しくなくなる』


 ユリスの身体を横向きに変え呼吸がしやすい様に体勢を整えると、その背に手を添えアイザックが優しく撫でてくれた。背中を擦る手が温かく、ユリスはその優しさと温かさに甘えながら痛みと闘った。


『……ありがとう。もう、大丈夫』


 呼吸が落ち着いたところで、アイザックを振り返る。  

 すると何を思ったのか、アイザックがユリスの掛け布団の中に手を入れてきた。


『きゃあ!』


 何が起こったのか分からずユリスが驚いているが、そんなユリスを気に留めることなくアイザックは差し込んだ手を掛け布団の奥までさらに進ませた。その行動に文句を言おうとユリスが口を開きかけた時、アイザックが血の付いたタオルが入っている袋を掛け布団の中から引き抜いた。


『……知ってたの?』

『気付いていないと思っていることの方が心外だな』


 ユリスの背を擦るために立ちあがていたアイザックは、血の付いたタオルの入った袋を床に置くと、先程座っていた椅子に再び腰を下ろし真っ直ぐにユリスを見つめた。


『なぜ誰にも頼らないんだ?』


 その言葉は投げかけられた疑問というより、言い聞かせるような言葉だった。


『隠したいのかと思って気付かない振りをするのも、もう限界だ。アンナに知られて心配させたくないのなら、私を頼れ。一人で闘うことは無い』


 アイザックがユリスの頭を優しく撫でる。身体も心も限界のユリスは、それだけで堪えられなくなり両目から涙が零れ落ちた。


『アンナに聞こえないように小声で呼んでも私なら気付く。夜中でも、気にせず呼ぶんだ。いいな』


 元々ユリスとアンナの二人で暮らしていたこの小屋に客人を泊めるだけの部屋はなく、アイザックは居間に椅子を並べて寝泊まりしていた。そのため、ユリスの部屋の扉を開ければすぐそこにアイザックがいるのだ。すぐ傍に居てくれるというだけで、ユリスとしては安心感が違っていた。


『タオルを洗濯してくる。アンナには気付かれないようにやるから心配するな。それよりもユリスは一度眠った方がいい。イリスにも声を掛けておくから、ちゃんと身体を休めるんだ』

『……普通、男の人は洗濯なんてしないのよ』


 ユリスは掛け布団を引き上げて目元だけ出し、皮肉めいた言葉をぶつけた。隠し事が露見したのが恥ずかしくもあり、何から何まで迷惑を掛けているのが申し訳なかった。

 けれど立ち上がり部屋を出ようとしていたアイザックはユリスの声に振り返り、何でもないことのように微笑んだ。


『私は騎士だからな。普通に寮や野営では洗濯だってするし食事も作る。任せていい』


 再び歩き出し扉に手を掛けたアイザックは、そこで思い出したようにもう一度ユリスの方を振り返った。


『惚れ直したかい?奥さん』

『ほっ……!』


 一瞬にして真っ赤になったユリスが掛け布団の中にすっぽりと潜り込むのを見届けてから、アイザックは愉しそうに笑って部屋を出て行った。


(また熱が出たら、今度こそ許さないんだから!)


 二度の前科持ちなのに三度(みたび)揶揄うような台詞を言い放ったアイザックに、ユリスは心の中で盛大に文句を言った。

 


『……』


 誰もいなくなった静かな室内で、ユリスは掛け布団から目元だけ出して空を見上げた。

 穏やかな午後だった。風にカーテンがそよいでゆったりと揺れている。


 今日の体調は良くない。それは変わらないのだが、けれど気分は悪くなかった。

 洗濯を終えて帰ってきたアイザックに、体調が悪くなった振りをして困らせてやろうかなんてとんでもない悪戯を考えながら、ユリスはとても穏やかな気持ちでそっと目を瞑った。





 

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